十六章 天使派懇親会
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イブリスを寝かしつけようと、四号室に向かったチェリッシュは目を疑った。
いつもなら眠たそうにして、瞼を擦るイブリスがいるはず。それだというのに、その部屋には誰もいない。小さな女の子はどこにもいない。椅子の下も机の上も探す。見つかるはずのない本の隙間だって、やっぱり探してしまう。
呼吸が早くなる。動悸がしてくる。視界もぼんやりと狭まって、遂には転んでしまう。床に手をついて、頭を抱えた。絶望的な顔色をしているそんな時に突然、扉が開いた。四号室に入って来たのはザネリだった。丸くなった表情のザネリに違和感も感じず、チェリッシュはよろめき立ち上がった。フラフラとゾンビを連想させる歩法で近づく。当のザネリは気分が優れないのかなと、楽観的だ。
がしっと肩を掴まれて初めて何事かと驚くザネリ。鈍感な彼女は、チェリッシュに声をかけながら肩に置かれた手をどかせた。
「き、急にどうしたんだ? 怖いから声を出してくれないか」
「イブリスがいない......。何か知らないか」
珍しく弱々しい声色だった。過去に聞き飽きている、人を小馬鹿にするような茶化した声色ではない。小さく震えるような、恐れを滲ませた声。だからなのか、ザネリは冷静に質問について考えた。
「いつもこの部屋にいるんだろ? どこか他に行きそうな場所は無いのか? アガサの部屋とか。あの部屋ってコミックが沢山あるだろう」
「イブリスはあの部屋にはいかない。たぶん、外に出たんだ......」
「幼いって言っても、外には出たくなるものだろう。抑圧されていれば尚更さ」
「そんな簡単に言ってくれるなよ!」
睨みつけて怒号を発する。せっかく真面目に聞いてやっているのに、チェリッシュはそれに気が付いていないようだ。ザネリは臆することもせず、チェリッシュに提案する。
「少し落ち着いた方がいい。冷静じゃないよ、君」
「落ち着いていられるかっ。今どこにいるかわからないんだぞ? これでどうやって安心すればいいんだ」
「なら、彼女が行きそうな場所を探してみたらどうだい。列車なんだからそれなりに、広いスペースじゃないかここは」
その一言で、多少の希望を見出したようだ。「そうだ」と呟きながら下を向く。
「いっしょに探してくれないか。頼む」
「わかった。で、どこから行く? 一号車から下降してくのが手っ取り早い気がするけど」
「そうしよう。アガサにも話を聞けるし」
そう言って二人で一号車に向かう。すると、一号車の中は相変わらず散らかりっぱなしで汚い。コミック山の上から宝物を引っ張り出して、軽く表紙を叩くアガサ。そんな彼に、チェリッシュが聞く。
「イブリスを知らないか? 四号車にいないんだ。どこに行ったか知っていたら教えてほしい」
「イブリスって、あの小さい女の子だろ? ジョバンニと一緒に外へ出掛けたと思うけど」
「えっ。はぁ?」
目を丸くして、心の底から驚いたかのような表情。瞬間、チェリッシュの胸の内に怒りが滾る。見開かれた瞳に煌々と輝く殺意が宿った。その只ならぬ雰囲気に、アガサが背筋を伸ばして姿勢を正す。手に持ったコミックを投げ捨てて、あれやこれやと言い訳を始めた。
正直、ザネリの目には滑稽に映った。舌打ちを一度挟んでからチェリッシュは、アガサに感謝を伝える。舌打ちは必要だったのか分からないが、なんとか危機を回避したアガサは、ホッと胸を撫でおろす。
「カムパネラ、手を貸してくれ。イブリスを帰らせて寝かしつけないといけない。生活リズムが狂うといけないから」
「わ、わかったけど。見当はついてるの? どこにいるか全く想像できないんだけど」
「大体わかってる。あいつらが行く場所なら、大体ね」
不敵に笑ったチェリッシュに、ザネリは何が何だかさっぱりだ。そうして、二人は夜のイースグレースに飛び出る。目的地は天使派支部。聞くところによると、今夜パーティがあるらしく、それに参加してるはずだと言う。それにしても天使派のパーティ。一体どのような催しをするのやら。もしかすると、本当に天使が降臨するやもしれない。いや、そんなことはないか。
ザネリは思い出す。天使派は、天使と呼ばれる上位存在との交信に失敗している。近代になってからというもの、神秘は段々薄れつつあるのだ。技術国家グローブがまだ世界地図に存在していたのなら、或いは交信できたのかもしれない。それもこれも、全ては過去だ。ザネリの記憶の中の結社は、完璧な神秘を体現したことなど殆ど無い。
夜の少し冷たい風にアテられたからか分からないが、チェリッシュが唐突に、謝罪を口にした。
「その.....ごめん。謝るタイミングを逃しちゃって......」
「何に対して謝ってるんだ?」
「やっぱり。そう簡単には、許してもらえないよね......。分かってる。分かってる、つもり」
「本当にどうしたんだ? 今日は随分とナイーブじゃないか。君が私に謝ることなんてあったか?」
ザネリに心当たりはない。チェリッシュが前にやらかした失敗。
スーツに穴を開けたことだろうか。それとも、自身の愛銃を分解して、そのまま直せず壊してしまったことだろうか。
分からない。何に対して罪悪を感じているのか、全く予想がつかない。
物思いに耽っていると、チェリッシュが重々しく口を開いた。
「裏切って、オーラントの方についたことだよ。ほら、あれのせいでしょ? 今のカムパネラの状況って。髪の毛だって、ストレスでしょ? 白くなっちゃったの」
「いや全然。髪の毛は元々この色だったらしいし、裏切ったことに対しては初めから怒りを感じてはいなかったよ? ただ突然だったから、理由は気になったけど。それも、まあ分かったからもう十分かな」
ザネリの本心だった。何気ないことを言ったつもりだが、チェリッシュはその言葉で、心の引っ掛かりが一つ取れたようだった。それと、とザネリはもう一言付け加える。
「ああそれと、今の私はカムパネラじゃなくて、ザネリだ。だからこれからは、ザネリって呼んでくれ」
「どういうこと? それこそ意味わかんないんだけど」
「まあまあ、あとで説明するから」
豪勢に飾り付けられた外観。なんてことはなく、こじんまりとしていて粛々ともしている。華やかさというよりかは、静けさの中の確かな力強さといった印象だ。ザネリとしては、コテコテな外観装飾よりもこっちの方が好みだ。
両開きの扉を開けて中に入ると、打って変わってザネリの苦手な光景が広がった。まるでトラップだ。やっぱり組織の人間は、上辺だけ取り繕うのが好きだなとザネリは心で毒づいた。
そうして一人で批評をしているとチェリッシュは辺りを見回す。迷子になった子どもの様に、あちらこちらを見ては瞳を回す。迷子を捜す彼女は、本当に見失っていた。イブリスをではない。自分自身をだ。
小さな女の子は、チェリッシュにとってどのような存在なのか。それは分からない。それでもこの焦り具合は、異様だ。
給仕服でドリンク運びをする女性を掴まえて、チェリッシュは話を聞く。
「小さい女の子を連れた三人組を見なかったか? 待ち合わせをしていたんだが、勝手に行ってしまったみたいでさ」
「ええ、見ました。たぶんお外に出ているのかと。お子様が確か『風が気持ちいいの!』って言っていた気がしますので」
「そうか。じゃあ、テラス席ってことか? そこにはどうやって行くんだ?」
「あそこですよ。カーテンの掛かっている場所です。あそこから外に出れば、景色もかなり見物ですよ。ああそれと、お飲み物はいかがですか?」
彼女にもノルマがあるのだろうか。お客さんにいくつまでドリンクを出すかとか、そう言ったものだ。
炭酸の弾ける音が、口を近づけなくても分かるくらいだ。新鮮な証だ。シャンパンに鮮度があるのか知らないが。
一口飲んで、そのままテラスへと赴く。カーテンを仰いで外に出ると、よく見知った三人組がいた。
間髪入れずにチェリッシュが近づく。一瞬だ。一秒程度だろうか、彼女が胸倉を掴むのに掛かったのは。動じず、ジョバンニは表情を崩さない。段々、体が持ち上げられるジョバンニ。
「どういうことだ。イブリスは連れて行くなっていったはずだぞ」
「この子が来たいって言ったのさ。幼子の意見は尊重すべきじゃないか?」
「屁理屈を! 今すぐにでも引き裂いてやりたいな」
片腕に力が入るチェリッシュ。それでもジョバンニは変わらず無表情だ。そんな二人の間に、小さな女の子が泣きそうになりながら割って入る。
辛そうだ。苦しいという感情が伝わって来て、ザネリは気持ちが沈む。チェリッシュの足に縋りついて、イブリスは声を出した。勇気を持った行動だったと思う。
「私なの......ここに連れてきてって。そう頼んだの。ごめんなさい。もう帰るから......喧嘩しないで」
震えて小さかったが、それでも耳に届いた。その声に、胸を締め付けられたのはザネリだった。
何故かはわからない。抑圧された少女の、恐る恐るの一言は、何故だかザネリの心を一番震わせていた。苦しかった。
「なあ二人とも、もう止めようじゃないか? イブリスが可哀想だ。こんなに頑張ってるんだ。もういいじゃないか」
そう言われて初めて、チェリッシュは足元に視線を落とした。そこには潤んだ瞳でも真っ直ぐに空を見つめる少女が一人。イブリスにとって、チェリッシュは空に浮かぶ星みたいに大きいのだ。
そんな瞳を向けられては、彼女とて弱ってしまう。そして力を抜いてジョバンニを地面に降ろすと、イブリスを抱きかかえて、その小さな胸の中で謝罪をする。
地面に尻餅をついたジョバンニは、首を押さえて一度二度、咳をしただけで立ち上がった。
「ザネリ。まさか来るとはね。体は大丈夫なのかい?」
「それより、君は......人の気持ちを考えたほうがいいかもね。一度でいいから他人の立場に立ってみてさ」
「......言われたくないな。ザネリ、そんな言葉を君から聞くとはね」
「私も変わったんだ。人は、案外と変われるものらしいんだ」
ザネリとジョバンニは向き合っていた。二人は似ていた。顔ではない。佇まいと雰囲気がだ。
「私はチェリッシュたちと一緒に帰るよ。身体も、なんだか怠いし」
「無理はしない方がいいからね。帰って休むといい。私は後ろの二人と共に、やるべきことがあるからね」
「パーティを楽しむのがそんなに大事なことなのかな」
「息抜きは必要だろ? 気を張ってそのまま死んでしまったら、人生を失敗したと言ってもいいくらいだ」
短く「また」と言って、ザネリは踵を返した。だが、その目の前には予想外の人物がいた。
長い髪の毛を一本に束ねて眼鏡を掛けた、きりっとした顔つきの人物。マルコスだ。過去のカムパネラの上司。尤も今、彼女はザネリなわけだが。
そしてザネリを見るや否や、マルコスは口を開いた。
「私の依頼した資料。あれの用意は済んでいますか? できれば早急にしていただきたい。期限はとっくに過ぎていますからね」
「生憎、今は持っていなくてね」
「そうですか。ですがこちらも、もう待っていられなくなりましてね。資料を貰えないのなら......面倒ですが、その子でいいでしょう」
視線は既にイブリスを向いていた。そして、チェリッシュが膝を付いた。何が起きたか。誰もが気づいてはいない。力なく垂れた腕からイブリスが持ち上げられる。チェリッシュを襲撃し、イブリスを奪い去ったのは、ロカンタだった。いつの間にか、マルコスの部下になっていたようだ。
「それでは、私はこれで」
そう言うと、マルコスとロカンタは会場の中へと戻っていった。その場に残されたのは、マルコスの部下たちだろうか。本当に用意周到な人間だ。包囲されるまで、ここに仲間がいたことすら気が付かなかった。




