最凶の魔王、社交界にデビューする
最凶の魔王、社交界にデビューする
王都最大の社交場——ロイヤルホール。
その大扉の前に立ったとき、ヴァルゼンは静かに絶望していた。
(無理だ。絶対に無理だ。何がどうあっても無理だ)
扉の向こうから、さざめきが聞こえる。笑い声。グラスの触れ合う音。そして、数百人分の視線が待ち構えている気配。
「ヴァルゼン殿。いよいよですな」
エルヴィンが横で目を輝かせていた。この男は社交の場が好きだ。勇者という肩書きに加えて、生来の人たらしの気質がある。パーティ会場は彼にとって別の意味での戦場であり、最も得意な戦場だった。
「あ、あの、エルヴィンさん。やっぱり僕は——」
「大丈夫だ。あなたは魔王だぞ。社交界など、戦場に比べれば児戯に等しい」
(比べるものが違う。そもそも戦場も無理だったし)
ザガンが背後で淡々と告げた。
「陛下。本日の出席者は、王都の主要貴族家四十二家、軍部関係者二十三名、宗教関係者十五名——崇拝派十二名、中立派三名。排除派は欠席です」
「排除派が来てないのは——」
「あなたを排除したい人間が、あなたの社交界デビューを祝う場に来るわけがないでしょう」
(それはそう)
大扉が開いた。
一瞬の静寂。
そして——ホール全体が、ヴァルゼンに注がれた。
数百の視線。数百の思惑。数百の期待と計算と好奇心が、一斉にヴァルゼンの全身を射抜いた。
(死ぬ。視線だけで死ぬ。人間って視線で殺せるんだな。知らなかった)
ヴァルゼンは——足を踏み出した。
一歩目がぎこちなかった。二歩目でつまずきかけた。三歩目で、なんとか姿勢を立て直した。
その様子を、フェリクスが背後で観察していた。
「見事な入場です。最初の三歩で会場全体の空気を掌握した。一歩目で注目を集め、二歩目で緊張を与え、三歩目で安心させる——計算された導入だ」
(計算してない。歩くのに必死なだけだ)
ホールの中は、予想以上に広かった。天井にはシャンデリアが輝き、壁面には王家の紋章が刻まれている。長テーブルには目も眩むような料理と酒が並び、楽団の生演奏が流れていた。
そして——貴族たちが、次々と近づいてきた。
「ヴァルゼン殿! お目にかかれて光栄です。私はランツベルク公爵家の——」
「ヴァルゼン様! 先日の領地争い仲裁の件では、感謝してもしきれません。ぜひ我が家の——」
「最凶の魔王殿! 聖魔教の一信徒として、お近くでお姿を拝見できるこの幸福——」
三方向から同時に話しかけられた。
(三方向。同時。無理。処理が追いつかない)
ヴァルゼンは口を開きかけ、閉じ、また開きかけた。金魚のように口をぱくぱくさせながら、三人の顔を交互に見た。
助けを求めるように右を向いた。エルヴィンがいない。既にホールの奥で貴族たちと意気投合している。
左を向いた。グリゼルダが壁際に立っている。しかし彼女は「ここはあなたの戦場です」とでも言いたげな目で、一歩も動こうとしなかった。
(見捨てられた。完全に見捨てられた)
三人の貴族が、それぞれの話題でヴァルゼンの反応を待っている。
「あ、あの……」
ヴァルゼンは右往左往した。文字通り、体が右へ左へ揺れた。誰の話を聞けばいいかわからず、三人に均等に視線を配りながら後ずさりし、また前に出て、また後ずさった。
その様子を、離れた場所から宰相のルドヴィークが観察していた。
「ほう」
宰相が薄く笑った。
「各勢力に平等な距離を保つ——あの男、外交の基本を完璧に体得している。貴族にも、軍にも、宗教にも、等しく近く、等しく遠い。意図的にやっているなら末恐ろしい」
意図的ではなかった。パニックだった。
しかし結果として——ヴァルゼンの「右往左往」は、社交界における最初の伝説になった。
「各勢力に対する等距離外交」。
後にフェリクスがそう名づけるその動きは、この夜、ロイヤルホールの全参加者に目撃されることになる。
社交界デビュー初日。
ヴァルゼンは、何一つ意図していなかった。
——だからこそ、完璧だった。




