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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第十二話 支配の残香

 ノブレサントの当主が「オブリエの調香師に会いたい」と言ったのは明朝だった。昼前にジャックは邸仕えに連れられて、数ある応接間の一室に通された。


 一歩入った瞬間、香りが途切れた。廊下では感じられていた庭の草木の匂いすら、呑み込まれたように消えた。


 代わりに、三種類の香りが折り重なるように漂っていた。


 金属を拭いたあとのツンと冷たいエタノール。

 土や灰を思わせるドライダウンのようなカカオ。

 青さを残すユーカリの葉。

 

 どれも強くはない。

 ただ、どこにも重心がなくて落ち着かない気持ちになる。


 扉が静かに閉まり、音が消えた。

 外の気配が、ぴたりと絶たれた。


 寒々しいほど整えられた応接室だった。壁にはノブレサント家系の肖像画が並び、どれもが目線を合わせないように見下ろしてくる。


 ほどなくして、革靴の音が静かに部屋に入ってきた。


 現れたのは、一人の男だった。

 茶褐色のスーツ姿。撫でつけた髪に、揺らがぬ眼差し。


 空間の密度が、変わった。

 香りが、空気を押し返してくる。


 言葉よりも早く、香りがこちらに「姿勢を正せ」と命じていた。


 ――ネファスト・ノブレサント。


 ノブレサント家の現当主。オブリエの兄でもある。

 面差しにオブリエの面影があるものの、兄だと聞かされていなければ気づけなかっただろう。


 決して強い香りではない。

 だが、紳士がジャックの前に来ると、香りで精神を鷲掴みにされたような心地がした。


「座りたまえ」


 促されて、ジャックの身体はソファに座った。

 どう動いたかわからない。意識はすべてこの目の前の男性から漂う香りに――香印に釘付けだった。


 香りの核にあるのは、チュベローズ――に似た香りだった。だが、甘みも脂質感もない。骨格が削ぎ落とされて、芯だけ剥き出しになった芳香。


 しかし、それだけではこの〝冷たさ〟の説明がつかない。奥で、もう一つの芳香が共鳴している。

 

(……ラベンダー?)


 本来、チュベローズとラベンダーは目的も階層も異なる。ラベンダーをチュベローズに添える処方もあるが、この香りでは主従がない。両者が拮抗し、互いの意味を塗り潰している。


 本来なら反発し合う香調なのに、それらをまとめるはずのムスクやウッディ系は一つもない。


 互いを食い殺そうとしている。


 だが、これは崩壊ではない。

 秩序を持とうとしながら、それが噛み砕かれる音まで聞こえるような、崩壊寸前の均衡。


 いや、もっとひどい。例えば、そう、膠着……。


 ――読むな。


 ふいに、そう思った。

 読むという行為は、香りに意味を与えることだ。


 それは、この香りの〈命令〉を、心に深く刻みつけることに等しい。


 息が詰まりそうだった。視界が滲む。

 だが、鼻腔の奥がこの香りに晒されることを密かに喜んでいる。

 それに気づいた瞬間、ジャックはゾッとした。


 香りが、命令する。


 ――従え。ひれ伏せ。抗うな。


 理性が反発する。


 ――逃げろ。混ぜるな。嗅ぐな。


 ジャックの中で二つの感情が殴り合う。混ざらないまま、並列して存在する。それすらも、この香りが強いた結果だった。


「オブリエの友人だと聞いた」


 ネファストがそう言うと同時に、ジャックは深く息を吐いた。そこで、ようやく自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。


 どこにも肌が馴染まない。ソファの布地が冷たい。乾いているはずなのに、香気の圧で汗ばんだように感じた。


「調香師でもあるそうだな。名は?」

 

 香りが、思考よりも速く心を傾けさせる。


「ジャック・ローランでございます。スフル・デテレから参りました」


 そう答えたとき、自分がどこまで意識的に動いたかも、もうよくわからなかった。心がごく自然に、この男に首を垂れることを受け入れていた。


 芳主が――〈魔法使い〉が為政者の地位をほしいままにできた理由は、まさしくこれなのだ。

 炎や水を出す異能など、ただの副産物に過ぎない。

 本質は、匂いを〝言語〟として扱える力にある。

 

 匂い。それは選択肢を与えず、意志より先に心を動かす支配の媒体だ。


 解読しきれないメッセージ。

 空想だけに立ち現れる心象(イメージ)

 脳をゆさぶる強烈な祈り。

 情動としての予言。


 最初のうち、早く脈打っていた動悸は、未知の香りにさらされた歓喜へと換わりつつあった。

 

「お前には、オブリエが見えたのか」


 声は滑らかだった。歯切れの良い低音。


「はい」


 ジャックが頷くと、ネファストは少し視線を落とした。


「オブリエが視認できるようになったと聞いた。礼を言おう。調香をしたのはお前か?」


 ジャックは逡巡したが、すぐに首を振った。


「いいえ。スフル・デテレの主任調香師でございます」


 ネファストはゆっくりと頷いた。


「ならば、品質は確認するまでもない」


 自然な敬意のようにも聞こえたが――香り。香りは揺らいでいる。


 胸がざわめく。香りの重心がばらばらで、視線の焦点を失わせる。


 香りが、時間の階層を無視するように、順序なく、ただ横へ横へと流れていく。


 香水としてなら未完成と断じられるであろうバランス。だが、これは香水ではない。香印――意思を持つ香りだ。人間の皮膚というあまりに複雑な揮発器官が、アンバランスな香りをまとめてねじ伏せていた。


「妹がずいぶん手間をかけたな。香りの幕で舞台を仕立てたあとは退場ときたか。――少し、芝居が過ぎるな」


 氷のように響いたその言葉が、心の奥底を冷やす。


「ご苦労だった。ペルジャンまで送らせよう」


 分子量の揃わない香料ばかりで構成したような、不安定な親切心だった。


 ジャックは小さく頭を下げた。それ以上、口を開けなかった。ネファストの言葉は、空気を埋める装飾にすぎなかった。

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