第9話 だから、あなたも
初見で直感した通りだ。義晴は、凪が避けねばならない類いの男だった。人を観察することが得意で、こちらの秘密の奥深くまで平気で踏み込んでくる。
(本当は、拐かしたどころじゃないけど……)
義晴の正しさに満ちた目力に嫌悪を覚え、凪は水平線の方に視線を逸らした。義晴もまた、内海に浮かぶ大型の船を遠く見つめる。
「この国でもかつて、人攫いが横行していた。儂が取り締まるまでは、女こどもを金で買うか拐かして、船に詰めて異国に運んでいく輩が後を絶たなかった」
義晴はそこで言葉を切り、もう一度凪の方を向き直る。
「もしお主もそうだというなら、容赦するつもりはない」
やはり、凪はこの男を好きになれない。こういう人間は、自分は安全圏にいながら、雲泥に沈みかけている弱者に対して、正義を振りかざすのだ。
凪も、他の仲間たちも、人殺しを生業としなければ大人になれなかった。そのことの重さが分かってたまるか。
罪への後悔すらできない本当の地獄など、見たこともないくせに。
「そう、ですか」
凪は空虚な瞳で義晴を見返した。捕まえたいならやってみればいい。生憎、勝つのはこちらだ。
義晴は凪の視線を受け止めたまま、しばし黙っていた。責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ何かを案じるように、凪の顔を見ている。やがて、その眉尻が少し下がった。
「まあ……そんな顔をするお主自身のことのほうが、今は心配になったがな」
何を言っているのだ、この男は。他人に心配されたことのない凪は、腹立たしさを覚える。
「無論、人攫いと決めつけているわけではない。だから様子を見ると言った」
義晴は、傷ついた子どもを宥めるかのような口調で言った。どこまでも、凪の勘にさわる男だ。
「ところで、あの娘に身寄りはあるのか」
義晴は藪から棒に言った。凪は面倒に思いながら、愛想なく答える。
「ないと思います」
「そうか。ならば、我が国で引き取ってもよいな」
「……え」
引き取る? その意味が凪の中に落ちるのに、少し時間がかかった。
この男が咲耶を引き取る。それは、凪の隣からあの子がいなくなるということだ。凪を殺すまで、死ぬ気でついて来ると約束したあの子が。
(でも、咲耶にとっては、そのほうが……)
凪はかすかに眉を寄せ、奥歯を噛み締める。そのとき、義晴が不意に吹き出した。
「ふっ……お主、やはり意外に、年相応にわかりやすいな」
意味不明なことを言われ、凪は不機嫌な目を向ける。
「何がです?」
「いや、なんでもない。とにかく、様子を見るということだ」
そんなやりとりをしていると、遠くから慌ただしい足音が近づいてきた。
「義晴様!」
鬼気迫る声に、凪は顔を上げる。籐子と、その後ろに咲耶がいた。
※※※
咲耶が籐子と蜜柑畑を訪れているとき、次々と人が倒れた。
苦しむ人々を目の当たりにしながら、咲耶も籐子も、農民たちと一緒に慌てふためくしかなかった。やがて、籐子が義晴に報告すると言うので、咲耶も後を追ってきたのだった。
籐子の読み通り、義晴は町を見渡せる小高い丘にいた。ところがなぜか、凪も一緒にいる。
(どうして、凪が……?)
咲耶は凪と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。気まずい。
「なに、一斉に農民が倒れた? どういうことだ」
義晴が険しい顔で籐子の報告を聞いた。
倒れた人たちに共通していたのは、直前に水を飲んだということ。ちょうど気温が高くなってきた時間で、収穫作業の休憩に、水分補給を行なったらしい。
「みんな、井戸から汲んだばかりの水のようでした。あれは暑気あたりの症状じゃありません。井戸に毒が入れられたのかも」
「毒? 儂の命ならともかく、無差別に民の命をとって何になる」
義晴は籐子の説を一蹴しようとしたが、籐子は引き下がらない。
「戦の代わりに、毒で瑞穂の人口を減らそうとしている敵がいるんじゃないかしら。義晴様、心当たりはないのですか」
「そうは言っても、周辺国とは穏便に付き合っているし、そんな気配はまるでなかったぞ」
「もう、義晴様はお人よしだから、気づいていなかっただけでは?」
「さすがにそんなことは……」
籐子と義晴のやりとりを聞きながら、咲耶もまた色々と考えていた。武器を使わずに人を大量に殺す人間がいるとしたら、ある意味戦より、よほど怖いかもしれない。
咲耶が鳥肌の立つ自分の腕を強く抱いていると、それまで傍観していた凪が、ぽつりと言った。
「この町の地図、ありますか」
凪は真面目な顔をしていた。しかし普通の人間であれば、こんな大変な時に何を、困惑する。義晴は煩わしそうに首を振った。
「今はそれより、病人たちの様子を見たい。明日にしてくれ」
その言葉に凪は、最初から期待していなかったと言うように、ため息混じりに「そうですね」と呟く。咲耶はそれが、少し引っかかった。
「籐子、病人のもとに案内してくれ。馬を使おう」
大急ぎで出発する義晴と籐子を見送り、凪と咲耶は二人きりになってしまった。
咲耶が沈黙に耐えられず、何を話そうか困っていると、凪のほうからこう切り出す。
「咲耶。悪いけど、もうここは発とう」
「え?」
咲耶は思わず顔を上げた。よりによってこんな折に瑞穂国を離れるだなんて、咲耶の選択肢にはないことだ。
「俺はどうやら義晴様に警戒されているし、毒の騒ぎもあったし。これ以上いても、厄介に巻き込まれるだけだよ
凪は瑞穂国に何の思い入れもないらしく、いつも通り淡々としている。咲耶は必死で食い下がった。
「でも、まだ肝心の竜翔湖にも行けていません」
「あー、もういいよ。ちょっと調べたけど、何もなさそうだし」
「勝手に入ったんですか? あれだけダメだと……とにかく、せめて原因がわかって、倒れた人たちの治療が始まるまで、私もここにいたいです」
「なんで?」
「なんでって……」
凪の無共感に苛立ち、咲耶は自分の袖を握りしめる。
瑞穂国に来てから、まだそれほど時間が経ったわけではない。それでも、籐子に町を案内してもらい、畑で働く人々の暮らしを知り、義晴がこの国で何を目指しているのかを聞いた。もはや、この国の人たちが赤の他人だとは、思えない。
「私も……ここの人たちの力になりたいです」
再び、沈黙が訪れた。海かもめの甲高い鳴き声だけが、やけに空に響く。
「そう」
凪は短く相槌を打った。
「咲耶はここが好きそうだし、いいと思うよ」
声音は軽かった。けれど、明らかにいつもと様子が違う。
「義晴様は咲耶のことも気にかけてるから、大丈夫」
その短い言葉が、妙に咲耶の胸を抉った。
初めは、咲耶に何か怒っているのかと思った。でも、視線の合わない凪の横顔を探ってみて、そうではないと悟る。
凪の心が、もうここにないのだ。咲耶の隣から離れ、どこか遠くに行こうとしている。
「……っ」
心臓が不規則に脈打ち、咲耶は思わず胸を抑えた。なぜ、というのは、凪ではなく自分自身に向けた疑問だ。
わかっている。凪は元より、自分を殺したがっている咲耶を連れて歩く理由がない。あるとすれば、強すぎる忍びの一時的な気まぐれだった。
そして咲耶にもまた、凪を殺すこと以外に、生きる理由はあるかもしれない。
(ここに残って、辛いことを忘れて、普通の民として生きていく……?)
それは、確かに賢い選択だと思った。凪を討ったところで、奪われた日常が戻ってくることはない。それより、自分がもっと幸せになれる生き方を探した方がいい。
義晴は民の一人一人に目を配ってくれる領主だ。咲耶の事情を話せば、追っ手の忍びが来たとしても守ってくれるだろうし、咲耶が自由に生きられる居場所も与えてくれるかもしれない。
「……違う」
咲耶は歯を食いしばり、頼りない自分の影を睨んだ。
そうだ。自分は、安寧など求めていない。
「凪の命は……私が握ってるんです」
咲耶は震える声を絞り出す。凪が、はっと目を見開いて咲耶を見る。
「凪が私の生き方を決めるんじゃありません。私がすべきことは私が決めます。凪は黙って私に従えばいいんです。だから……」
足元すら覚束なくなる、不安と高揚感。それらに呑まれてしまわぬよう、咲耶は縋るように凪を見上げた。
「凪も……ここにいて?」
そのとき、凪の瞳が初めて、咲耶の姿を曇りなくまっすぐに捉えた気がした。




