第5話 敵わない人
名を呼ばれた翡翠は、ニヤリと笑った。
「元気元気。次期筆頭の凪がいなくなったってんで、後釜を巡って血みどろよ。ま、俺が全部殺したんだけど」
「怖……」
凪は心底呆れたように呟いた。
「それで、無事に翡翠が筆頭になれそう? まあ無理か。お前は手当たり次第に殺すから、技術があるだけで人がついてこない」
「ちっ、ほざくな!」
翡翠の姿が消えた。次の瞬間、火花が散り、金属のぶつかり合う音が山中に響き渡る。咲耶には、二人がいつ刀を抜いたのかさえわからなかった。
「それより凪、お姫様連れて何してんの? 幼女趣味? それとも父性に目覚めた?」
「あれ、翡翠そういうの興味あるんだ。お年頃だね」
「はあ?」
「意外に翡翠は、好きな子ができると猫みたいになったりして」
「てめえ、ふざけんなよ!」
翡翠が青筋を立てたのと同時に、凪は足元の砂を蹴り上げる。舞い散る土埃に、翡翠が一瞬だけ目を細めた刹那、凪の姿が消えた。
「くっ!」
翡翠は振り返るより先に身を沈めた。頭上を刀が通り過ぎる。
「引っかかるかよ、ばーか」
翡翠は屈んだ状態で斬撃を繰り出す。しかし凪は上体を反らしてかわし、返す刀で翡翠の首筋を狙う。翡翠は間一髪で身をひねると、凪の胴めがけて刀を打った。
その時、翡翠の顔に一瞬、「しまった」という表情が浮かんだ。
優れた忍びはここで、敢えて攻撃に当たりに来て、受傷する。それによって反撃の隙をつくり、翡翠に真正面から致命傷を負わせるのだ。
しかし。
「……っ」
凪は、一瞬何かを考えた末、翡翠の攻撃を避けた。二人の忍びは、間合いをとって地面に着地した。
「……凪、お前、変じゃね?」
翡翠がゆっくりと首を傾げる。
「お前だったら、今のは避けたりしない」
凪は何も答えない。獲物の急所を捉えた獣のように、翡翠は凪へ顔を寄せ、かっと瞳孔を開いた。
「凪、怪我するの怖えの?」
凪の表情が、わずかにこわばる。遠目に見守っていた咲耶にも分かった。
凪は、何か隠している。
「……調子に乗るなよ」
それまでの単調な声色とはまるで違う、感情の谷底から搾り出したような低い声。
そして、凪の刀身に突如、青白い炎が灯った。
「忍法ーー狐火残影」
ふっと凪の姿が消え、無数の青い火が翡翠を取り囲む。
「な……卑怯だぞてめえ、剣で勝負しろよ!」
翡翠の表情にもはや余裕はない。頭上で木々の枝が大きく揺れると、翡翠がそれに気づく暇も許さず、どこからか声が響いた。
「疾風鎌鼬」
目に見えない風の刃が翡翠の頬を掠め、背後の草木を切り裂く。さらにそれは、弧を描いて翡翠を追いかけてきた。
殺される。
「くそっ!」
次の攻撃をかわした翡翠は、高速で二度ほど跳んで、距離を置いた。
次の瞬間、その体が崖下めがけ、宙に躍る。
「覚えてろ!」
凪が崖淵に降り立った時には、すでに黒装束の姿は見えなくなっていた。
「なんでここが分かったんだろ。俺はずっと気配を消してたし、咲耶は元々気配がないのに」
そう呟きながら、凪は自分の掌を手袋越しにじっと見つめる。そういえば、凪が手袋を外したところを、咲耶は初日以来見たことがない。
洞窟の影に身を潜めていた咲耶は、無言のまま夕空の下に姿をあらわした。その咲耶を振り返った時には、凪はすっかりいつもの調子に戻っていた。
「あいつ、二つ年下なんだけど、忍術がまだできないんだ。今日のところはもう戻って来ないと思う。自分の命は惜しむ奴だから」
凪が何事もなかったみたいに笑っている。咲耶にとって、いつの間にかこれが日常になってしまっていた。こんなもの、ずっと続いていくわけがないのに。
「今回はいろいろ大変だったね。でも、これで咲耶もお金の価値がわかったでしょ。もう簡単に無くしたり、人に全部あげたりは……」
そこで、凪の言葉が途切れた。その視線の先は、咲耶だけにある。
「……っう……ふえ……っ」
咲耶の頬に、次から次へと涙がこぼれ落ちた。
自分でも矛盾だと思う。家族も住まいも全て失い父の仇に手を引かれた、あの日でさえ、泣かなかったのに。
赤竜を崇拝する大男を一人で制したことが。その男が目の前で殺されたことが。翡翠の狂った目に見据えられたことが。それでも生きたいと思ったことが。とてつもなく怖かった。
「ごめん」
凪の声が、いつになく小さくなる。
「翡翠が出てきたのは誤算だったんだ。怖かったよね」
そうして、咲耶の頭に大きな手が触れる。ぎこちないものの、撫でようとしてくれていることは咲耶にも分かった。
この人には、到底敵わない。咲耶はそう思った。戦う技術も、生きる力も、それからたぶん……あらゆる意味で。
「でも君は、ちゃんと誰かを助けられた」
凪の言葉に、咲耶は顔を上げた。
***
翌日、凪と咲耶は、口入屋に戻って報酬を受け取っていた。
「全員無事だったんだってな、驚いた」
元締めがキセルを外し、口元を緩める。
洞窟にいた人々は、全員生きていた。ただ、怪我が酷く、自力で動ける者はいなかった。そこで凪は咲耶を連れて山を下りると、麓で応援を呼び、皆で協力して一人ずつ運び出したのだ。今は手当てを受け、療養しているという。
あのまま発見が遅れていれば、彼らは儀式の生贄として殺されていたかもしれない。
「赤竜を崇めてたっていう野郎は、嬢ちゃんが行った時には、すっ転んで木の根に刺さって、死んでたらしいじゃないか。嬢ちゃんも嫌なもん見ちまったな」
元締めはそう言って、慰めてくれた。大男の遺体は検死されたのだが、傷痕が咲耶の脇差とは異なるため、咲耶の容疑はすぐに晴れた。というより、凪が死因を細工してくれたというのが大きいのだが。
「というわけで偶然だったかもしれんが、約束は約束だ。たんまり報酬持っていきな」
手渡された布袋は、ずっしりと重かった。咲耶が「なくした」分の五倍はあろう。
「ところで」
元締めが、怪訝な顔で言う。
「せっかく事件が解決したっていうのに、これからもう一度あの洞窟へ行くなんて……お前たちも変わってるな」
ため息を吐く咲耶の隣で、凪が愛想よく笑った。
「赤竜様を、まだ崇めてないんでね」




