第90話 信じてくれた?
「寝た?」
「うん、しばらく泣いてたけど、先生が一緒に寝てくれた」
ヒナは天幕から出てくると静かに優菜へと目を向ける。
「そっか。ごめん、しんどい役やらせて。……あのさあ、少し話をしたい人がいるんだ。付き合ってもらっていい?」
「うん」
心のよりどころのように、すがるようにヒナの手を繋いで大きな天幕へと足を運ぶ。
そこには見張りが多くいたが、国明が二人の姿を見て何をいうこともなく下がらせた。
入り口を潜ると、目の前の椅子には縛られた春野。
この状況下でも彼の顔はやはり静かだった。
優菜がその男にしたのは、怒りをぶつけるわけでも、責めるわけでもなく、心からの謝罪だった。
「慎一さん、ごめん、あんな役、やらせて」
「優菜、何の話をしてる?」
春野という男はどこまでいっても、なんの表情も変えなかった。
まるで感情が欠落したかのように。
「だって、だって、慎一さんは娘を助けようとしただけなんだ。俺が優真を傷つけたくなくて、言えてなかった。あいつは父親じゃないって。言えてたら、こんなことにはならなかった」
「ここであの人を殺すのは覚悟していたことだ。例え相打ちでも、討つつもりでいた。だからお前が気に病む必要はないんだ」
優菜は意味が分からず首を振った。
この人は藤堂秀司の部下ではなかったのか。
「優真と優菜を守る。それは優子との約束だ。あの日、彼女が命を絶つ前時、誓った約束だ」
「命を絶つ?」
姉はこの人に殺されたわけではないのか。
優菜はこころの中の疑問が一つ晴れるような気がして、顔を向ける。
すると春野はやっと人間らしい表情の一つ、哀しみを見せた。
「そう、あの日、私は藤堂秀司の命令で優子を殺しにいった。私には殺すつもりもなかった。優子と優真、二人を逃がすつもりでいた。
けれど優子はそんなつもりはなかった。藤堂秀司の忠実な部下という私の立場を守るために、自分の命を絶った。自分で胸を貫いて」
「立場?」
(そんなものの為に)
「そんなものの為にだ」
同時に春野から出た言葉に優菜は首を振る。
納得などできるわけがなかった。
「それだけじゃないんだろ? 本当は、俺の為にってのもあるんだろ?」
優菜の静かな問いかけに春野は少し躊躇ってから頷いた。
「そうだ。お前が本気で藤堂秀司に立ち向かうために。その想いもこめてだ。
両親を殺し、自分の命、優真の命、優菜の命、全てを道具に使おうする男を倒す為に、彼女は彼女なりに戦おうとしていた。
そして自分が藤堂秀司に殺されるという事実が必要だと思ったんだ」
「姉ちゃん、馬鹿だよ。大馬鹿だよ。 確かに、俺、姉ちゃんが死ななきゃ、覚悟は決まらなかった。でも! でも! 俺はそんなことよりも姉ちゃんといたかった」
戦略とかそういったものよりも本能的に思うこと。
姉ともっと過ごしたかったし、いつか恩を返して、一人の男になったのだと認めてもらいたかった。
「俺、何にも返せてないよ。姉ちゃんに」
「優子と優真を逃がしたとして、きっと藤堂秀司はすぐに気付いて追っ手を差し向ける。藤堂秀司にとってはまず『妻』が王に殺された、それが必要だったんだから。その事実があれば人の心を動かせる。そのための鍵だ。
その一方で俺が彼女を逃がした、そんなことがわかれば俺も計略にはめられ殺されるだろう。例え一の部下であっても。
それは分かっていたけれど、例え、自分がどんな目にあってでも守りたかった。男として、父親として」
「何で、何で! だったらずっとあいつの下にいたんだよ! 慎一さん姉ちゃんの恋人だったんだろ? 何で姉ちゃん捨てたんだよ! 姉ちゃん慎一さんのこと本気で!」
「ああ、好きだったよ。愛してた」
その手には指輪が握られていた。
ヒナはそれを見ると駆け寄った。
ヒナが姉と過ごした時間は少ないけれど、彼女がこれを見せてくれたのは覚えている。
「これ、お姉ちゃんが持ってた指輪、あなたがあげたものだったの? お姉ちゃん好きな人から貰ったって笑ってた。捨てられたって。
私、その時、お姉ちゃんのお母さんから貰ったっていう指輪をもらって」
ヒナと優菜の脳裏には細い目をさらに細くしていた姉の顔を思い浮かんでくる。
あの時の姉はこの男を思い浮かべていたのだ。
「あの日、御陵町が燃えた日、久しぶりにあの家に行って数年ぶりに優子と二人で向かいあって座った」
『弟からね、今日あの人か貴方が来るって聞かされてて』
『弟? 優菜か?』
春野は手に汗をかいていた。
もう彼女は自分の身に何が起ころうとしているかを知ってる。
だったら話は早い。
『逃げよう。優子、このまま行こう。優菜と優真はどこだ? どんな手を尽くしてでも逃がすから』
『大丈夫よ、心配しないで。優真と優菜はちゃんと預けた。信頼できる人が手を回してくれてる。
暫くはあの人が手を出すこともできないわ。その間に優菜が戦えるようになれば、あの人を止められる。貴方だって自由に動けるわ』
『優子!』
『そんなことより』
何が「そんなこと」なのか。
自分の死がかかっているのだと、慎一は叱りつけたくなったが、優子はニコニコ笑っているだけだった。
『今日、来てくれたのが貴方で良かった。最後に二人でちゃんと話がしたかったの。あんまり時間がないから、単刀直入に。優真が貴方の子だって信じてくれた?』
その質問が彼女の心をどれだけ苦しめたものなのか慎一は今なら分かる。
そしてその質問がどれだけ自分を苦しめたものなのかも分かっている。
『もちろん。俺にそっくりの目、してる』
そう言った途端、優子の瞳が潤んで見えた。
幼い頃から見てきた彼女の笑顔はある日から泣き顔ばかりになった。
それは自分のせいだ。
信じてやれなかった。
『ごめん、優子、ごめん。俺は馬鹿な男だった。だから許してくれ。二人で優真を迎えに行こう。俺が優真にちゃんと話をする。俺達の娘なんだきっと分かってくれるさ。それで、優菜と俺と力をあわせたらどうにかあいつを』
『甘いわ……慎ちゃん。あの人はどうにか、なんかで負けないわ。絶対に、じゃないと。そしてその絶対を作り上げるために私の死は必要なのよ』
『何を言ってる。優子』
何をするにしても、人の死など必要ない。
春野はそう諭そうとした。
『私が藤堂秀司の手に掛かれば優菜が立ち上がる最後のきっかけになるわ』
優子は躊躇いもなく机の上に抜身の剣を置いた。
『優子!』
『拳法の達人が剣で人を殺すっていうのもおかしいけれど、藤堂秀司には私の遺体があればそれでいいでしょう? そうすれば貴方は藤堂秀司の部下でいられる。藤堂秀司の手の内を知ることが出来るわ
もうすぐ弟が来る。それまで私の死体は置いておいて頂戴。その後、あの男の下まで運んで。
弟は優菜に貴方が私を殺したと伝えるはずよ。そうすれば優菜は藤堂秀司を憎んで戦える。今まで藤堂優太郎と秀司の名前に埋没していた優菜が立ち上がる。それは国のためにもなる。
本当は優真や優菜の代わりになる遺体もあればもっと時間は稼げるんだろうけど、医者としてさすがにそこまではね。
兎に角妻さえ殺されればあの男のまず一つ目の目的は遂行できるはず。優菜に手出しをするまで少しは時間があるんじゃない?』
『確かに当面のあいつの目的は北晋王だ。その先に紗伊那。
いずれ優菜にも向くだろうけど、それは今すぐではないはずだ。今の何も持たない優菜を倒してもあいつはちっとも満足できないだろうから』
医者でありながら優子もまた父や弟のように沢山のことを見て、考えて生きていた。
彼女もまた藤堂の家の人間だった。
『だから慎ちゃん、私のこの体一つでどうにか時間を稼いで』
『嫌だ! 絶対に』
『慎ちゃん! これは貴方や優真や優菜が生きるための方法なのよ。お願いよ、そのためなら私なんだってできる』
『嫌だ。他に方法があるはずだ。死体なら優子でなくたっていい。偽者の死体でいいじゃないか。君を戦いの道具になんて出来ない』
『貴方も案外甘いわね。確実な私の死体を見せ付けたほうがあの男は安心する。誰か分からない死体じゃあの男は貴方まで怪しむわ』
『それでも、うまく切り抜けてみせるさ。さ、行こう』
『慎ちゃんたら』
呆れたように笑った優子は説得に応じてくれたのだと思った。
けれどそこで気を抜いたことが間違いだったのだ。と気付いた時にはもう間に合わなかった。
躊躇いなく自分の胸に剣をつきたてる優子。
医者である彼女は急所を間違いなく狙っていた。
『優子!』
『もう、後戻りはできないわ。慎ちゃん、貴方が優真の父親だっていうのなら、お願いだから優菜と優真を守って』
苦しげな息の下でそう優子は願い続けてくる。
何度も何度も縋ってきては苦しげに血を吐いた。
納得などできなかった。
出来る訳がなかった。
どうして彼女が死ぬ必要があるのか。
藤堂という名をいだく人間は命を何だと思っているのか。
それから束の間、渡辺慎一は優子の体を抱きしめていた。
弟、蕗伎に見られていると知らずに。
ぼんやりと考え込んでしまった慎一に優菜は心配そうに声を掛ける。
「慎一さん?」
「一回も彼女に勝てたことはなかったな。高校時代ずっとつきあってて、それで優真ができた。学生だったけど、嬉しくて、迷いなんてなくて、結婚するつもりでいたんだ。
俺は優太郎さんの跡をついで、必死に勉強して学者になるつもりだった。
でも、あいつが無理やり優子を奪った。あいつは突然、俺に優子の子供は自分の子供かもしれないと言ってきた。俺はまだ若くて、あの人の本性なんて知らなくて、優秀すぎるあの人にある種の劣等感みたいなものをずっと覚えてて、あの人に勝てるわけない、そう思った。
優子も絶対あの男の方が良かったんだって。そう思った。
それからあいつの言葉を鵜呑みにして、何の非もない優子を責めた。俺の子じゃないんだろって、妊娠中の優子にそういい続けたんだ。少し前まで、結婚するって幸せだった気持が、一瞬にして怒りに変わって、信じろっていう優子を散々責めて一方的に捨てたんだ。
そして優子は優真が生まれる前にあいつと結婚した。きっと優子もその時はあいつの本性なんて知らなかったんだろう」
「いつあいつの本性に気がついたの?」
「あいつの下で働いてすぐだ。あいつは多くの人間を消してきた。優太郎さんも、義母さんも、気に入らない人間はすぐに消した。
俺があいつの本性を分かって、すぐあいつは優真を見に来いと言った。見せすぐに分かった。
優真は本当は自分の子だったのだと。そして優真を人質にして、自分を下で働かせるつもりでいるのだと。
あいつが優菜に目を付けているのは知ってた。消そうとしているのも。
優太郎さんはずっと秀司を警戒していたし、上皇様にまで進言しているのは知ってた。だから俺もあいつの下にいることにした。そうすれば動向が分かる。折角息子として迎えてくれようとした優太郎さん達の代わりに俺が優子達三人をどうにか守らなきゃいけない、そんな気持で一杯だった。捨てた俺に権利がないことくらい分かってるがそれが俺のたった一つの願いだった」
この人もまた藤堂秀司に弄ばれていた。
愛する女と子供を盾にとられ、報われることのない思いを抱いて。
そして姉もまた、この人をずっと愛していた。
だから死ぬことを覚悟した上で、万が一慎一が来たときの場合を考えて、お気に入りの服を着て、化粧をしていたのだ。
姉にとってやはり慎一はたった一人の男だったのだ。
藤堂秀司の本性をいつ知ったのかしらないが、そんな男と夫婦を演じつつ、優菜を守り、慎一の立場を悪くしないように過ごしていたのだ。
「姉ちゃん」
優菜はやっと姉の気持を知って、ただその場で声をあげて泣いた。
*
「すみれの花言葉知ってますか?」
「さあ」
「誠実、っていう意味があるんですよ」
ヒナは木下に凭れて月を見上げていた。
隣に立つのは国明だった。
雪が月を浴びてキラキラと輝くそんな中にいればここが戦場だったとは思え
なかった。
けれど圧倒的な兵力差があったとはいえ、今日、この場所で紗伊那の跡取りは初めて戦争をした。
「戦うっていうのは、勝ったとしても、やっぱり後味の悪いものですね。死んで欲しいって思ったけれど、目の前で死なれてしまうと」
「貴方はそれでいいのかもしれません。人の死になど慣れる必要はありません。しかし貴方はこの数ヶ月でたくさんの経験をなさいましたね」
「ええ、激動の十六歳です。いつになっても忘れない、そう思います」
「本当に色々ありましたね。貴方が十六になった誕生日のあの日から」
十六の誕生日、ワンコ先生に作り上げられた偽りの美珠姫の平々凡々なお姫様生活は終わりを迎えた。
まだあの日から数ヶ月。
騎士達とわかりあい、隣国の王子と知り合い、戦争をした。
十六歳という年は美珠の伝記のどれほどの部分を占めることになるのだろう。
「結局、私には藤堂秀司が何がしたくて、何が望みだったのかわかりません。あの人と直接話までしたのに」
「野心というものにとりつかれたということでしょうか」
ヒナは何度も口の中で野心という言葉を繰り返したが、結局理解できないのか首をかしげた。
「まあ、あなたにはないと思います。そういうのとは縁遠い人だから」
すると気に食わぬと言いたげに国明を睨みつけた。
「なら、国明さんにある? 野心って」
「ありますよ。すごく大きな野心がね」
「何、教えて?」
「また、いずれ。まあ、兎に角武闘大会で優勝することが肝心なのですが」
その言葉に含まれる裏の意味を思うとヒナの顔は妙に火照った。
この人は本当にまたそれを願うのだろうか、と。
けれどそれをどうしても隠したくて咳払いを一つ、
「できますかね。不良騎士さんに」
「さあ? やってみないと」
妙にお互いを意識して変な空気が二人を包んだときだった。
「美珠! お酒飲む?」
蕗伎の楽しげな声に救いとばかりにヒナは振り向く。
そこには祥伽と蕗伎が立っていた。
裏の世界で光の浴びない場所にいた彼が表の世界へと生まれ変わる。
きっと今日は蕗伎にとっては人生の一区切りの日なのだと思う。
そんな日にヒナは陰気な顔をしているわけにもいかず、無理やり笑顔を作った。
「飲む、飲むわ!」
そんなヒナに後ろから一言。
「あまり飲まないで下さい。貴方、飲むと人間変わるから」
「二重人格のあなたには言われたくありません」
ヒナはそう言って悪戯っこのように笑って、友の方へと駆けていった。
次回、最終話を掲載させていただく予定です。