裏神様
樹の気が付いた時にはベッドの上にいた。いつの間にか病院に運ばれていたらしい。
ベッドの脇には両親と那由多の姿があった。樹が目を覚ましたことで皆の顔が緊張した表情から安心した表情へと変わった。
それから那由多がことの顛末を話してくれた。那由多の話を聞く限りでは、樹は軽傷で済んだが、露木は未だ手術を受けているそうだ。露木の両親は手術室の前で待機しているようだ。
那由多はそこまで話すと両親を連れて手術室まで向かった。
「おいおい、流石に一人にすることはないだろ…」
樹はそう呟きながら、ただぼんやりと病室の天井を眺めていた。すると、扉をノックする音が聞こえた。樹が返事をすると、医者と看護師が入って来た。意識を取り戻したと言うことで問診にきたようだ。
樹は医者に色々質問された。どこが痛いかとか、ここは痛いかとか、似たような質問をひたすらされた。
「思ってたより軽傷のようですね。まぁ、頭を打っているようなので詳しい検査をしてみないことには分からないですけど」
医者はそう言いながら顎を摩っている。
「あ、あの…」
「どうしました?」
「いえ、一緒に運ばれた女の子はどうなのかを知りたくて」
樹がそう尋ねると医者の表情は少し曇った。
「うーん、あの子は結構外傷が酷くてね。なんせ車が直撃だったし、頭を強く打っている。出血も多い。
今は手術中だから詳しいことはまだ分からないが、ちょっと厳しいかもしれない」
「そ、そうですか…」
自分でも余りに薄情な返事だったと思った。まるで他人事だ。本来ならば「どうしてですか! 露木は絶対に助かりますよね!?」と医者に噛みつくところなのだろうが、展開が急すぎて脳のりょりが追いついてこない。
そんな樹を見て医者は樹の方に手を置き優しい言葉をかけてくれた。
「君がそんなに思いつめることはないよ。悪いのは君じゃない。
私たちもベストを尽くすから今は自分の体を大事にしよう」
樹はその言葉を聞いて、ようやく自分の身に怒ったことが現実なんだと理解することが出来た。何もすることが出来なかった自分が腹立たしい。今更だが、悔しくて涙が溢れてきた。
「…それでは、私たちは戻りますから、何かあったらナースコールをしてくださいね」
看護師がそう言うと医者と共に病室を後にした。
また一人病室に残された樹は、ふと裏神様のことが脳裏に過った。
子供騙しだということも分かっていたし、裏神様の存在など信じていない。だが、何かをせずにいられなかった。
樹は辺りを見渡すと、さっきの看護師が忘れていったペンと問診票を見つけた。樹はそれを手に取り、問診票の裏に殴り書きで「露木奏を救ってください。対価は俺の命でも魂でも何でも差し出します」と書いた。その紙を裏返し、手を合わせ祈った。しかし、一分もしないうちに止めた。
「こんなので命が救われれば医者は要らねぇな…」
半ば、というより九割方諦めていたその時、どこからか声が聞こえてきた。
『お主、その紙に書いた願いを叶えたいか?』
「だ、誰だ!?」
辺りを見渡すが誰の姿も無い。すると、再び声が聞こえてきた。
『お主の願い、叶えてやらないこともない。
その気があるのならば、この病院の屋上までやってくるがよい。午前零時まで待っていてやろう』
そう言うと声は聞こえなくなった。問いかけても返事が返ってきそうな雰囲気はない。
声は午前零時までと言っていた。樹は壁に掛けられている時計を見ると午後十一時四十五分を回っていた。
樹は藁にもすがる思いでベッドから飛び起きた。体は痛むが今はそれどころではない。痛む体を無理矢理動かして足を進めた。
幸いなことに誰にも見つかることなく屋上へ続く階段までやってくることができた。後どれぐらい時間が残されているのか分からないが必死に体を動かし一歩ずつ階段を上る。
結構な時間をかけ、階段を上りようやく屋上へ入る扉が見えた。間に合ってくれと思いながら最後の力を振り絞り、倒れるようにして扉を開けた。
ゆっくりと立ち上がり辺りを見渡す。そこに広がっていた景色はコンクリートの床と落下防止の柵。そして星一つも見えない曇り空だった。
「おい! 来たぞ! 誰だ! 誰が俺を呼んだ!?」
樹は叫ぶが誰も呼びかけに応じるものはいなかった。
「…嘘だろ…? 間に合わなかったのか…?」
樹はやり場のない怒りに地面を思いっきり殴った。拳からは血が滲んてきた。苛立ちを隠せずにいると、また声が聞こえてきた。それは病室で聞いた声と同じ声だった。
「よくその体でここまで来ることが出来たな。
時間は…、まぁギリギリセーフということにしといてやろう」
樹は声につられて顔を上げた。すると、さっきまで星一つも見えなかった曇り空が嘘だったかのように晴れ渡り、大きな満月が顔を出し、声の主を照らし出していた。
「初めまして。妾は裏神じゃ。
お主の名は何と言うか?」
声の主は裏神と名乗り手に持っていた煙管を一つ吸って白い煙を口から吐いた。これが病室での声の主。それに最近巷で噂になっている話の正体だ。
その姿は綺麗な着物に身を包み、艶やかな黒髪を時代劇で見るようなお団子に結ってあった。背丈は那由多と変わらないぐらいである。顔は整っていて、幼い顔つきをしているが凛としており、幼さの中に大人っぽい雰囲気がある。一言でいえば美しい。そんな神様であった。
樹は裏神様にすっかり見惚れていた。すると裏神様は不思議そうな顔をした。
「おい、妾に見惚れるのはいいが、お主は友人を救いたいのではなかったのか?
はよう、名を名乗れ」
樹は裏神様の言葉で我に返った。
「す、すみません! な、名前ですね!
瑞泉です。 瑞泉樹です」
「それがお主の名前じゃな。
それで、お主の願いは何だ? それと捧げる対価を教えてもらおうか」
「えっ、紙に書いた通りですが…」
樹がそう言うと裏神様は呆れたような表情を見せた。
「知っておるわ。だが、そこまで大きな願いとなると紙に書いただけでは充分な契約は果たせん。
人間は紙などで契約を交わすかもしれんが、我々神は口で契約を果たすのだ。
神にとって紙切れの契約など仮にすぎん」
「…分かりました。
俺の願いは幼馴染の露木奏の命を救ってもらうことです
捧げる対価は俺自身の命です」
樹がそう言うと裏神様はニヤリと笑った。
「樹とやら、一つ言っておくが、その露木と言う奴は本来ならば今日死ぬはずだったのだ。
人間でいうところの『運命』というものじゃな。
しかし、お主はその運命を捻じ曲げようとしている。これがどんな意味を持つことか分かっておるのか?」
「ずベコべ言わずに早くしろ!!」
樹は間髪入れずに叫んだ。
「…この先、どんな残酷な運命が待ち受けていようとも構わぬということじゃな。
ならば、お主の命、いや魂は今日、この場から妾の物じゃ。
我が名は神楽坂 御伽。お前の主人になる者じゃ」
そう言いながら神楽坂と名乗った裏神様はこちらに近付いてきた。
「さて、お前の魂を差し出してもらおうか」
裏神様はそう言うと右腕を高く突き上げた。
「…あの、一ついいですか?」
「何だ? 今更怖気付いたのか?」
裏神様は突き上げた右腕を下ろして樹を見た。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。どうして命ではなく魂なんですか?」
「妾に取って本質的にはさほど大差はない。
もういいか? 時間がないぞ」
「じゃあ、最後に。
魂を捧げるってことは死ぬってことですよね? もし、可能であれば妹の那由多と両親にそれとなく伝えて欲しいなって思って」
「…全く、願いの多い奴じゃな。
まぁ、魂が対価だ。それとなく伝えておいてやるよ」
裏神様はそういって再び右腕を振り上げた。樹は裏神様の言葉を聞いて少し安堵した。
覚悟を決めた樹の顔を見て裏神様は振り上げた右腕を樹の鳩尾辺りに振り下ろした。その拳は確実に樹の体に入り込んでいた。しかし全く痛みを感じなかった。三十秒ほど経ち、裏神様はゆっくりと樹の体から拳を引き抜いた。すると樹は膝から崩れ落ち意識を失った。




