八方美人は最強の外交術
八方美人は最強の外交術
社交界デビュー二日目。
ヴァルゼンは、宿の部屋で頭を抱えていた。
(昨夜のことを整理しよう。僕は社交界でパニックになった。右往左往した。何も言えなかった。——つまり、大失敗した)
しかし現実は、ヴァルゼンの自己評価とは正反対の方向に進んでいた。
「陛下。本日の面会希望者リストです」
ザガンが朝食の席で羊皮紙を広げた。そこには、びっしりと名前が書き連ねられていた。
「ランツベルク公爵家。正式な後ろ盾の申し出」
「え」
「ヴァイセンブルク侯爵家。領地内の鉱山権益の共同開発を提案」
「え?」
「カーラント侯爵家。先日の仲裁の返礼として、王都の邸宅を無償提供したいと」
「えぇ?」
「聖魔教テオバルド派。宗教的な守護者としての庇護関係を希望」
「えぇぇ?」
「軍部のガルヴァス将軍。軍事顧問としての招聘」
「えぇぇぇ?」
ザガンが羊皮紙をめくった。裏にも名前があった。
「まだ続きます」
(嘘だろ。昨日パニックで右往左往しただけなのに。なんでこんなことになってるんだ)
フェリクスがコーヒーを啜りながら解説した。
「昨夜のあなたの振る舞いは、社交界で極めて高く評価されています。特定の勢力に偏らず、全方位に平等な態度を示した。これは外交の基本でありながら、実行が最も難しい技術です」
「偏らなかったんじゃなくて、誰の話もわからなかっただけなんですけど」
「結果は同じです。そして各勢力は今、あなたを自陣に引き込もうと動いている。つまり——」
「つまり?」
「あなたは売り手市場です」
(売り手市場って。僕は商品じゃないんだけど)
結局、全員と面会することになった。断る理由がないのではなく、断り方がわからなかったからだ。
最初にやってきたのは、ランツベルク公爵だった。
白髪の老紳士で、温厚そうな笑顔の裏に百戦錬磨の気配がある。
「ヴァルゼン殿。我がランツベルク家は、王都でも有数の歴史を持つ家柄でございます。貴殿の後ろ盾として、これ以上ない選択かと——」
「は、はい。そうですね」
ヴァルゼンは頷いた。断れなかった。
次にヴァイセンブルク侯爵。
「鉱山の権益はもちろん、我が領地の兵力も自由にお使いください。貴殿を全力で支持いたします」
「は、はい。ありがとうございます」
ヴァルゼンは頷いた。断れなかった。
次にカーラント侯爵。
「仲裁の恩義は忘れません。我がカーラント家は永遠にあなたの味方です」
「は、はい。光栄です」
ヴァルゼンは頷いた。断れなかった。
そして聖魔教のテオバルド。
「ヴァルゼン様! 我々聖魔教は、あなたの盾となりましょう!」
「は、はい。お気持ちは嬉しいです」
ヴァルゼンは頷いた。
最後にガルヴァス将軍。
「軍部としても、あなたのお力添えを賜りたい」
「は、はい。わかりました」
——全員に「はい」と言ってしまった。
(やってしまった。全員に「はい」って言ってしまった。これ、全勢力が僕を味方だと思ってるってことじゃ——)
夕刻。
宿の共有ラウンジで、ヴァルゼンは蒼白な顔で椅子に沈んでいた。
「全員に、味方だと言ってしまった……」
「はい」
ザガンが淡々と肯定した。
「矛盾が発覚したら、全方位から敵になるのでは……」
「通常であれば、そうなります」
「通常であれば?」
「しかし、各勢力が互いに『ヴァルゼンは我々の味方だ』と信じている限り、互いに牽制し合います。結果として——」
フェリクスが手帳を開いた。
「均衡が成立する。全勢力が味方だと思っているからこそ、誰もあなたを攻撃できない。誰かがあなたを攻撃すれば、他の全勢力を敵に回すことになるからです」
(……え?)
「これを外交用語で『全方位均衡外交』と呼びます。歴史上、これを意図的に成功させた為政者は三人しかいません」
(意図的じゃない。断れなかっただけだ)
「ヴァルゼン殿」
フェリクスの目が、いつもの知的な光を帯びていた。
「あなたは今、王都の全政治勢力を味方につけました。しかも、全勢力があなたを独占していると信じている。これは——完璧です」
ミラベルが隣でそっと微笑んだ。
「ヴァルゼン様は、いつもそうですね。何も求めないからこそ、すべてが集まってくる」
(求めてない。本当に何も求めてない。帰りたいだけだ。静かな場所に帰りたいだけなんだ)
エルヴィンが豪快に笑った。
「さすがヴァルゼン殿! 社交界をたった二日で制覇するとは!」
(制覇してない。沈没してるんだ。ゆっくりと、確実に、沈没してるんだ)
窓の外で、王都の夕焼けが街並みを赤く染めていた。
全勢力が味方だと思っている。
つまり——全勢力を裏切る可能性を、常に抱えているということだ。
(これ、綱渡りどころの話じゃない。綱すら見えない空中を歩いてる)
ヴァルゼンの胃が、きりきりと痛んだ。




