宰相が動く時
宰相が動く時
王都での日常は、ヴァルゼンが望む限り穏やかだった。
問題は、穏やかさを許してくれる人間がこの王都にはほとんどいないということだ。
その日の朝食は、久しぶりに平和だった。ミラベルが焼いてくれたパンにバターを塗り、エルヴィンが豪快に肉を頬張り、フェリクスが紅茶を啜りながら手帳に何かを書き込んでいる。グリゼルダは剣の手入れをしながら黙々と食事を進めている。いつもの光景だ。
(こういう朝が、ずっと続けばいいのに)
ヴァルゼンがそう思った瞬間、宿の扉が叩かれた。
嫌な予感がした。百発百中の嫌な予感が。
「失礼いたします。宰相ルドヴィーク閣下より、ヴァルゼン殿への書状をお届けにあがりました」
使者は宰相府の紋章が入った正装に身を包んだ若い男で、恭しく封書を差し出した。封蝋には宰相の個人紋が刻まれている。
(宰相から。宰相から直接の書状。朝食の途中に。これは絶対にろくなことじゃない)
エルヴィンが目を輝かせた。
「おお! ヴァルゼン殿、宰相閣下からの書状だぞ! やはりあなたの存在は国家レベルで重視されているんだな!」
(重視されたくないんだけど。国家レベルで放っておいてほしいんだけど)
震える手で封を切った。
文面は丁寧だった。丁寧だが、その一行一行に老練な政治家の計算が匂っていた。
『隣国ガルディアとの国境紛争について、調停の使節団を派遣することとなりました。つきましては、ヴァルゼン殿にも同行を賜りたく——』
(国境紛争。調停。使節団。同行)
頭の中で単語が回転した。
(なんで僕が外交に。僕は元魔王——いや、名ばかりの最弱魔王で、外交なんてやったことがない。そもそも人と目を合わせるだけで緊張するのに、国と国の交渉に立ち会えと?)
「何と書いてあるのですか?」
フェリクスが涼しい顔で尋ねた。ヴァルゼンは書状を手渡した。フェリクスの目が文面を追い、モノクルの奥で瞳が光った。
「なるほど。宰相閣下は賢明だ。ヴァルゼン殿を外交カードとして使おうとしている。隣国にとって『魔王が使節団にいる』という事実そのものが、圧力になりますからね」
(使われようとしてる。政治の駒として使われようとしてる)
「いや、あの、僕はこういうのは向いてなくて……」
断ろうとした。断らなければならない。自分が外交の場に出たら、何も言えずに固まるか、怯えて逃げ出すか、どちらかだ。どちらに転んでも国際問題になりかねない。
「断りたい、と?」
ザガンが静かに言った。
「陛下。宰相閣下の依頼を断ることは、もちろん可能です。ただし——」
「ただし?」
「宰相閣下はこの国の政治の要です。その方の依頼を断るということは、政治的に敵対するという意思表示と受け取られかねません」
(断ったら敵。行ったら駒。どっちに転んでも地獄じゃないか)
ヴァルゼンは口を開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。言葉が見つからなかった。
フェリクスが手帳に書き込んだ。
「即答せず、情勢を見極めてから判断する。——見事です、魔王殿。宰相閣下の誘い方には三つの罠が仕込まれていましたが、あなたは一つも踏まなかった」
(罠? 三つ? 何の話だ。僕はただ、何を言えばいいかわからなくて黙っていただけなんだけど)
「ヴァルゼン殿」
エルヴィンが真剣な顔で言った。
「俺は、あなたの判断に従う。だが——もし行くなら、俺も行く。仲間だからな」
グリゼルダが剣の手入れを止めて頷いた。
「同感です。ヴァルゼン様の傍には、常に剣がなければなりません」
ミラベルが柔らかく微笑んだ。
「私も、もちろんお供します。長旅になるなら、回復術師は必須ですから」
(みんな……)
断れなかった。仲間たちが「一緒に行く」と言ってくれているのに、自分だけ尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
それに——ザガンの言葉が耳に残っていた。断れば敵対。政治の世界では、動かないことすら意味を持つ。
「……わかりました」
ヴァルゼンは小さく頷いた。
「行きます。ただし、あくまで同行するだけです。交渉には口を挟みません。僕は隅っこで大人しくしています」
フェリクスがまた手帳に書き込んだ。
「『交渉には口を挟まない』。つまり宰相閣下に自由にやらせた上で、最終局面でのみ動く。——初手から主導権を握るのではなく、相手に動かせてから判断する。恐ろしい。恐ろしいほど完成された外交の基本形だ」
(違います。隅っこで大人しくしていたいだけです)
その日の午後、ヴァルゼンは宰相ルドヴィークのもとを訪れた。
宰相執務室は王城の深部にあった。重厚な樫の扉を開けた先に、白髪の老人が待っていた。六十年の政治人生で鍛え上げられた知性が、深い皺の奥に宿っている。
「ヴァルゼン殿。お越しいただき感謝する」
ルドヴィークの声は穏やかだったが、その穏やかさの裏にどれだけの計算があるか、ヴァルゼンには想像もつかなかった。
「同行をお引き受けいただけると?」
「は、はい。ただ、僕にできることがあるかどうか——」
「十分です。あなたがいるだけで」
ルドヴィークの目が細まった。あの目だ。以前の会談でも見た、何もかもを見透かそうとする目。
「出発は三日後。使節団は十五名。あなたを含めて十六名です。道中のことはすべてこちらで手配いたします。どうか——肩の力を抜いて、臨んでいただければ」
(肩の力を抜いて、って言われても。国境紛争の調停だよ? 肩の力を抜ける状況じゃないだろう)
「ヴァルゼン殿」
執務室を出ようとしたとき、ルドヴィークが呼び止めた。
「一つだけ、お聞きしたい。隣国ガルディアについて、何かお考えはあるか?」
(ない。何も。ガルディアがどこにあるかすら正確に知らない)
「……今は、何も申し上げることはありません」
ヴァルゼンは正直にそう答えた。正直すぎるほど正直に。
ルドヴィークの目が、一瞬だけ——鋭く光った。
そして、深く頷いた。
「……流石だ。情報が揃わぬ段階で軽々しく語らない。この老いぼれも、見習わねばならんな」
(いや、情報が揃ってないんじゃなくて、そもそも情報がゼロなんです)
宿に戻ったヴァルゼンは、ベッドに倒れ込んだ。
(三日後に出発。使節団。外交。国境紛争の調停。——なんでこうなるんだ。なんで毎回こうなるんだ)
天井のシミを数えた。八つまで数えて、諦めた。
三日後、ヴァルゼンは——自分がまったく理解していない外交の舞台へ向かう。
そしてその結果がどうなるか、この時点では誰にも予測できなかった。ヴァルゼン本人にも、老獪な宰相にも、そして勇者パーティの誰にも。




