第90話 浴場外交
夜。
三国の代表者たちは、大庭園の奥にある浴場へと移動していた。
「…………」
アカシアント公国の代表が、巨大な露天風呂を見渡す。
「これを……庭園と同時に?」
「うん」
アレンはすでに湯へ浸かっていた。
「せっかく作るなら、お風呂も欲しかったから」
「陛下は随分と浴場がお好きなのですな」
「先代ほどじゃないよ」
ノエルが小さく呟く。
「最近、怪しくなってまいりましたが」
「聞こえてるよ!」
◇◇◇
三国の代表者たちも湯へ入る。
大理石の柱の向こうには、夜の大庭園。
巨大噴水が魔導灯に照らされ、そのさらに向こうには魔王城がそびえていた。
「これは……素晴らしい」
「でしょ?」
アレンは少し得意げだった。
昼間の会議とは違い、机もない。
大量の資料もない。
護衛たちも少し離れている。
自然と空気が柔らかくなっていた。
「ところで」
アレンが湯船の縁へ腕を置く。
「昼間の関税の話なんだけど」
「ここでも続けるのですか?」
「そのためのお風呂でもあるよ」
「なるほど……」
こうして再び交渉が始まった。
◇◇◇
「北方は資源をもっと輸出できる」
アレンが言う。
「その代わり、アカシアント公国の魔導製品を安く入れたい」
「それでは我が国の利益が――」
「クロード王国からの農産物も増やす」
「我が国もですか?」
「うん」
三国それぞれに利益が出る形。
一国だけが得をしても長続きしない。
アレンは何度も条件を組み替えた。
「…………」
ガルドは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
「似てきたな」
レイグが呟く。
「誰にだ?」
「父上に」
「……そうか?」
「戦い方は全く違うがな」
◇◇◇
やがて――。
「これなら、我が公国も受け入れられるでしょう」
アカシアント公国の代表が頷いた。
「クロード王国としても異存ありません」
「本当?」
「ええ」
アレンの顔が明るくなる。
「じゃあ決まり!」
「正式な調印は明日ですがな」
「あ……そうだった」
代表たちが笑った。
長い歴史を持つ三国自由貿易条約。
その大幅な改定案が、ほぼまとまった瞬間だった。
◇◇◇
「……先代は」
アレンが夜空を見上げる。
「昔、二国が戦争しそうになったとき、必死に止めたんだよね」
「有名な話です」
「北方からすれば、二国が戦えば得できたのに」
「ええ」
「でも止めた」
アレンは少し笑った。
「僕も、その方がいいと思う」
戦って奪うより。
三国で商売して。
飯を食べて。
風呂に入って。
馬鹿な話でもしていた方がいい。
「戦争なんて、しない方がいいよ」
誰も反論しなかった。
◇◇◇
翌日。
三国の代表者が正式な文書へ署名した。
先代魔王の時代から続く三国自由貿易条約は、新しい時代に合わせて大幅に改定された。
調印を終えたアレンは、自分の名前が書かれた文書を眺める。
「……これも残るの?」
「当然でございます」
ノエルが答えた。
「数百年後の者たちも目にするでしょう」
「そっか」
大庭園だけじゃない。
自分にも――。
未来へ残せるものが、また一つ増えた。
アレンは静かに笑った。
「先代」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「ちゃんと、続きを作れたかな」
窓の外では。
三国の旗が、穏やかな風に揺れていた。




