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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓
第一章

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第十一話 再現してはならないもの

 ジャックは廊下を渡って電話室へと向かっていた。日はすでに落ち、屋敷は相変わらず静まりかえっている。

(すっかり遅くなっちゃったな)

 首都ルードの夜は明るい。オーベルナは街の端にあるが、それでも高層の灯りが星々を打ち消すほどだ。窓越しに空を見上げると、かろうじて北極星だけは捉えることができた。

 窓から目を離して、電話室の扉を開ける。

 中では、ジュゼマンが受話器に顔を寄せ、小声で何かを(ささや)いていた。

 ジャックはそっと扉を閉めた。聞き耳を立てるつもりはなかったが、香りを探るように気配を澄ませる。

 ほどなくしてジュゼマンが扉を開け、目礼をして入室を促した。

「電話を使いますか、ジャックくん?」

「はい。オブリエ様から電話を使う許可をいただきました。本日一泊すると祖母に伝えようかと思いまして」

「ぜひ、アンソレンスによろしくお伝えください」

 そこまで言うと、ジュゼマンはふと何かを思い至ったようにジャックを見た。そして、声を潜めてジャックに話しかけた。

「……ジャックくん。電話の前に少しよろしいですか」

「はい。なんでしょうか?」

「オブリエさまの香印は不安定なままです。その……どうにかできないでしょうか……このまま、誰にも見えなくなってしまう気がして。あの方の姿も、声も、もう……」

 ジュゼマンの言葉は要領を得ない。ジャックは慎重に尋ねた。

「どうにか、というと?」

「例えば、オブリエさまの香印を再現することはできないのかな」

 香印の再現。その意味を理解した途端、ジャックの身体が硬直した。

 香印はトップ、ミドル、ベースという順に並ぶのではない。濃度で決まるのでもない。芳主の記憶・感情・意志が折り重なって、香印は初めて〝香り〟になるといわれている。それは単なる記号ではない。意味と情動のレイヤーを持つのだ。

 模倣するのとは訳が違う。香りで魂は写せない。

「……再現」

 それだけしか言葉が出なかった。これ以上口を開けば、自分がこの禁忌を肯定してしまうような気がした。

 ジュゼマンもさすがに何を言ったのか自覚したようで、さっと青ざめた。

 そんなことを口走ってしまうほどに、ジュゼマンはオブリエの立場を憂慮しているのだろう。そう思うと、ジャックの胸には同情の気持ちが湧いてきた。この侍従は長年オブリエの傍らに立ち続けてきたのだ。身分差はあっても、彼女を孫娘のように思っているのかもしれない。

「……香水を使ったとき、私の目にもオブリエさまが見えました。それで、思ったのです。アルカには、香印を取り戻す力があるのではないかと。少なくとも、香印を安定させるのに役立つのではないかと。アンソレンスがオブリエさまにアルカを作ったのは、そのためだったのではないかと……」

「ぼくに、主任調香師の意図はわかりかねますが……」

 ジャックは慎重に言葉を選ぶ。

 ジュゼマンは、やがて意を決したような顔つきで口を開いた。

「オブリエさまの香りが、せめて回復するような、そんな香りをつくれないものでしょうか」

 ジャックは組んだ指に目を落とし、しばらく沈黙してから口を開いた。

「アルカ香料の……香印と感応する香料の濃度を高めれば、一時的に香印らしい異能を模倣できるでしょう。でも、それは香印とは呼べません。……例えるなら、香りは〝音〟です。香印が〝詩〟としたら、濃度を上げるのは〝音量を上げる〟ことなんです。音を大きくしたからといって、詩になるわけではない」

 たとえ〝詩〟のように聞こえても、それは真似にすぎない。香りでなぞって近づけることはできても、創ることはできない。

 それは、存在への侵犯だ。

 だが――もし、できるとしたら?

 問いが一瞬、脳裏をかすめる。

 ありえない。だが、否定にほんの一瞬の間があった。罪悪感で胸がざらつく。

(気づかなければよかった。聞き流せばよかった? どちらにしても……)

 葛藤を押し殺すように、ジャックは口を開いた。

「……お気持ちはわかります。でも、香印の安定化は調香師の専門ではありません。〈香印調整師〉に相談されてはいかがでしょうか? 専属の方がいらっしゃるでしょう」

 香印調整師――香りを使って香印を整える専門職の領分だろう、という主張に、ジュゼマンは深く頷いた。

「ええ、確かに。ですが、スフル・デテレの香油が頼りですから……」

 その通りだった。香印調整に使う香油の製造の大半を担っているのは、他でもないスフル・デテレだ。

 ジャックは目を閉じ、息を吐いた。

(この願いを拒むのは、冷たいんだろうか……)

 だが、身に余る。

 ジャックは香料工房スフル・デテレを取りまとめる主任調香師の血縁ではあるが、彼の尊敬する祖母はたかが血の繋がっている程度で分不相応な職を与えるほど仕事に倦んではいない。

 ジャック・ローランは調香師補助にすぎず、その重荷に耐えられるほどの職責を持っていない。彼はクライアントワークを勝手に受注して許されるほどの裁量を任されてはいないのだ。

(……おばあちゃんなら、何か応えただろう。そして、絶対にぼくに責任を持たせない)

 しばらく、沈黙が落ちた。

「……申し訳ないのですが、即答はできかねます。返事を持ち帰らせていただけますか。主任調香師に相談します」

 それを聞いたジュゼマンは、ゆっくりと頷いた。

「何卒よろしくお願いします。……失礼をいたしました」

「いえ、そんな」

 ジュゼマンは白手袋を嵌めた手をすっ、と電話の前へ差し出した。指先に、わずかな震えがあった。

 ジャックは頷いて、電話の前に立った。

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