踊れない魔王と流行の秘舞
踊れない魔王と流行の秘舞
社交界デビュー三日目。
夜会が催された。
ヴァルゼンにとって、これは処刑宣告に等しかった。なぜなら——夜会には、ダンスがある。
(踊れない。僕は踊れない。人生で一度もまともに踊ったことがない)
魔王軍にいた頃、ダンスの文化など皆無だった。ゴブリンは踊らない。いや、酒に酔ったゴブリンが焚き火の周りで跳ね回るのを「踊り」と呼ぶなら別だが、貴族のダンスとは似ても似つかない。
「陛下。本日の夜会ではダンスの時間が設けられています」
「知ってる。知ってるから朝から胃が痛い」
「回避する手段は——」
「ない。昨日の時点で、複数の貴族令嬢からダンスの申し込みが来ている。断れば外交問題になるとフェリクスさんに言われた」
ザガンが一瞬だけ目を閉じた。珍しく、同情の色が見えた。
「……お気の毒です」
(この人が同情するレベルの事態なんだ。終わった)
ミラベルが恐る恐る提案した。
「あの、今からダンスの練習をなさっては——」
「何時間あっても無理です。僕、リズム感が壊滅的なんです」
「で、でも基本のステップだけでも——」
結局、ミラベルの手ほどきで三十分だけ練習した。
結果——壊滅的だった。
右に行くべきところで左に行き、前に出るべきところで後ろに下がり、ミラベルの足を四回踏んだ。ミラベルは笑顔で「大丈夫です」と言ってくれたが、明らかに痛そうだった。
「……すみません。やっぱり僕には——」
「いえ! あの、ヴァルゼン様のステップは独特ですが、一つ一つの動きに力強さがあって——」
(ない。ないから。力強さなんて一ミリもない。足元がおぼつかないだけだ)
夜会の会場は、先日のロイヤルホールよりも小さいが、その分だけ密度が高かった。貴族たちの華やかな衣装が灯りに映え、楽団の演奏が優雅に響いている。
そして——その時間が来た。
「では、ダンスのお時間です」
司会の声が響いた瞬間、ヴァルゼンの全身から血の気が引いた。
最初にヴァルゼンの前に現れたのは、ランツベルク公爵家の令嬢だった。栗色の髪を結い上げた、二十歳前後の女性。
「ヴァルゼン殿。一曲、お手合わせ願えますか」
(お手合わせ。ダンスにその言い方する? いや、むしろ戦闘と思った方が心の準備ができるかもしれない)
「は、はい……」
手を取った。
楽団が演奏を始めた。
ワルツだった。
ヴァルゼンは——最初の一歩で、リズムを外した。
(あ、もう駄目だ)
二歩目で令嬢の足を踏みかけた。慌てて避けた結果、体が大きく左に傾いた。三歩目でバランスを取り戻そうとして右に跳ね、四歩目で回転の方向を間違えた。
滅茶苦茶だった。
ワルツの基本的なステップとは何の関係もない、独自の軌道。前後左右に不規則に揺れ、時折大きく跳ね、かと思えば急に止まる。令嬢は目を白黒させながらも必死についてきた。
周囲のダンサーたちが、一人、また一人と足を止めた。
全員がヴァルゼンを見ていた。
(見られてる。全員に見られてる。死にたい。穴があったら入りたい。穴がなくても掘って入りたい)
曲が終わった。
沈黙が落ちた。
ヴァルゼンは汗だくで立ち尽くした。令嬢の手を放し、深々と頭を下げた。
「す、すみません。僕、踊りが——」
「あの動き」
声が上がった。会場の隅にいた老貴族だった。
「あれは——大陸東方の秘舞ではないか?」
(は?)
「私は若い頃、東方諸国を巡ったことがある。辺境の祭祀で見た踊りに——確かに似ている。不規則に見えて、実は自然の律動に合わせた即興舞踏だ」
(似てない。絶対に似てない。僕はただ足がもつれていただけだ)
しかし老貴族の言葉は、会場に電流のように広がった。
「東方の秘舞——!」
「なるほど、だからあの独特のリズム——」
「魔王殿は異国の文化にも通じておられるのか」
フェリクスが手帳に書き込んでいた。
「社交ダンスの常識を完全に無視した動きを、異文化の素養として昇華させた。意図的であれ偶然であれ、結果として既存の価値観を揺さぶった」
(偶然だ。百パーセント偶然だ)
二曲目が始まった。
今度は別の令嬢がヴァルゼンの前に立った。
「わ、私にも——あの秘舞を、教えていただけますか」
(教えられない。だって知らないから。存在しないものは教えようがない)
しかし断れるはずもなく、ヴァルゼンはまた踊った。
もちろん滅茶苦茶だった。
しかし今度は——令嬢の方が、ヴァルゼンの動きに合わせようとした。不規則な動きを「秘舞のステップ」として真剣に受け止め、必死に追随した。
その光景が、さらに周囲の好奇心を煽った。
「あの動き、法則性がありそうで掴めない——」
「天才の所作だ。凡人には理解できないのだ」
エルヴィンが遠くから満面の笑みで見守っていた。
「ヴァルゼン殿は何をやらせても一流だな!」
(一流じゃない。最底辺だ。踊りの才能は最底辺中の最底辺だ)
グリゼルダが壁際で腕を組み、目を閉じていた。
「あの足運び——不規則に見えて、実は重心が常に安定している。武術の歩法に通じるものがある」
(ない。通じてない。踏ん張ってるだけだ。転ばないように必死で踏ん張ってるだけだ)
夜会が終わる頃には、「魔王の秘舞」は王都社交界の最大の話題になっていた。
翌日には、複数の貴族がダンス教師に「東方の秘舞」を問い合わせたが、当然ながらどの教師も知らなかった。知らないのは当然だ。存在しないのだから。
しかし「誰も知らない」という事実が、逆にその神秘性を高めた。
(もう何が何だか、わからない)
宿に戻ったヴァルゼンは、ベッドに倒れ込んだ。
足が痛かった。全身が痛かった。そして、何より心が痛かった。
存在しない秘舞が、明日には流行しているかもしれない。
その恐怖は——残念ながら、現実のものとなる。




