第7話 侵食の兆し
霊雨山での出来事から、半年。咲耶が十二歳になった初夏のこと。
凪と咲耶は西の内海を訪れていた。
「わあ……」
咲耶は感嘆のため息を漏らす。穏やかな海に、小さな島々が点々と浮かんでいた。海沿いには石積みの岸壁が延び、荷を積んだ船や小さな漁船が、波に揺られながら並んでいる。
「咲耶、裸足はやめておいたら」
凪が小言を言って来るのも、咲耶はお構いなしだ。何せ、暖かい砂が足の裏をくすぐる感覚が、とても気持ちいい。潮風が頬を撫で、目の前にはきらきらと輝く海が広がっている。しばらくこうしていたいと思った、そのときだった。
「……痛」
小さな石を踏んだらしく、足の指から血が滲みだした。凪がやれやれとこちらを見下ろす。
「ほら、言ったじゃん。手当てするからおいで」
「それくらい自分でやります。というか、この程度で手当てなんて要らないでしょう」
咲耶はつんとそっぽを向いた。凪はしばらく黙っていたが、やがて他人行儀な笑顔を見せる。
「そう。もうお姉さんだもんね」
馬鹿にされた。咲耶の頬がかっと熱くなる。何か言い返してやろうと口を開きかけたとき、凪が「あ」と声を上げた。
「見えてきた。橋を渡った対岸が城下町だ」
城下町は、海から山へと続く緩やかな斜面に広がっていた。板葺きの屋根が幾重にも重なり、家々の隙間を縫うように細い路地が延びている。山の斜面には石垣で区切られた畑が連なり、濃い緑の葉の間から、柑橘の実が顔を覗かせていた。
「ここが、瑞穂国なんですね」
竜が棲むという言い伝えのある瑞穂国。温暖な気候に恵まれ、海に近い土地では農作物も豊富に実ると聞いていた。実際、今まで巡ってきた国々と比べ、民の表情が明るく、少なくとも貧しさは感じない。
市場に入ると、途端に人の声が賑やかになった。魚を干す店、さつまいもを焼く店。また、名産の柑橘の皮を練り込んだ菓子や、果汁を使った調味料を売る店などが多く、甘酸っぱい香りに、潮の匂いが混じっていた。
(蜜柑の皮の砂糖漬け、美味しそう。)
咲耶は店の前で立ち止まり、凪に目で訴えてみる。しかし、凪の視線の先は、咲耶ではなく、道端で話し込む数人の若い娘たちにあった。凪は迷いなくそちらへ向かい、話しかける。
「邪魔してごめん。道を聞いてもいい?」
「! ええ、もちろん!」
娘たちの顔がぱっと明るくなった。同じような場面を、咲耶はすでに何度も見たことがある。
「ここに竜が棲む湖があるって聞いたんだけど、何か知ってる?」
「ああ、竜翔湖のこと? 北東の山奥にあるよ。三つの山に囲まれた渓谷。でも、一般人は入れないの。領主様の許可がないと」
「領主というと」
「一門義晴様よ。ねえそれより、お兄さんはどこから来たの? 義晴様よりいい男かも!」
娘の一人が、息がかかりそうなほど凪に顔を近づけたが、凪は気にする様子もなく会話を続けていた。咲耶は、段々だんだんと苛立ってくる。
「……先に行っています」
咲耶は言い捨てると、一人でさっさと歩き出した。背後では凪が礼を言い、娘たちが「えー、もう行くの」と残念がっている。
「咲耶、どこ行くの」
凪はすぐに追いついてきたが、咲耶は目を合わせるつもりもない。
「凪って、いつもそうですけど、道を聞くとき、わざと女性を選んでいますよね」
「ん……まあ、そうだね」
悪びれもせず、凪は答えた。
「顔で惚れられやすいから、それを利用しない手はないというか」
「惚れ……」
思わず、言い慣れないその言葉を繰り返してしまったことに、咲耶は恥ずかしくなった。同時に、呆れと怒りが湧いて来る。父を殺し、臣下たちの命も奪った男が、自分は女性にちやほやされて平然としているだなんて。能天気にも程がある。
「元々軽蔑していましたが、さらに軽蔑しました。ついてこないでください」
「だから、どこ行くの」
「湖に行くのに許可がいるんでしょう。一門義晴様のお屋敷に行ってみます」
そのとき、すぐ近くから声がした。
「私に何の用だって?」
二人が振り向く。
茶屋の縁台で団子を頬張っていたのは、色黒で彫りの深い、体格のいい若者だった。手にしていた団子を食べ終えると、残りの串を皿に置き、何事もなかったかのように立ち上がった。
「儂が一門義晴だが」
咲耶は目を瞬かせた。一国の領主が、こんなふうに町中の茶屋で団子を食べているとは思わなかったのだ。すると義晴は咲耶の驚きを悟ったようで、からりと笑う。
「瑞穂は小国だからな。こうして普段から城下に足を運べば、情勢も把握しやすい」
それを聞いた咲耶はやや困惑した。領主といえば、城にこもり、家臣からの報告を受けて国を治めるものではないのか。少なくとも、咲耶の知る父はそうだった。
そのとき、店の中から盆を持った少女が現れた。
「小国だからというだけじゃないわ」
咲耶と同じくらいの年頃だろうか。年相応の幼さは残るが、目つきは少々きつい。
「義晴様は何事も因習にとらわれず、ご自身の目で見て、その都度考えて判断される方なのよ」
少女は茶を置くと、じとっと義晴を横目で見た。
「でも、よそ者を容易く信用されるところは、玉に瑕ですけどね」
「はは、相変わらず手厳しいな、籐子は」
義晴は楽しそうに笑った。籐子と呼ばれた少女は義晴の呼びかけに応じず、今度は咲耶と凪を敵意のこもった目で睨む。
どう見ても茶屋の娘にしか見えない少女が、一国の主とごく自然に言葉を交わしている。そのことが、咲耶には不思議だった。
「で、義晴様に何の用よ」
「あ、えっと。竜翔湖という湖に行きたくて」
咲耶が答えると、義晴の表情が変わった。彼は二人を上から下まで眺め、何かを考えているようだった。しばらくしてから、心を決めたように真面目な声で言った。
「それは聞けぬ相談だな。あそこは我が一門家の私有地だ。他人、ましてやよそから来たお主らが立ち入ることは認めぬ」
「そう、ですか……」
咲耶は肩を落とす。だが、義晴は何か思惑があるのか、にやりと笑った
「ただし、お主らが信頼に足りると分かれば、認めないこともない」
「ちょっ……義晴様!」
籐子が声を上げる。
「何やら訳ありで面白そうだからな。しばらくここに滞在せよ。その間、お主らの振る舞いを見せてもらう」
義晴はそう言うと、店の前で待たせていた馬にひらりと飛び乗った。
「籐子はその娘と歳も近いだろう。町の案内でもしてやれ」
「えっ、私がですか?」
「頼んだぞ」
返事を待たず、義晴は馬を走らせていった。残された籐子は、あからさまに不機嫌そうに眉を寄せる。
「しょうがないわね。行くわよ」
籐子は凪と咲耶を引き連れ、町の要所を案内してくれた。
市場や、海岸沿いの景色を見渡せる高台の展望所など、物見遊山の旅人に人気のある場所を一通り回った後、一門家の城のそばまでやって来た。
町を見下ろす高台に建つ城は、緋前の城よりも一回り小さい。しかし、陽光を跳ね返す真っ白な壁が、青い海と緑の山々によく映えていた。
「言っとくけど、中には入れないわよ」
「籐子も入れないんですか」
「当たり前でしょう。ただの茶屋の娘が入れるわけないじゃない」
咲耶はかえって意外だった。義晴と気さくな様子で話していたので、城へので入りもしていそうなものだったが、一般の民が城に立ち入れないという点は、この国も他と変わらないらしい。
そのとき、城門から一人の男が出てきた。男は籐子の姿を見つけると、親しげに声をかける。
「おう、籐子じゃないか。元気にしてるか?」
「ええ。今は義晴様の言いつけで、この二人を町案内しているところ」
「へえ。相変わらず仲がいいな。まだ義晴様の奥方の座を狙ってんのか?」
「うるさいわね! ほっといてよ!」
男は適当に籐子をいなした後、どこかへ出かけて行ってしまった。その背中を見送りながら、凪が籐子に尋ねる。
「城に知り合いが多いんだね」
「そういうわけじゃないわ。今の人は、もともと私の家のご近所さんだったのよ」
「近所?」
「ええ。昔は衣類の卸売商人だったんだけど、最近、下級役人に登用されたの。今は城に仕えているわ」
「へえ、商人が役人になれるんだ。変わってる」
凪は相変わらず他人事のようだが、咲耶は驚きを隠せない。普通、職業は身分と結びついている。町で商いをしていた人間が領主のそばで国の統治を支えることは、緋前国ではありえなかった。
「もちろん、誰でもなれるわけじゃないわ。彼はそれだけのことをしたのよ」
籐子が少し胸を張り、港の方角を指した。
「瑞穂は海の交易が盛んなの。でも、かつてその恩恵を受けていたのは大商人だけだった。小さな商家じゃ、遠くの国まで商品を売りに行くのは難しいのよ。そこでさっきの彼は、地元の生産者から商品を集めて、他国の商人にまとめて売る仕組みを作ったってわけ」
それを聞いて、凪も納得した表情をする。
「なるほど。そうすれば小さな商家でも安定して稼げるね」
「そう。だからその功績を義晴様が買ってくださったわけ」
咲耶は、白い城を見上げた。身分の高い者だけが国を動かすのではない。民の知恵も国を豊かにする力になる。そのことが、咲耶には新鮮だった。
町の中心部に戻ってきた頃には、日も傾き始めていた。
「今日はこのくらいね。そこの宿がお手頃だから、おすすめよ」
籐子が指さしたのは、通りに面した小さな宿だった。
「いろいろありがとう」
咲耶は深々と頭を下げたが、籐子はそっけない。
「別に。義晴様に頼まれたから。明日は蜜柑畑でも案内してあげる。茶屋の仕事が終わってからだけど」
「はい、よろしくお願いします」
「じゃあ、また明日」
籐子は踵を返し、人混みの中へ消えていった。気が強いし愛想もないが、面倒見が良い娘だと、咲耶は思った。
「義晴様のお許しなんてなくても、忍び込めるんだけどな、竜翔湖」
凪が生あくびをしながら言うので、咲耶は睨みつけた。
「そんなの絶対だめです。必要な手続きは踏んでください」
「はいはい、真面目だなあ、咲耶は。それより、疲れたし宿入ろうか」
宿に入ると、二人は久しぶりに屋根のある部屋で休むことになった。旅の間、野宿が続いていた咲耶にとって、柔らかな布団も、湯を使える風呂も、何もかもが数週間恋焦がれていたものだった。
「ああ、いいお湯だったー……」
誰もいない部屋で、咲耶はつい独り言を呟いてだらしなく寝そべった。体も温まっているし、いつもなら布団をかぶってすぐ、深い眠りにつけそうなものである。
けれど、目を閉じても、なかなか眠れなかった。
(この国は、緋前とは全然違う。)
城下の生活の溶け込んでいる領主。商人から役人になった男。おそらく、まだまだ咲耶の想像を超えた秘密が、瑞穂国にはたくさんある。
(もっと知りたい。話を聞きたい。学びたい……!)
寝返りを打っても、目は冴えるばかりだ。
そのうちに、廊下からかすかな物音が聞こえてきた。
(凪かな……)
彼は夜になると、一人で鍛錬をしていることが多い。咲耶が眠っている間に戻って来るので、凪が寝ている姿はほとんど見たことがない。
襖が開き、閉じる音がした。足音が近づき、隣の布団のそばで止まる。しかし、いくら待っても、横になる気配がない。
咲耶は、そっと目を開けた。月明かりが、部屋の中に淡く差し込んでいる。
凪は背を向け、着物を着替えていた。脱いだ上着を脇に置き、次の着物に袖を通そうとしている。
そのとき、肌が一瞬、露わになった。
(……え?)
咲耶は息を呑む。異性の肌を見てしまった。そのことに恥じらったのは、ほんの刹那だけだった。
それよりも、凪の背中に浮かんだ赤黒い模様が、目に焼きついて離れない。
次の瞬間、咲耶の視界が揺れた。
「……っ!」
気づけば、凪が覆い被さり、咲耶を制圧していた。咲耶の両腕は頭の上で押さえつけられ、身動きが取れない。
「何か見た?」
見下ろしてくる凪の目は、据わっている。獣のような力で手首を締めつけられ、咲耶は痛みで小さな悲鳴を上げた。それでも凪は、止まらない。
「答えろ」
手の甲に、凪の爪が食い込んでくる。こんなこと、凪は今までに一度もしなかった。
(なんで……)
死ぬのかもしれない。それなのに、その牙に胸を貫かれることさえ、甘美なものだと錯覚させられる。凪の殺気には、そんな恐ろしい色気が共生しているのだと、咲耶は初めて思い知った。




