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最弱魔王なのに勇者パーティに『史上最凶の魔王』と誤解されています〜怖くて訂正できないまま世界を救うことになりました〜  作者: 蒼月よる


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沈黙の外交術

 沈黙の外交術


 国境の町ヴェスターは、緊張の空気に包まれていた。


 五日間の旅路を経て、使節団は国境地帯のリンデン渓谷を見下ろす丘の町に到着した。町の中心にある会議場が、今回の交渉の舞台だ。


 建物の周囲には、双方の護衛兵が配置されている。空気がぴりぴりしていた。


(帰りたい。今すぐ馬車に乗って王都に帰りたい)


 ヴァルゼンの内心は出発時から一ミリも変わっていない。五日間でフェリクスからガルディアの情報を叩き込まれたが、頭に残っているのは外務卿の名前がアデルハイトであることと、リンデン渓谷の帰属が争点であること——この二点だけだった。


「ヴァルゼン殿。間もなく先方が到着します」


 ルドヴィークが落ち着いた声で告げた。交渉の場は長方形の大きなテーブルで、こちら側にルドヴィークとヴァルゼン、書記官二名が着座する。勇者パーティの面々は後方の席だ。


「あなたは——何もなさらなくて結構です。ただ、座っていてくだされば」


(座っているだけ。座っているだけならできる。多分。震えが止まれば)


 扉が開いた。


 ガルディア側の代表団が入ってきた。


 先頭に立つ女性が——アデルハイト外務卿だった。


 四十代半ば。燃えるような赤毛を高く結い上げ、鋼鉄のような灰色の瞳がこちらを射抜いた。軍服の上に外交官の儀礼用マントを羽織っている。軍事国家ガルディアの外務卿は、文官であると同時に武官でもあるのだろう。その佇まいからは、一切の妥協を拒む意志が滲み出ていた。


(怖い。めちゃくちゃ怖い。グリゼルダさんとは違う方向の怖さ。目が——目が本気だ)


 アデルハイトの視線が、ルドヴィークを捉え——次に、ヴァルゼンに移った。


 一瞬、動きが止まった。


「——魔王ヴァルゼン」


 低い声が、室内に響いた。


「噂は聞いている。王都で勇者と共に立ち、聖炎に認められ、宗教界を二分した存在——まさか外交の場にまで出てくるとは」


(出てきたくて出てきたわけじゃないんです。引っ張り出されたんです)


 アデルハイトの灰色の瞳が、ヴァルゼンの全身を値踏みするように上から下まで見た。


「小柄だな。もっと——禍々しい存在を想像していた」


(禍々しくなくてすみません)


 ルドヴィークが笑みを浮かべた。


「外見で判断なさらぬがよい、アデルハイト卿。この方は——見た目とは裏腹に、計り知れぬ深さをお持ちだ」


(持ってない。深さはゼロだ。浅瀬どころか干上がっている)


 交渉が始まった。


 ルドヴィークが淀みなく開口した。リンデン渓谷の帰属について、歴史的経緯、大戦中の共同作戦の記録、戦後の実効支配の状況——論点を整然と並べ、自国の主張を展開する。


 アデルハイトが即座に反論した。同じ記録を引用しながら、まったく逆の結論を導き出す。論理の切れ味は鋭く、ルドヴィークの論点を一つずつ切り崩していく。


 二人の舌戦は、剣と剣がぶつかり合うような緊迫感があった。


 ヴァルゼンは——何も言えなかった。


 言えるわけがなかった。二人の議論の内容が高度すぎて、半分も理解できない。歴史的経緯と言われても、リンデン渓谷がどこにあるかすら五日前まで知らなかった人間に、何が言えるというのか。


 恐怖で体が固まっていた。


 口を開こうにも、声が出ない。目の前で展開される知略の応酬に圧倒され、頭が完全に停止している。


(わからない。何も。何を言えばいいかも、何をすればいいかも。僕はただ——怖い)


 ヴァルゼンは黙った。


 ただ、黙った。


 一時間が経った。


 ルドヴィークとアデルハイトの議論は白熱し、互いに一歩も引かない展開が続いている。その間、ヴァルゼンは一言も発していなかった。


 だが——部屋の空気は、明らかに変わっていた。


 アデルハイトの目が、何度もヴァルゼンに向けられるようになった。議論の合間に、ちらり、ちらりと。


(見てる。アデルハイトさんが僕を見てる。何か言わなきゃいけないのか。でも何を——)


 ヴァルゼンは気づいていなかった。


 自分の沈黙が、交渉の場に異様な圧力を生み出していることに。


 魔王が黙っている。一時間も。交渉の内容に興味がないかのように。あるいは——すべてを見透かした上で、あえて語らないかのように。


 アデルハイトにとって、それは不気味だった。


 ルドヴィークとの議論なら読める。外交官同士の腹の探り合いは、長年の経験で対処できる。だが——交渉に同席しながら一言も発さない魔王の存在は、アデルハイトの計算式にない変数だった。


(この男、何を考えている)


 アデルハイトの額に、微かに汗が浮いた。


(黙っている。ずっと黙っている。ルドヴィークが発言するたびに——いや、私が反論するたびに、この男は黙ったまま私を見ている。まるで——私の論理の穴を、すべて見抜いているかのように)


 実際にはヴァルゼンが見ていたのは、アデルハイトではなくテーブルの木目だった。怖くて目を上げられなかっただけだ。


 だがアデルハイトには、そうは見えなかった。


 視線を落とし、微動だにしない魔王の姿が——「この程度の議論は論ずるに値しない」という無言の宣告に見えた。


 二時間が経った。


 アデルハイトの声に、最初の頃にはなかった焦りが混じり始めた。


「——ルドヴィーク宰相。そちらの魔王殿は、何かおっしゃることはないのか」


 ルドヴィークがヴァルゼンに目を向けた。


 ヴァルゼンは——凍りついていた。


(話を振られた。ついに振られた。何か言わないと。何か。何か知的なことを。外交的なことを。でも何も浮かばない。頭が真っ白だ)


 口を開いた。


 何も出てこなかった。


 閉じた。


 沈黙が、数秒間続いた。


 その数秒が——交渉の場では、永遠に等しかった。


 アデルハイトの灰色の瞳が、わずかに揺れた。


 後方の席で、フェリクスが息を呑んだ。


 そしてエルヴィンが——小さく、しかし確信に満ちた声で呟いた。


「……すごい。言葉を使わずに場を支配している」


 グリゼルダが深く頷いた。


「あの沈黙は——千の言葉より重い」


(重くない。空っぽだ。中身のない、ただの恐怖の沈黙だ)


 しかしヴァルゼンの内心は、誰にも聞こえない。


 交渉は、この沈黙を境に——思いもよらぬ方向へ動き始める。


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