全勢力が味方だと思っている
全勢力が味方だと思っている
社交界デビューから五日が経った。
状況は——ヴァルゼンの想像を遥かに超えて、奇妙な安定を見せていた。
「陛下。本日の情勢報告です」
朝食の席で、ザガンが日課となった報告を始めた。
「まず政界。宰相のルドヴィーク殿が、外交案件にあなたの名を挙げることを検討中です。理由は——各国があなたの名前を聞くだけで交渉姿勢を軟化させるため」
「名前だけで?」
「はい。『最凶の魔王が後ろにいる』と思わせるだけで、外交カードになるようです」
(僕の名前が外交カード。僕が。ゴブリンより弱い僕が)
「次に軍部。ガルヴァス将軍が、あなたを名誉軍事顧問に推薦する書類を提出しました。模擬戦もしていないのにです」
「模擬戦してないのに顧問になれるの?」
「あなたの『戦略的評価』は模擬戦を必要としないレベルだと判断されたようです」
(戦略的評価って何。僕は戦略どころか、今日の昼食の予定すら立てられていないのに)
「宗教方面。聖魔教の信者数が王都だけで三百人を突破しました。テオバルド殿が正式に教団組織としての認可申請を行う予定です」
「三日前に百人って言ってなかった?」
「三倍になりました」
「なんで」
「あなたの社交界デビューと秘舞の噂が、崇拝の対象としての神秘性を高めたためです」
(秘舞。あの滅茶苦茶なダンスが信者を増やした。もう意味がわからない)
フェリクスがコーヒーカップを置いた。
「整理しましょう。現在、王都の主要勢力——政界・軍部・宗教崇拝派——の三者すべてが、あなたを自陣の切り札だと認識しています。そして三者は互いにあなたの支持を独占していると信じている」
「はい。それは——まずいんじゃ」
「通常であれば、矛盾が露呈した瞬間に崩壊します。しかし——現状、崩壊していない。なぜだかわかりますか」
「……わからないです」
「三者が互いに牽制し合っているからです」
フェリクスが手帳の図を見せた。三つの円が重なり合い、その中心にヴァルゼンの名がある。
「政界があなたを独占しようとすれば、軍部と宗教が反発する。軍部が動けば、政界と宗教が牽制する。宗教が暴走すれば、政界と軍部が押さえ込む。三すくみです」
(三すくみって、蛇と蛙とナメクジのあれ? 僕はどれなの?)
「そしてこの均衡の中心にいるあなたは——誰にも攻撃されない。攻撃した側が他の二勢力を敵に回すからです」
「それは……いいことなの?」
「外交史上、最高の布陣です。あなたは何もせずに、存在するだけで政治バランスを維持している」
(何もしてないのは事実だ。でもそれを「最高の布陣」と呼ぶのは絶対に違う)
午後。
ヴァルゼンが宿のラウンジで茶を飲んでいると、立て続けに使者が訪れた。
まず宰相からの使者。
「ルドヴィーク殿より伝言です。『明日の貴族評議会に、可能であればご列席いただきたい。あなたの存在が議論を円滑にする』とのことです」
次に軍部からの使者。
「ガルヴァス将軍より。『近日中に軍事視察へのご同行を賜りたい。将兵の士気が飛躍的に向上する』とのことです」
最後に聖魔教からの使者。
「テオバルド殿より。『週末の礼拝に御臨席いただければ、信者一同、この上ない喜びでございます』とのことです」
三者が、ほぼ同時刻に、同じ宿に使者を寄越した。
ラウンジで三人の使者が鉢合わせした。
空気が、一瞬で凍った。
宰相の使者が軍部の使者を睨んだ。軍部の使者が聖魔教の使者を警戒した。聖魔教の使者が宰相の使者を牽制した。
三すくみが、目の前で可視化された。
(怖い。この空気、怖い。三人とも笑顔なのに目が笑ってない)
ヴァルゼンは三人を交互に見た。
「あ、あの——皆さんの、お気持ちは、ありがたく——」
三人が同時に身を乗り出した。
「では、我々の——」
「それぞれの場に、できる限りお伺いしたいと思っています」
精一杯の回答だった。全員を怒らせたくなかった。それだけだった。
三人の使者は、それぞれ満足そうに頷いて去っていった。
——全員が「我々を優先してくれた」と解釈したのだ。
使者たちが去った後、フェリクスが手帳にペンを走らせた。
「見事です。三勢力への回答に優劣をつけず、かつ全勢力に希望を持たせた。これを即座に、自然体で行える——」
「フェリクスさん」
「はい」
「僕は、全員にいい顔をしてしまっただけです。八方美人です。最低の対応です」
フェリクスが手帳から顔を上げた。その目に、純粋な困惑が浮かんでいた。
「……八方美人は、外交では最上の資質ですが」
(この人と話が噛み合う日は来るのだろうか)
グリゼルダが壁に背を預けたまま、静かに口を開いた。
「ヴァルゼン様。あなたがそこにいるだけで、三つの刃が互いを封じている。それは——守りの極致だ」
ミラベルが隣でこくりと頷いた。
「誰も傷つけず、誰にも傷つけられない場所を——自然に作ってしまう。それがヴァルゼン様なんですね」
(違う。作ってない。偶然だ。全部偶然なんだ)
偶然——ではあった。
しかし、偶然が五日も続けば、それはもう偶然とは呼ばれない。
王都では既に、こう囁かれ始めていた。
「最凶の魔王は、全勢力を手のひらの上で踊らせている」
その評価を聞いたとき、ヴァルゼンは——ただ静かに、天井を見上げた。
(踊らせてない。僕が一番踊れてないんだ。昨日の秘舞で証明されたはずなのに)
誰も聞いていなかった。
もう、誰も。




