もう二度と、訂正できない
もう二度と、訂正できない
宿の部屋は静かだった。
社交界デビューから一週間。怒涛の日々を終えて、ようやく一人の時間が訪れた。ベッドの上に仰向けに転がり、ヴァルゼンは天井の木目を見つめていた。
(……ここまで来たか)
目を閉じると、この一週間の出来事が走馬灯のように駆け巡る。
国王への謁見。「怖かったです」という本音を「真の勇気」と解釈された。貴族の晩餐会。手づかみの食事が「魔王食い」として流行した。神殿の聖炎が揺れ、宗教界が二分された。社交界ではでたらめなダンスが「秘舞」と呼ばれ、全勢力が「味方についた」と思い込んでいる。
一つ一つの出来事に、訂正の余地はあった。
あったはずだった。
だが今、全部がつながっている。国王の評価、宰相の打算、将軍の期待、貴族の流行、宗教の教義——すべてが「最凶の魔王ヴァルゼン」を前提に組み上がった巨大な構造物だ。どこか一つのピースを外せば、全部が崩れる。
(僕が「実は最弱です」と言ったら、どうなるんだろう)
国王は面目を失う。宰相の外交カードは無効になる。貴族社会は混乱し、聖魔教は崩壊し、排除派は暴走する。この一週間で築かれた均衡は、一瞬で崩壊する。
それだけじゃない。
エルヴィンが——あの真っ直ぐな目の勇者が、「俺は間違っていたのか」と傷つく。
グリゼルダが信じた「武を超越した境地」は嘘だったことになる。
ミラベルの涙は無駄だったことになる。
フェリクスの分析は、すべて砂上の楼閣だったことになる。
ザガンが賭けた忠誠は——
(もう、訂正できない)
その事実が、今夜はっきりと輪郭を持った。
いままでは「いつかバレるかも」という恐怖だった。だが今は違う。バレるとかバレないとか、そういう次元の話ではなくなった。「最凶の魔王ヴァルゼン」は、既にヴァルゼン個人の手を離れて、一つの社会的な事実になっている。
一人の臆病な魔族が「本当の僕は弱いんです」と言ったところで——もはや誰も信じない。
天井の木目が滲んだ。泣いているわけではない。目が乾いただけだ。多分。
コンコン、と扉が叩かれた。
「入ってもいい?」
ミラベルの声だった。
「あ、はい、どうぞ」
慌てて起き上がる。ミラベルが盆に温かいミルクを載せて入ってきた。
「眠れないのかなと思って」
「……ありがとうございます」
ミルクを受け取った。温かかった。ミラベルの気遣いは、いつも温かい。
「ヴァルゼン様。今夜はお一人で、色々と考えていらっしゃるのですね」
「えっ。いや、別に——」
「王都に来てから、ずっと人前に出っぱなしでしたから。心を休める時間が必要なのだと思います」
(そういう高尚な話じゃないんだけど。「もう詰んだな」って絶望してただけなんだけど)
「ヴァルゼン様は、背負うものが大きいですから。でも——私たちは、いつもお傍にいます」
ミラベルの目が、窓からの月明かりに照らされて、柔らかく光っていた。
胸が痛んだ。この人は、「孤独な王の重荷」を本気で心配してくれている。方向は——間違っている。盛大に間違っている。でも、心配してくれる気持ちは本物だ。
「ありがとう、ミラベルさん。……少し、楽になりました」
「本当ですか? よかった」
ミラベルが微笑んで部屋を出ていった。
一人になった。
ミルクを一口飲んだ。温かさが喉を通り、胃に落ちた。
(楽になった。嘘じゃない。でも、問題は何一つ解決していない)
窓の外で、夜風が木々を揺らしている。
その頃——宿の別室では、フェリクスが分析ノートに向かっていた。
燭台の灯りの下、丁寧な筆跡が羊皮紙に記録を刻んでいく。
「第五部総括。王都滞在における魔王ヴァルゼンの行動分析」
フェリクスのペンが淀みなく走った。
「政治:宰相に対し、積極的な関与を避けつつも存在感を維持。外交カードとしての価値を認識させながら、自らは決して手駒にならない超然たる姿勢を貫いた」
(そんな姿勢は貫いていない、とヴァルゼンが聞いたら叫ぶだろう)
「軍事:名誉軍事顧問の推薦を受けながらも、実際の軍事行動には一切関与せず。軍を味方につけながら軍に依存しないという、極めて高度なバランス感覚」
(バランス感覚ではなく、関わりたくなかっただけだ——が、フェリクスの筆は止まらない)
「宗教:聖魔教と排除派の対立を放置することで、双方を牽制し合わせる構図を作り出した。意図的に無視することで宗教問題を政治化させず、世俗権力との衝突を避けている」
ペンの先が止まった。フェリクスはモノクルを押し上げ、天井を見た。
「そして社交界。全勢力に対する完璧な等距離外交。全員に好意的な態度を取り、全員に期待を持たせ、しかし誰にも確約を与えない。結果として——全勢力が『自分の味方だ』と解釈し、互いに牽制し合う均衡が成立した」
最後の一行を書き加えた。
「結論:魔王ヴァルゼンは、王都における全方位の政治力学を掌握した。しかもそれを——おそらく意図的に——何もしていないかのように見せている。これは外交術の極致と言うほかない」
フェリクスはペンを置き、紅茶を一口含んだ。
「……末恐ろしい方だ」
月明かりが分析ノートを照らしていた。その几帳面な筆跡は、フェリクスの知性と——盛大な勘違いの結晶だった。
一方、ヴァルゼンはミルクを飲み終えて布団に潜っていた。
(明日からまた始まる。訂正できない日常が。もう戻れない道が)
目を閉じた。
不思議なことに、眠りは穏やかに訪れた。
仲間がいるという安心感は——たとえその信頼の根拠が盛大な誤解であっても——暗闇の中の灯火であることに変わりはなかった。
こうして、王都での一幕は終わりを告げた。
だが物語は終わらない。
翌朝、宰相府から一通の書状が届くことを、ヴァルゼンはまだ知らない。




