第8話 光と影
「やめ……て……」
咲耶がか細い声を絞り出すと、凪ははっとしたように手を離した。そして。まるで別世界から連れてこられたばかりのような唖然とした表情で、周囲を一瞥する。
「ごめ……」
凪は慌てた様子でそう言ったが、咲耶と目を合わせるなり、唇を結んでしまった。襲われたのは咲耶なのに、凪のほうが傷ついた顔をしている。
恐怖でうまく呼吸できないでいる咲耶をしばらく見つめた後、凪はすっと立ち上がった。
「今日は外で寝る」
「え……でも……」
「あんまり俺に近づかないほうがいいかも」
「凪、待っ……」
咲耶は思わず、去ろうとした凪の着物の袖を掴んでいた。奇しくも、初めて会った夜と同じ構図だ。あの時は、憎い仇を逃すものかという執念が、咲耶を動かしていた。でも今は、理由が違う。
「暗くて何も、見えなかったんです」
咲耶は掠れた声で言った。
「だから……」
だから? 咲耶はその先の言葉が見つからない。
あの痣が生まれつきなのか、火傷の跡なのか、そんなことはどうでもいい。凪が隠したいものだったなら、見なかったことにする。
だから、心配しなくていいから、行かないで?
自分は何を考えているのだろう。相手は、いずれ討つべき仇敵だというのに。
「……うん、わかった」
柔らかい声色は、いつも通りの凪だった。だが、凪は袖を掴む咲耶の指を、冷たく引き剥がした。
「おやすみ」
もう多分、引き止めても無駄だ。そう悟った咲耶が力なく手を下ろすと、凪はそのまま、部屋から消えてしまった。
翌日。一人で漁港を散策し終わった咲耶は、午後に茶屋の前で籐子と落ち合った。
「あら、連れの男はいないのね」
仕事を終えて前掛けを外しながら、籐子が訝しそうに言った。
凪とはあれから会えておらず、今朝枕元で見つけた置き手紙には、用事ができたから一人で出かける、とだけあった。咲耶は不安を紛らわせるため、昨晩凪に爪を立てられた手首をぎゅっと握る。
「まあいいわ。行きましょう」
二人は街の中心部を抜け、山の方へ歩いて行った。緩やかな坂道を上っていくと、涼しげな草木の匂いが混じり始める。茅葺き屋根の家々に遮られた細い小道を抜けると、目の前に、段々に切り開かれた壮大な畑が広がっていた。
「すごい……!」
咲耶は思わず手を合わせ、頬を紅潮させた。
咲耶は、しばらくその光景を眺めていた。一面の濃い緑の葉の隙間を、太陽のような黄色い点々が埋め尽くしている。夏蜜柑の畑だった。
「普通の蜜柑の旬は秋だけど、夏蜜柑は今が収穫期なの」
「こんなにたくさん実るんですね!」
「そうよ。でも、ここまで生産量が増えたのは、義晴様の治世になってからね」
「何かあったのですか」
咲耶が首を傾げると、籐子は得意げな笑みを浮かべる。
「以前は、貧しい農家も多くて、資金も設備もないから生産を増やせず、悪循環だったわ。それで、義晴様が農民たちに聞き取りをして回り、どうすれば解決するか考えた。用水路の整備、農具の調達。全ての農家に最低限の備えを確保したの」
その結果、国全体で収穫量が増えた。咲耶はまたもや、想像を超える義晴のやり方に舌を巻く。
「でも、生産がそこまで増えて、買い手はいたのですか」
「そこで、昨日会った役人の出番よ。以前はほとんどの農家が近場で蜜柑を売っていたのだけど、彼の発案で、仲介業者を噛ませて、各家から遠方の国々にも出荷できるようになったわ」
「なるほど、全部繋がっているんですね」
咲耶の心の中に、これまでに芽生えたことのない、煌めきと熱を持った感情が生まれていた。これに名前をつけるならば、きっと「尊敬」だ。
父母や師匠など所与の存在ではなく、自分で尊敬し得る相手を見つけるというのは、天変地異にも似た衝撃があった。
「義晴様って、やっぱりすごい……」
咲耶が呟いてしまったのは、無自覚に近かった。しかし、それを聞いた籐子は目の色を変える。
「あんた、義晴様に気があるの?」
「……へ?」
変な声を上げてしまった。つい今まで、どうしたら義晴のような人徳を備えられるのかと真剣に考えていただけの咲耶にとって、籐子のいうことはすぐには頭に入ってこない。
「ちょっと可愛いからって、よそ者の身で義晴様に取り入ろうなんて、承知しないんだから」
「!? ま、待ってください。私はそんな……というか籐子は」
ふと、昨日城門で会った籐子の知り合いが、「まだ義晴様の奥方の座を狙ってんのか」と言っていたのを思い出す。咲耶は、目の前の籐子がとんでもなく切羽詰まった表情をしているのに気づき、呆気に取られた。
「あれって、本気なの……?」
その時、甲高い悲鳴が上がった。咲耶と籐子は一時休戦し、畑のほうに視線を移す。
「今の……」
籐子が言い終える前に、再び悲鳴が響いた。今度は先ほどとは別の場所だ。
二人は顔を見合わせた。さらに遠くからも、誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。咲耶が呟いている間に、籐子は走り出していた。咲耶も慌てて後を追う。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」
駆けつけると、農家の夫婦が、農具を傍らに投げ出して、幼い子ども二人を抱いていた。子どもたちはぐったりしたまま嘔吐し、手足は痙攣している。
「暑気あたり……? でも顔色は白い……」
青ざめた籐子が首を傾げた。しかしまもなく、複数の方角から同じような悲鳴が上がる。
「何が起きているの……?」
ただ事でないことは、咲耶にもすぐわかった。
※※※
町の外れには、小高い丘がある。草木の生えた斜面を登れば、港と城下町、その先に広がる海を一望できる。散歩に訪れる者はいるものの、わざわざ足を延ばす者は少ない。
凪は丘の頂に座り、海を見ていた。
彼は一人で竜翔湖に忍び入り、収穫なく帰ってきたところだった。ただの広い湖で、霊雨山の洞窟の時のように、赤竜がいた痕跡や、独特の瘴気もなかった。
(また、はずれかな。)
この半年、二つほど竜にゆかりのある場所を訪れたが、何も起こらなかった。その間、背中の不気味な模様は少しずつ広がり、それを止める術も、天仙郷の手がかりも、一向に掴めない。
(くそっ、こっちは時間がないのに……!)
握りしめた拳に力がこもる。
昨日の夜、咲耶に痣を見られたと思ったとき、凪は焦燥した。心臓が大きく跳ねたかと思うと、脳に蟲がぞわぞわと入り込む感覚がして、意識が沈んだ。
ただ、何も覚えていないわけではない。咲耶に対する暴力は、体の記憶にしっかり刻まれている。
(これが、生きながら化け物になるということか。)
凪は手袋ごしに掌の傷を見つめる。物理的な体の損傷は、不死身の対価として、化け物の構造に置き換わるらしい。これは極論、怪我を避け続ければ問題がなさそうだ。
しかし、それとは別に、意識の侵食は着々と進んでしまう。実は、今まで考えないようにしていたが、気を抜くと意識を取られてしまうような感覚が、このところずっとある。
(でも、まだ普段は抑えられている。昨日の憑依の引き金は、俺自身の「動揺」か……?)
そこへ、背後から丘を登ってくる足音が聞こえてきた。凪は回想を止め、横目だけで相手の正体を確かめる。
それは、瑞穂国の領主、一門義晴だった。
「いい眺めだろう。儂もここが一番好きだ」
義晴は気さくにそう言うと、隣に腰を下ろした。凪は無言で、この人望ある男の腹の内をじっと探る。
義晴は凪の警戒心を読み取ってか、ふうっとため息を吐いて本題に入った。
「なぜ儂が、しばらく瑞穂に滞在しろと言ったか、わかるか」
それは凪としても、引っかかっていた命令だった。凪は少し思案して、抑揚なく答える。
「訳ありで面白そうだから、と仰ってましたね」
「それも半分ある。さほど美しくもない竜翔湖のために、遠くから瑞穂に来る奴はおらんからな。よほど竜に入れ込む事情があると見た」
「では、残り半分は?」
義晴が頬杖をついて凪を見る。
「お主と連れの娘、兄妹ではなかろう」
守りの手薄な部分を突かれた。凪は内心硬直したが、つとめて冷静な愛想笑いを返す。
「まあ、そうですけど。いけませんか」
「いや、人のつながりに血は重要ではない。儂とて、籐子は他人だがよく話す。だが、お主とあの子の関係は気になった。なんというか」
少し間をおいて、義晴は言葉を選んだ。
「全く交わりのない世界から、無理やり繋ぎ合わされたかのような」
凪の指先がぴくりと動く。
交わらなかったはずの関係。そんなことは百も承知だった。咲耶は本来一国の姫で、凪は表世界には存在しない忍び。だが今は、凪が仇敵だから咲耶は凪を見るし、呪いがあるから凪は咲耶を守る。
義晴は表情から一切の笑みを消し去り、有無を言わさぬ威厳で凪詰め寄った。
「お主、あの娘をどこかから、拐かしてきたわけではあるまいな」




