預言書に僕の名前が書いてあった。千年前の預言書に
預言書に僕の名前が書いてあった。千年前の預言書に
討魔令の発布から三日。崇拝派と排除派の対立は、王都を二分する勢いで拡大していた。
そんな中——大神官ロズモンドが、ヴァルゼンを大神殿に呼んだ。
「今度は何ですか……」
ヴァルゼンの声には諦めが滲んでいた。もはや大神殿と聞いて胃が痛くなるのは日常だった。
「大神官様が直々に呼ばれるのは、ただ事ではないでしょう。何か重要な発見があったのかもしれません」
フェリクスの目が知的好奇心で輝いている。この人は、他人の胃痛を学問的好奇心に変換する天才だ。
大神殿の奥院——一般の神官ですら立ち入れない古文書庫に通された。
壁一面に年代物の書架が並び、黄ばんだ羊皮紙の束が積み上げられている。空気は乾いていて、紙と香の匂いが混じっていた。千年の時間が凝縮されたような空間だった。
ロズモンドが待っていた。その表情は三日前とは別人のように憔悴していた。目の下に深い隈があり、頬はこけている。
「来てくれたか、ヴァルゼン殿」
「は、はい。お呼びとあれば——」
(顔色が悪い。大神官様、眠れていないのでは)
「単刀直入に言おう」
ロズモンドが、書架の奥から一冊の古い書物を取り出した。
革の表紙は黒ずみ、金の装飾は剥げかけている。しかし、その存在感は尋常ではなかった。書物自体が微かな力を帯びているのを、ヴァルゼンの魔力感知が捉えていた。
「これは——約千年前の大神官が記した預言書だ。大神殿の最奥に封印されていた」
「預言書……」
「聖炎の一件の後、私は答えを求めて古文書庫を調べた。三日三晩かけて——見つけた」
ロズモンドが、震える手で書物を開いた。黄ばんだ頁に、古い聖文字が記されている。
「ここだ。読み上げよう」
ロズモンドの声が、古文書庫に厳かに響いた。
「——『やがて世界が綻びに瀕する時、最弱にして最凶の王が現れる。その王は剣を持たず、魔を統べず、ただ在ることによって聖と魔の理を繋ぎ直すであろう。聖炎はその者に応え、天秤は揺れ、万象は一つの名の下に収斂する』」
沈黙が降りた。
古文書庫の乾いた空気が、重く沈んだ。
「……最弱にして、最凶の王」
ヴァルゼンは、自分の声が遠くから聞こえるような感覚に襲われた。
(最弱。最弱って書いてある。千年前の預言書に。——いや待て。最弱は合ってる。合ってるけど、最凶は合ってない。全然合ってない)
「ヴァルゼン殿」
ロズモンドの目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「聖炎があなたに応えた。あなたは魔王であり、しかし剣を持たない。この預言の条件に——あなたは、完全に合致する」
「い、いや、あの、最弱の部分は確かにそうなんですけど、最凶は——」
「謙遜はいい。聞いてほしい」
ロズモンドが書物を閉じた。
「この預言書の存在は、まだ崇拝派にも排除派にも伝えていない。私が最初に見せるべきは——預言の当事者だと判断した」
(当事者にされてる。千年前の預言の当事者に勝手にされてる)
「もしこの預言が公になれば——」
フェリクスが静かに口を開いた。
「崇拝派は狂喜するでしょう。千年前の預言がヴァルゼン殿を指していると主張する最大の根拠になる。一方、排除派にとっては——」
「脅威が確定する。『最凶の王』を王都に置いておけないと、より強硬な行動に出るでしょう」
ロズモンドが頷いた。
「だからこそ——あなた自身の意思を聞きたかった。ヴァルゼン殿。あなたは、何者なのだ」
再び、あの問いだった。聖殿で初めて会った時と同じ問い。
ヴァルゼンは口を開いた。
「僕は——」
言葉が詰まった。
最弱の魔王。ゴブリンより弱い、飾りの王。誤解の積み重ねでここまで来てしまった、ただの臆病者。
それが真実だ。それ以上でも以下でもない。
しかし——
(でも、聖炎は揺れた。僕の魔力に反応した。あれは嘘じゃない。あれだけは、誤解じゃない)
「……わかりません」
正直に言った。
「僕が何者なのか、僕自身にもわからないんです。最弱なのは確かです。でも最凶かと言われたら——違うと思います。預言の王なのかと聞かれたら——そんなはずはないと思います」
ロズモンドは黙って聞いていた。
「ただ——」
ヴァルゼンは、自分でも驚くほど、はっきりと言った。
「僕の仲間が、僕のせいで傷つくのだけは嫌です。それだけは——確かです」
古文書庫が静まり返った。
ロズモンドの目に、何かが宿った。畏怖でも疑念でもない。それは——理解に近い何かだった。
「……そうか」
老人は、深く息を吐いた。
「『剣を持たず、魔を統べず、ただ在ることによって』——か」
その呟きの意味を、ヴァルゼンは理解できなかった。
しかし、ロズモンドは何かを得心したようだった。
「預言書の公開については、しばらく保留する。だが——遠からず、崇拝派か排除派のどちらかが独自にこの書に辿り着くだろう。その前に、あなたには知っておいてほしかった」
「……ありがとうございます」
古文書庫を出た後、廊下でフェリクスが足を止めた。
「ヴァルゼン殿」
「はい」
「あなたの先ほどの返答は——政治的には百点満点でした」
「……は?」
「『わからない』と正直に答えた。これにより大神官は、あなたを嘘をつかない人物と認識した。さらに『仲間を守りたい』という発言で、あなたが利己的な動機で行動していないことを証明した。結果——大神官はあなたの味方になった」
(味方になったの? あの表情、そう読めたの? フェリクスさんの分析力が怖い)
「計算してたわけじゃ——」
「ええ、知っています。だからこそ百点なのです」
フェリクスが珍しく、口元に笑みを浮かべた。
(褒められてるのか。褒められてるんだろうな。でも嬉しくない。全然嬉しくない。だって計算じゃないもの。本当にわからなくて、本当に仲間が心配なだけだもの)
大神殿の門を出ると、テオバルドが待ち構えていた。
「ヴァルゼン様! 大神官様と何をお話しになったのですか?」
「あ、えっと——」
「テオバルド殿」
ザガンが間に入った。
「陛下と大神官のご会談は機密事項です。ご了承ください」
「しかし——」
「信仰の道を歩む者ならば、忍耐もまた美徳でしょう」
テオバルドは悔しそうに、しかし納得して引き下がった。
(ザガン、ナイス。今のは本当にナイスだった)
宿に帰る道中、ヴァルゼンは空を見上げた。
夕暮れの空が、赤く染まっている。
(最弱にして最凶の王。千年前に誰かが書いた預言。それが——僕のことだって?)
信じられなかった。信じたくもなかった。
でも——聖炎は、確かに揺れた。
(僕は何者なんだ)
その問いは、もう「ただの最弱の魔王です」では片付けられなくなっていた。
エルヴィンが横で、いつもの調子で笑った。
「なあヴァルゼン殿。預言の王ってのはすごいな。だが——俺にとっちゃ、そんなもの関係ない」
「え?」
「お前は俺の仲間だ。預言があろうがなかろうが、最強だろうが最弱だろうが——それだけは変わらない」
(——エルヴィン)
不思議だった。この男の言葉は、いつも的外れで、大げさで、誤解だらけなのに——時々、核心を突く。
今が、まさにそうだった。
「……ありがとう、ございます」
「おう! さて、今日は王都の名物料理を食べに行こう。あの通りの店が旨いらしい——」
エルヴィンが先を歩く。グリゼルダが黙って続く。フェリクスが手帳に書き込みながら歩く。ミラベルが微笑んでいる。ザガンが三歩後ろにいる。
いつもの光景だった。
世界がどれだけ騒がしくなっても、この距離感だけは変わらない。
(宗教が割れた。預言書が見つかった。討魔令が出た。聖魔教が生まれた。——でも)
ヴァルゼンは、仲間たちの背中を見ながら思った。
(僕の居場所は、ここにある。それだけは——誤解じゃない)
赤い夕空の下、六人の影が王都の大通りを歩いていく。
「最弱にして最凶の王」の物語は——まだ、始まったばかりだった。




