第10話 永遠の鎖を
「……」
口をわずかに開いたまま、凪は硬直していた。しばらくして目を逸らし、さらに斜め下を向いて、そのまま黙り込んでしまった。表情は変わらず、何を考えているのかわからない。
「あの、凪……?」
咲耶がそっと、肘のあたりを押してみる。すると、凪の体がびくっと跳ねた。
「あ、ごめん……ちょっと息するの忘れてた」
「えっ、なぜ?」
「なんでだろ……」
凪はそう言って、突然、すぐそばの岩に腰を下ろす。片膝を立て、その上に腕を乗せると、顔の下半分を埋めるようにして俯いてしまった。
(もしかして、また具合が悪いのかな。)
霊雨山でのことを思い出し、咲耶は少しだけそばへ寄る。ややあって、凪がぼそりと呟いた。
「さっきの……」
「え?」
「いいよ、咲耶がそう言うなら」
そのとき咲耶の胸中で、さっきまでの不安が嘘のように消え去った。目に映る景色は瞬く間に彩度を上げ、青葉に反射する陽の光すら眩しい。
(この人は今、どんな顔してるの……?)
こっちを向いてくれない凪の腕を、引きずり下ろしてしまいたくなった。凪の「本当」が知りたい。かすかな思いが、乾いていたはずの心にそっと芽吹きだす。
「一つ、聞いていい?」
ふと、凪が口を開いた。
「竜翔湖に行くこと、手続きはともかく、協力してくれたのはなんで? 前は、俺が竜に会うのを嫌がってたのに」
確かに、咲耶は元々、竜翔湖に立ち入る許可を得るため、領主の一門義晴を探した。そして、義晴が出した条件に従い、この町に滞在している。
赤竜の力で世界を征服するだなんて、協力できるわけがない。でも。
(凪は、嘘をついている……)
それくらいは、咲耶にもわかっていた。嘘の内容までは、わからなくても。
「……最後は、私が凪を討つからいいの」
不貞腐れたような言い方になった。しかし、凪はようやく顔を上げ、咲耶をまっすぐに見据える。
「そっか、がんばろうね」
そう言ってから、一番幸せなことを思い出したみたいに、笑った。
丸一日が経ち、翌日の昼過ぎ。咲耶は、蜜柑畑を訪れていた。
畑には役人たちの姿があり、義晴と籐子も病人たちの様子を見て回っている。収穫の時期だというのに、辺りには活気がない。静まり返った田舎道で、黄色く丸い蜜柑の実だけが、元気そうに木々に溢れている。
「あら、咲耶じゃない」
籐子がこちらに気づき、声をかけてきた。
「みなさんの具合はどうですか」
「好転はしてないわ。意識のない人もいる」
「そうですか……。あれから、飲み水はどうされているのですか?」
「どうやら、問題があるのは農地の周りの井戸だけなの。ネズミに飲ませて確かめたわ。市街の井戸は無事だから、そこから水を持ってきているのよ」
籐子の指差す先では、役人たちが水を配っていた。桶を抱えた者が畑の間を行き来し、農民たちに水を手渡している。
その少し離れた場所では、義晴が一人の母親と向き合っていた。彼女は目を覚まさない子供を案じ、泣きじゃくりながら何かを訴えている。
母親の話がひと段落したところで、咲耶は義晴のもとへ歩み寄った。
「義晴様、少しよろしいですか」
「ああ、どうした?」
「少し、お話ししたいことがあって……」
咲耶の言葉に、義晴は頷いた。
三人は病人たちから少し離れ、畑の外へ出る。咲耶はその場にしゃがみ込むと、地面に落ちていた木の枝を拾い、土の上に絵を描き始めた。
山と、町。簡単な地図だった。
「山の井戸はこの辺りで、市街の井戸はここです。それから、町の中心部には川があります」
木の枝で、町を縦に横切る線を引く。市街地と農村部を区分するように流れる川だ。さほど大きくはないが、山頂から海まで続いている。
「市街の井戸は、十六間ほど(30m)の深さから地下水を汲み上げています。一方、山の井戸は、せいぜい三間ほど(5m)しかありません」
「農民たちが自分で掘ったものが多いからな。山の地形的にも、深く掘りすぎれば土砂崩れを招きかねん。仕方のないことだ」
「はい。ですので、山の井戸は浅いところの地下水を汲み上げているんです」
咲耶は川の線を、木の枝でなぞった。
「浅い地下水は、川の水と混ざり合うことがあります。この川に有毒なものが含まれていたら、地下に浸透した水によって、井戸が汚染されるかもしれません」
「なに?」
義晴が身を乗り出す。
「川の周辺は砂利が多いので、水が地中に浸透しやすいんです。でも、市街の井戸が汲み上げているのは、粘土の層に覆われた、もっと深いところの地下水です。だから、川の水の影響を受けにくいのではないかと……」
義晴と籐子は顔を見合わせた。
もし咲耶の言う通りなら、農地の周辺にある井戸だけが汚染されたことにも説明がつく。
「川の水をそのまま汲んで使う人もいるわ。私、みんなに知らせてきます」
籐子はそう言うと、返事を待たずに駆け出していった。その背を見送ってから、義晴は咲耶に向き直った。
「しかし、どうして井戸の深さの違いなどがわかったのだ?」
「昨日から、凪と一緒に調べていました」
咲耶が答えると、義晴はふと、その手に目を留めた。手の甲に擦り傷があり、手のあちこちが赤く荒れている。
「……そうか」
義晴は小さく息を吐くと、咲耶の前にしゃがみ込んだ。咲耶は少し迷ってから、再び口を開いた。
「それと……これは、誰かが仕掛けた毒ではないかもしれません」
「というと?」
「この川は、山の上にある湖とつながっていませんか?」
義晴は考え込んだ。やがて、思い当たったように顔を上げる。
「……ああ、その通りだ。よく知っていたな。そこまで調べたのか?」
「ごめんなさい……。私はその、遠くから見ただけなんです」
「いや、構わん。この一大事だ。それで、湖とつながっていたらどうなる?」
咲耶は地面に描いた山の上に、もう一つ、丸い形を描き加えた。
「私はまだ竜翔湖のそばには行っていないので、確かなことではありませんが……」
そう前置きしてから、咲耶は「毒」の正体を説明した。話を聞くうちに、義晴の目が大きく見開かれていく。
「今までの説は、お主が考えたのか?」
咲耶はばつが悪そうに首を振った。
「いいえ。凪が言っていたことです。他の地域で、同じようなことが昔あったのを知ってるって。私は、本当かどうか調べるのを手伝っただけで」
義晴は眉をひそめた。
「あやつ、そんなことがわかっているなら、早くそうと言えばいいものを……」
そこまで言って、ふと口をつぐむ。そして、苦笑した。
「いや、あやつは、ちゃんと言ってくれていたな。儂が聞いてやらなかっただけだ」
凪が地図を求めたのは、この仮説を考えていたからなのだろう。だがあのとき、義晴は取り合わなかった。
「で、あやつはどこにいる?」
義晴は地面に描かれた地図を見下ろし、咲耶に尋ねた。咲耶は義晴を怖々見上げ、申し訳なさそうに「竜翔湖に」と答えた。
※※※
その頃、凪は竜翔湖にいた。
湖面には、緑色の藻が一面に広がっている。水面を覆い尽くすように繁殖したそれを間近で凝視し、凪は呟いた。
「……やっぱり、そうか」
前回来たときにも、湖に藻が浮いていることには気づいていた。だが、当時は手つかずの汚い湖だとしか思わなかった。遠目に見れば、ごくありふれた藻と変わらないからだ。
けれど、これは違う。よく見れば、ところどころに青い斑点がある。「藻毒」と呼ばれるこれは、池や湖に繁殖する有毒な藻である。体内に取り込めば、痙攣や呼吸困難を引き起こし、最悪の場合は命を落とす。忍びの間では、これを原料に毒薬を作り、暗殺に用いることもあった。
凪は湖面から顔を離し、思案する。
(であれば、解毒薬の作り方もわかる。あとは、その材料をどうやって調達するかだけど……)
ひゅっ、と風を切る音が耳をかすめた。凪は反射的に身をひねる。直後、手裏剣がいくつも飛来し、つい先ほどまで凪のいた場所を通り抜けていった。
「……っと」
地面に突き刺さった手裏剣を一瞥し、凪はゆっくりと顔を上げる。
周囲の木々の合間から、黒い影が続々と姿を現す。五人、六人……いや、もっといる。退路を塞がれ、凪は小さく息を吐いた。
「どうやら……はじめまして、なのかな」
現れた者たちの装束は、漆黒ではなく、藍をどこまでも暗く染め上げたような色だった。葛城衆とは対立する、藍影衆の忍びだった。




