81.化け物
包丁を抜こうとしていたオカンが、ヒッと息を呑んで固まる。
オカンに近付こうとしたクソ兄貴が、床のカップを踏んで後ろ向けにひっくり返った。
……デーレヴォ……だよな?
台所に現れたのは、いつもの繊細な美少女ではなく、魔物だった。
キレイだ……けど、怖い。
上半身はデーレヴォだけど、背中には蝙蝠のような羽が生え、頭から腕環と同じ銀の枝が生えている。下半身は銀鱗の蛇。
もらった服は着ていない。そして、髪と瞳だけでなく肌まで金属光沢のある銀色だった。
魔物のデーレヴォが、ボディに一発喰らわせると、オカンは包丁をがっちり握ったまま、倒れて動かなくなった。
……死んでない、よな?
父ちゃんは驚いて固まっている。
姉ちゃんは、床に倒れたオカンを跨いで、台所の入口横にある電話に飛びついた。
一一〇番
姉ちゃんが半狂乱で通報している間に、俺は小声で、デーレヴォに腕環に戻るように頼んだ。
姿は違っても、やっぱりデーレヴォだった。
やさしい微笑みを残して靄になり、銀の魔物が消える。
クソ兄貴は、頭でもぶつけたのか、動かなかった。
オカンは手が硬直したのか、包丁を握ったまま救急搬送された。クソ兄貴も念の為、病院に運ばれた。
父ちゃんは、警察が来る前に、ちゃっかりDNAサンプルとして、二人の頬の内側の粘膜を採取していた。
姉ちゃんが、到着した警官の一人にしがみついて、号泣している。こんなに取り乱した姉ちゃんを見るのは、初めてだ。
「お巡りさん! 助けてッ! 包丁ッ! お母さんに殺される! 包丁が……!」
「大丈夫、もう大丈夫だから、落ち着いて」
「包丁ッ! 包丁なの! 殺されるッ! お母さん……私、殺すって! 包丁! ガッって……」
「うん。もう大丈夫だからね、お母さん連れてったから、今、居ないからね」
年配の警官は、泣き叫ぶ姉ちゃんの背中をトントン叩きながら、落ち着いた声で言った。
俺は、自分でもよくわからない。
何故かわからないが、涙が止まらない。でも声は出ない。
泣いているのかどうかも……わからない。ただ、涙と鼻水だけが、だらだらと流れた。
この後、どうすればいいのかも、わからない。
父ちゃんは、そんな俺を抱きしめて、頭を撫で続けている。父ちゃんの肩は、俺の涙でぐっしょり濡れていた。
何だろう? さっきは割と冷静に動けてたのに。
俺、何で涙……出てるんだろう?
泣いてる……? 涙は出てるけど……
別に悲しいとか痛いとか、そういうんじゃない。
姉ちゃんが泣き叫ぶ声をBGMに、別の警官が父ちゃんに質問する。父ちゃんは、さっきと同じ冷静な声で答える。
デーレヴォのことは言わず、父ちゃんが自分でオカンを殴り倒したことにしていた。




