第3話 猛毒と蜜、師匠と弟子
凪と旅を始めて、三か月が経った。
「隙だらけ」
頭上から降ってきた声に、咲耶は慌てて身をひねった。次の瞬間、耳のすぐ横を刀が通り過ぎる。
「っ……!」
「目を瞑るなて言っただろ。次の攻撃が見えなくなる。自分から死にに行ってるようなものだ」
「だ、だって、昨日までは木刀だったのに、急に真剣を使うから」
「言い訳するな」
凪が素早く振り下ろした刃を、咲耶はほぼ反射で弾き飛ばした。息が完全に上がっている。
「今日はここまで」
凪は落ちた刀を回収すると、野営のために張った小さな天幕から竹筒を取り出し、咲耶に渡してきた。中には水が入っている。
「……最後の一撃は良かった」
凪が、おそらく今日一番の優しい声で言った。咲耶は返事をせず、釈然としない感情を誤魔化すため、必要以上に水を喉に流し入れる。
「夕飯はさっき狩ったキジを焼こう。これ絶対美味いやつ」
凪は手際よく小枝を集めると、天幕の前に胡座をかいた。細い枝を折り、枯れ草を重ね、慣れた手つきで火打ち石と鋼を打ち合わせる。燻り始めた火花を両手で囲い、そっと息を吹きかけると、火種は懐くみたいに一気に羽を広げ、凪の横顔を赤く染めた。
(火、怖い。でも、綺麗……)
咲耶はその光景に見入りながら、ため息を吐く。
凪は不思議だ。存在感が薄く、すれ違っただけでは誰も気に留めない。初対面でも、まるで警戒されることがない。
なのに、一度言葉を交わすと、なぜか目で追ってしまう。その造形も、何気ない仕草も、声も、人の心に柔らかく噛みついてくるような、危うい色気があった。
「なに? 人の顔じっと見て」
「……別に。凪はなんでもできるんだなって」
戦闘もとい人殺しはもちろん、狩に野営、調理、洗濯、などなど。侍女たちに身の回りのことを全てやってもらっていた咲耶は、凪を見ていると自分の生活力のなさを突きつけられる。咲耶は、自分の袖をぎゅっと握りしめた。
「私は……できるようになるのかな」
「火おこし?」
「違います。生きていくことです」
不意に炎が大きく揺らぎ、咲耶はびくっと体を震わせ後ずさる。咲耶にとって、火は怖いものだ。城が崩れ落ちたあの夜を、嫌でも思い出した。
「できるよ。俺が全部、教えるから」
少しこちらを振り返った凪と目が合う。途端に、炎への恐怖が、ぐちゃぐちゃな気持ちに塗り変わる。
この猛毒と甘さが絡み合ったような気持ちが、咲耶は大嫌いだった。
***
翌朝、二人は一晩を明かした山から降り、麓の町で買い物をすることにした。緋前国から、蒼海国を挟んで二つ隣、楓野国の城下町である。
「俺は着物屋で羽織るものを調達してくる。秋も深まってきたしね。咲耶は食べ物買ってきて」
そう言うと、凪は一握りの貨幣を手渡してきた。世界征服のために忍び衆を辞めてしまった凪は、収入源がない。だから凪と咲耶はその日暮らしをしており、お金はとても貴重なものだ。
「でも……何を買えば……」
「保存がきくものがあると嬉しいかな。でも、今日食べる分はなんでもいい。咲耶が好きなの買いなよ」
「あ、あの……」
凪はひらりと手を振って、あっという間に喧騒の中に消えてしまった。相変わらず、一人だと歩くのが早い。
咲耶は掌の貨幣を見つめ、困り果てた。実は、一人で買い物などしたことがない。姫だった時は買い物自体しなかったし、旅に出てからも凪がやっていてくれたので、咲耶はこのお金にどれくらいの価値があるのかも分からない。
「らっしゃい! 生きのいい魚が入ってるよ!」
「うちの店の方がお値段いいよ!」
元気なのは店主や行商人だけではなく、客たちもだった。値引きを交渉する声や笑い声、たわいのないおしゃべりなど、耳が潰れそうだ。小柄な咲耶は人混みに押し流されながら、きょろきょろ辺りを見回していた。
「餅はいかがかね。焼き餅、保存用、あんこもつけるよ」
ふと目に止まった餅屋が、なぜか特別に輝いて見える。もち米を潰したばかりの甘い匂い。そういえば、咲耶はあんこ餅が大好きだった。
「すみません、お餅いただけますか」
「はいよ。どれにする?いくつ?」
「えっと……」
今すぐ食べる用の他に、保存も買っておくとよいだろうか。品物の種類を確認しようとした時、視界の隅に、黒い影が映り込んだ。
「!」
泥棒だ。咲耶は反射的に、餅を盗もうとする腕を取り押さえていた。凪に叩き込まれた体術が、早くも役に立ってしまった。
「何してるのっ」
咲耶は静かに叱った。そして相手の姿を見てはっとする。泥棒は、咲耶より幼い男の子だった。肌は汚れて真っ黒で、髪にはシラミが這い、服は穴や千切れた跡だらけだ。咲耶に捕まれた腕も、骨と皮しかないのではと思うほどに細い。
「母ちゃんは病気で寝たきりだ。妹だって、腹を空かせてる。俺が食いもんを持って帰らなきゃ、全員死んじまう」
彼は、痩せっぽちの子供とは思えない強い力で、咲耶の手を振り解いた。
「お前にはわかんねえだろ。明日食うもんがないって、どういうことか。お前たち勝ち組はいつもそうだ。人に迷惑をかけるな、まともな仕事をしろ、清く正しく生きろって。だけど、領主や武士たちはどうなんだよ!」
額に青筋を立て、彼は咆哮した。
「あいつらは好きで戦して、土地も俺たちも犠牲にして、その血の上に君臨してるじゃないか!」
騒ぎを聞きつけ、なんだなんだ、と人だかりができ始める。
咲耶は思い出したのだが、ここは二年前に蒼海国から攻め入れられ、激しい攻防の末に領土を守り切ったものの、一般領民を含め死者多数、領地も荒廃したという。戦の最中、咲耶の父が、援助として緋前国から兵を送り込んでいたから、咲耶もこの町が戦火にさらされたことは知っている。
けれど、生き延びた人たちのその後の暮らしについて、考えたことがあっただろうか。
「なんだい、物取りかい」
餅屋の女将が眉間に皺を寄せてやってきた。先刻まで煮込んでいた胡桃ダレの匂いが、芳しい。
「なんでもありません。お餅、やっぱりいらないです。ごめんなさい」
咲耶は丁重に頭を下げると、男の子の手を引いて店を出た。誰も見ていない小路まで来ると、咲耶は手持ちの貨幣を差し出した。
「私はお金をうっかり落としました。あなたはそれを、たまたま拾った」
小さな手にはあまりある貨幣を握らされた男の子は、困惑した表情で咲耶を見上げる。咲耶は言った。
「私は今……あなたの問いへの答えを持っていない。世の中を変える力もない。だけど……目の前のあなたに、罪を犯してほしくもない」
それが、咲耶の精一杯だった。男の子は少し考えてから、お金を持ったまま踵を返す。そうして、礼も言わずにどこかに走り去ってしまった。
(これで、本当によかったのかな……)
手ぶらになった咲耶は、凪との待ち合わせ場所に向かって、とぼとぼ歩き出した。
「おかえり。ちゃんと買えた?」
橋の欄干に背をもたれていた凪が、咲耶を見つけて声をかけた。
「いいえ。お金が、その……なくなって」
「え、落としたってこと?」
「ごめんなさい……」
咲耶は凪から目を逸らす。諜報を得意とする忍びに、自分のような子どもの嘘がどこまで通じるものだろうか。
凪は怒るでも呆れるでもなく、じっと咲耶を見つめている。
「そっか、しょうがないな」
「え」
咲耶が拍子抜けして顔を上げると、凪はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「じゃ、咲耶には、体で返してもらおうかな」




