第6話 死なない約束
洞窟の中は真っ暗で、凪が松明を持っていなければ、奥に細い通路があることなど気がつかなかっただろう。先日の探索では、人々を助け出すことに精一杯で、洞窟の奥を調べる余裕などなかったのだ。
橙色の炎の下、岩肌に二人の影が長く伸びる。揺れる炎を見つめながら、咲耶はふと、凪が昨日使った忍術のことを思い出した。狐火残影と言ったか。火が恐ろしい咲耶でさえ、あの幻想的な青白さには見惚れてしまった。
「……忍術って、みんな使えるわけではないんですね」
暗闇に気を取られないよう、咲耶は前を歩く凪に話しかけた。沈黙が続くと、この世ではないところに拐かされそうな気がする。
「全然。十年や二十年修行しても、一握りしか使えないよ。俺も、体力消耗が激しいから滅多に使わないし」
「十年……」
咲耶は、その数字を小さく繰り返した。
「凪はいつから忍びになったの?」
「いつからだろ……。葛城の里に拾われたのは、五歳かな」
そんなに幼いときに。咲耶は、前を歩く凪の背中を見上げる。
思えば、自分は凪のことを何も知らない。彼がどこで生まれ、どんな暮らしをして、どうして忍びになったのか。今まで知ろうとしなかったし、凪も自分から話すことはなかった。
突然、凪がぴたりと足を止め、咲耶を振り返った。松明の灯りが、その顔を下から照らしている。そして凪は、いたずらっぽく微笑んだ。
「暗いところ、苦手?」
「っ……!」
心臓が跳ね上がった。怖さを紛らわせるために話しかけていたことを、見透かされたらしい。咲耶は赤面して俯く。
「隣、おいで」
凪はそう言って、強引に咲耶の手を取った。想定外のことに、咲耶は「ひっ」と声を上げ、抵抗する。
「や、やめてください!」
「そこの足元、気をつけてね」
「離してって! ……あっ」
凪が再び急に立ち止まった。咲耶は勢いを止められず、前につんのめる。とっさに凪の腕にしがみついた。
「ちょっと、さっきから何を……」
咲耶は抗議しようとしたが、凪はまっすぐ前を向いたままだ。松明の火の向こうに目を凝らせば、そこには巨大な空間が広がっていた。
「これは……」
咲耶は思わず息を呑む。天井は高く、広さは緋前城の大広間ほどもあるだろうか。壁には赤い竜の絵が描かれ、奥には石造りの祭壇のようなものが据えられていた。
「ここが、封印の地……?」
未知の光景に引き寄せられるように、咲耶は一歩を踏み出した。しかしその手は、強く引き戻される。
「足元」
「……え?」
凪の声に、咲耶は足元を見た。岩の床に、大きな穴が空いている。
大人が十人並んでも通れそうなほどの穴だった。縁の岩は無残に砕け、床には大小の破片が散らばっている。穴の周囲には、地面そのものが内側から押し広げられたような亀裂が幾筋も走っていた。
まるで、巨大な化け物が地中から這い出したかのようだった。
「これって…?」
「竜かな」
凪は咲耶に「こっち」と合図すると、穴を避けて壁際へと進んだ。松明の火を壁画に近づける。
そこには、古い歴史絵巻のように、いくつもの絵が時系列に並んでいた。
「ずいぶん古いね。顔料が崩れかけてる。描かれたのは三百年以上前かも」
凪は人差し指で、剥がれかけた赤い顔料にそっと触れた。
最初の絵には、赤い竜と人間たちが描かれていた。竜の周りには大勢の人々が集まり、手を合わせている。
次の絵では、人間が竜に何かを差し出していた。その次には、竜が人間の願いに応えるかのように、力を振るう姿が描かれている。
しかし、その次の絵では、大地が裂け、人々が逃げ惑っていた。荒れ狂う風や炎の中、家々が崩れ落ちている描写もある。
そして、最後の絵。
「人間たちは、洞窟に豪勢な食事を用意し、竜を招いた。そして竜が気をよくしている隙に、竜を封印した……ってことかな」
凪が淡々と言った。つまり、赤竜は騙されてこの地に封印されていたわけだ。
「……赤竜は、少し可哀想ですね」
咲耶がぽつりと呟いた。
「人間の願いに応えようと、一生懸命だっただけなのに」
「どうだろ」
凪の返事は、そっけなかった。
「それより問題は、その竜がもうここにいないってことだね」
凪は、床に空いた大穴の縁にしゃがみ込んだ。松明をかざし、砕けた岩の断面を確かめる。
「内側から押し破られてる」
穴の縁には、爪で抉ったような深い溝がいくつも残っていた。
しかも、穴は床だけで終わっていない。天井へ向かって岩盤が大きく崩れ、その先には、地上へ続いているらしい裂け目が暗く口を開けていた。
「封印を破って、ここから外へ出たのか……」
凪が呟く。赤竜は封印されていた。けれど、今はここにいない。ならば、どこへ行ったのだろう。
「その穴は、二十年前にできたものです」
背後から、老人の声がした。
「……っ!」
二人は同時に振り返った。
洞窟の入口へ続く通路に、ひとりの老僧が立っていた。どこかで見た覚えのある顔だ。確か、落城の翌日、郊外の廃れた寺で凪と話し込んでいた僧侶ではなかろうか。
「源庵」
凪が目を見開いた。
「なんでここに」
「私は医僧ですので、諸国を巡り、病や怪我に苦しむ人々を癒しております」
「医者をして……?」
「ええ。ここに封印されていた赤竜が解き放たれて以降、多くの人々がその力の犠牲となったことに、胸を痛めておりましたゆえ、医術を学びました。腕はいいですよ」
咲耶は源庵が肩から斜めがけにしている、つぎはぎだらけの風呂敷を見やった。あそこに、医療道具が詰まっているのだろうか。
「城下で、赤竜の封印地へ向かった兄妹がいるという噂を聞きまして。もしやと思い、参った次第です」
「なに、心配してくれてたの。前に会ったときは、戦闘にびびって逃げたくせに」
「私には病を癒す使命があります。おちおち死ぬわけには参りませんから」
源庵は咲耶を見て、落ち窪んだ目をさらに細めた。
「……まだ、加護継承の影響ないようですな」
「……?」
何のことだろう。咲耶が尋ねる前に、源庵は再び凪へ向き直った。
「逃げた赤竜は、天仙郷にいるのかもしれません」
「天仙郷?」
「ええ。お伽話で聞いたことがあるでしょう。竜たちが住まう地です」
源庵は、洞窟の奥へ目を向ける。
「普通の人間には、辿り着くことすらできない場所。しかし、『竜の加護を持つ人間』は違います」
「竜の加護を持つ人間」という言葉を聞いたとき、凪が咲耶の手をぎゅっと握った。凪の表情から、いつもの軽さは消えている。
「あんたも、行ったことがあるのか?」
「ええ。かつて」
「どうすれば至れる?」
源庵は少し考えるように目を伏せた。
「竜にまつわる地を巡ってみるとよいでしょう。古くから神聖とされてきた場所のどこかに、入口が開いている可能性があります」
「どこか、って……」
「時代によって、入口となる場所が変わるようなのです。今はどこなのか、私にも見当がつきません」
「そう」
咲耶の胸に、言いようのない不安が広がっていく。ここにいてはいけない。そんな気がする。
源庵は、無言の凪をじっと見つめて言った。
「……もう外に出ましょう。ここは、瘴気が多すぎる」
洞窟を出ると、昨日と同じく、夕暮れが近づいていた。木々の隙間から差し込む光は、来たときよりも赤みを帯びている。
「では、私はこれで。楓野の民に治療を施してまいります」
源庵は二人に一礼すると、山道を下っていった。その背中を見送り、咲耶は小さく息を吐く。
封印の地に竜はいなかった。その方が、凪の野望が潰えて安心のはずなのに、こんなに落ち着かないのは何故だろう。
そう思った次の瞬間だった。
「……っ」
隣で、凪が崩れ落ちるようにうずくまった。
「凪……?」
咲耶はそっと膝をつき、凪の顔を覗き込む。
凪の顔は、真っ青だった。吐く息が細かく震え、咲耶が触れた腕はぞっとするほど冷たい。
「さっきのお坊様、お医者さんだって……呼んできます」
「いらない」
駆け出そうとした咲耶の腕を、凪が力強く引き留めた。
「……ちょっと、瘴気に当てられただけ」
凪が瘴気などというものを理由にしたことに、咲耶は驚いた。戦闘をさせたら右に出る者がいない彼が、そんな不確かなものに負けるのだろうか。
「少し休ませて」
凪はそう言って、木の根元に背を預けた。咲耶は隣に腰を下ろす。
弱っている凪を、初めて見た。柔らかい前髪から覗く瞳は、誰にも救いを乞おうとしていない。咲耶の心臓が、ドクンと波打って縮む。
「……凪、死ぬの……?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。どんな顔をしているのかも、わからない。
凪が、少しだけ顔を上げた。驚いたような目で、咲耶を見つめる。
「……死なないよ」
凪の表情が、ゆっくりと和らぐ。
「君に殺されるまでは、死なない」
黄昏の風が二人の間を吹き抜け、咲耶の長い髪が、凪の小指にふわりと巻き付いた。
ーー少しは眠れた?
全てを失ったあの日、眠れないはずの長い夜に、咲耶は本当は、少しだけ眠ることができた。凪が、そばにいたから。でも、そんなことは誰にも言えるものか。
「約束」
凪が、咲耶の髪先に少し顔を寄せ、誓うように言った。
(忘れるな。)
咲耶は歯を食いしばる。この男を、他ならぬ自分だけは絶対に、赦してはならないのだから。
第一章「死なない約束」完
第二章作成まで時間をいただきます。章を追うごとに、咲耶がちょっとずつ歳を重ねていきます。




