畑の次に待っていたのは
翌朝。
私は、いつもより早く試験畑へ向かった。
朝露に濡れた葉が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
昨日までと、何も変わらない風景。
なのに――。
私には、まったく違うものに見えていた。
「迷い鳥様!」
畑の端から声が飛んでくる。
振り返ると、昨日の農民が駆けてきた。
息を切らしている。
その手には、小さな麻袋。
「もう来ていたのか?」
「はい!」
「その袋は?」
「これを見てください」
私は袋を受け取った。
「家にある麦の種です」
「麦の種?」
「今年、うちで一番よく育ったものを選びました」
袋の中を覗く。
粒の揃った麦が入っている。
「来年は、これをもっと増やしたいんです」
昨日までとは、目の色が違っていた。
自分の畑を、自分の手で変えようとしている。
「……いいですね」
「本当ですか?」
「ええ。ただし――」
私は一粒を指先でつまんだ。
「一番大きな粒だけを選べばいい、というわけではありません」
「そうなんですか?」
「ええ」
病気に強いか。
倒れにくいか。
育つ時期が揃っているか。
少ない肥料でも育つか。
そして、最終的にどれだけ収穫できるか。
「一つだけを見てはいけません」
私は麦を袋へ戻す。
「だから、記録してください」
「記録……ですか?」
「どこの畑で育てたのか。いつ植えたのか。どれくらい収穫できたのか」
私は新しい帳面を一冊渡した。
「来年は、作物だけではなく、種そのものも比べます」
「俺も?」
「もちろんです」
農民は目を丸くした。
そして――。
「分かりました!」
嬉しそうに帳面を抱えた。
その声が、朝の畑に響いた。
◇
昼前。
マルク伯と私は、収穫した作物を並べていた。
ジャガイモ。
サツマイモ。
トウモロコシ。
そして、これまで育ててきた麦と豆。
「こうして並べてみると、ずいぶん増えましたな」
マルク伯が感慨深そうに言う。
「最初はジャガイモだけだったというのに」
「ええ」
だが、私は首を横に振った。
「まだ、増えたとは言えません」
「なぜです?」
「ここで育っただけだからです」
私は試験畑の外を見る。
そこには、どこまでも農地が広がっていた。
「この畑は、条件が良すぎます」
「条件が?」
「水もある。肥料も管理している。植える時期も揃えている」
私は畑を見渡した。
「でも、普通の農家は違います」
痩せた土地。
水の少ない土地。
雨の多い土地。
人手の足りない農家。
家畜を多く飼う農家。
同じ国でも、畑の条件は一つとして同じではない。
「だから――」
私は地図を広げた。
「次は、三つの村で試します」
「三つも?」
「ええ」
私は地図を指差した。
「一つ目は、この近くの村。土が比較的肥えています」
次に、少し離れた場所を指す。
「二つ目は、水の少ない村」
そして最後。
「三つ目は、土があまり良くない村です」
マルク伯が眉を上げた。
「わざわざ条件の悪い場所を?」
「そのためです」
私は答えた。
「一番いい土地で育つだけなら、裕福な農家しか真似できません」
「……」
「本当に国中へ広げるなら、条件の悪い土地でも育つのかを知らなければならない」
マルク伯はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑う。
「なるほど」
「何か?」
「迷い鳥様は、最初から国全体を見ておられるのですな」
「そんな大げさなものではありません」
私は苦笑した。
「失敗したときに、誰が一番困るのかを考えているだけです」
豊かな土地で成功した農業改革なら、誰だって真似できる。
けれど――。
本当に必要なのは。
厳しい土地でも、少しでも収穫を増やせる方法だ。
◇
午後。
三つの村から、代表の農民が集まった。
「俺たちが、その新しい作物を育てるんですか?」
「はい」
最初の農民が、サツマイモを手に取る。
「こいつは甘いんですよね?」
「ええ」
「子供が喜びそうだ」
別の農民はトウモロコシを手に取った。
「こっちは家畜にも使える」
「ええ」
「だったら、うちにはこっちの方がいいかもしれません」
「そうかもしれません」
私は頷いた。
「だから、三つの村で同じようには作りません」
「え?」
「それぞれの土地に合わせます」
水の多い村。
水の少ない村。
痩せた土地。
「同じ作物でも、条件を変えて記録してください」
「難しそうだな……」
「最初から全部できなくても構いません」
私は笑った。
「失敗したら、それも記録です」
「失敗しても?」
「もちろん」
農民たちが顔を見合わせる。
「失敗したことが分かれば、次は同じ失敗をしなくて済みます」
「なるほど……」
「だから、隠さないでください」
私は一人ずつ顔を見る。
「うまくいった畑だけを報告する必要はありません」
「駄目だった畑も?」
「むしろ、そちらの方が大切なこともあります」
少しずつ。
農民たちが頷いていく。
その姿を見ながら、私は気づいた。
この人たちは、もう単なる実験の協力者ではない。
自分たちの畑で。
自分たちの未来を。
自分たちの手で試そうとしている。
最初の頃とは、明らかに違っていた。
◇
その日の夕方。
私は一人で倉庫を確認していた。
収穫したサツマイモ。
トウモロコシ。
ジャガイモ。
それぞれを分けて並べる。
「……保存できるか」
ここから先が、本当の難題だった。
収穫した直後に食べるだけなら、それほど難しくない。
だが――。
冬を越すには?
春まで残すには?
次の収穫まで持たせるには?
食料が必要なのは、収穫の季節だけではない。
むしろ本当に困るのは、収穫のない時期だ。
「干せば全部解決、というわけでもないな……」
私は帳面を開いた。
傷のあるもの。
小さいもの。
大きいもの。
形の悪いもの。
それぞれ状態が違う。
「温度……湿度……通気……」
思いつく項目を書き出していく。
収穫した作物を、ただ積んでおけばいいわけではない。
保存する。
加工する。
必要なら運ぶ。
そして、食べる。
農業は畑だけで完結しない。
そう考えた、そのときだった。
「迷い鳥様」
背後から声がした。
振り返る。
マルク伯が立っている。
「何をしておられるのです?」
「保存の実験です」
「もう次ですか」
「次を考えないと、せっかく増やしても無駄になりますから」
マルク伯は倉庫を見回した。
「農業というのは、収穫して終わりではないのですな」
「ええ」
私は頷く。
「むしろ、収穫してからが大事な場合もあります」
収穫。
乾燥。
保存。
加工。
運搬。
販売。
食卓。
そのどこか一つでも失敗すれば、農民の努力が無駄になってしまう。
「だから、全部繋げます」
「全部?」
「農業だけじゃありません」
私は倉庫の外を見る。
「商人も」
「職人も」
「運ぶ人も」
「そして、食べる人も」
一つの作物が、一つの畑だけで終わらない仕組み。
それを作る。
それができれば――。
農業は、もっと強くなる。
◇
翌朝。
私は三つの村へ送る種を並べた。
ジャガイモ。
サツマイモ。
トウモロコシ。
そして、これまで育ててきた麦と豆。
「数はこれだけです」
農民たちが見守る。
「最初から大量には配りません」
「なぜです?」
「失敗したときの損失を小さくするためです」
少量を試す。
結果を見る。
良ければ増やす。
悪ければ原因を探る。
「それを繰り返します」
「分かりました」
一人の農民が、種の袋を大切そうに抱えた。
「迷い鳥様」
「はい?」
「来年、うちの村が一番たくさん収穫できたら――」
「競争するつもりですか?」
私が笑う。
農民も笑った。
「そりゃあ、負けたくありませんから」
「だったら、うちも負けませんよ」
「うちはトウモロコシで勝負だ!」
笑い声が広がった。
私は、その光景を眺めていた。
不思議な気分だった。
昨日までは、ただの試験だった。
今日は――競争になっている。
そして競争が始まれば、人は工夫する。
もっと良く育てよう。
もっと収穫しよう。
もっと稼ごう。
自分の畑を良くしよう。
そんな気持ちが生まれてくる。
これなら――。
改革は広がる。
上から命令しなくても。
私が一人で農民全員を指導しなくても。
◇
だが。
その日の午後。
思わぬ報告が届いた。
「迷い鳥様!」
若い記録係が、青い顔で駆けてくる。
「どうしました?」
「サツマイモの一部に、変色が出ています!」
「……もう?」
「はい!」
私はすぐに倉庫へ向かった。
箱を開ける。
そこには――。
皮の一部が黒ずんだサツマイモがあった。
「保存を始めて、まだ数日ですよ」
「はい」
私は一本を手に取った。
指で触れる。
硬い。
異臭もない。
表面が腐っているようにも見えない。
「……妙ですね」
「腐っているのでしょうか?」
「まだ分かりません」
私は首を振った。
「黒くなったからといって、すぐに腐敗とは限りません」
「では、何が原因なのです?」
「それを調べます」
私は箱の中を確認していく。
傷のあるもの。
大きなもの。
小さなもの。
変色しているもの。
していないもの。
そして――。
「……待て」
私は手を止めた。
「この箱だけ、置き場所が違います」
「え?」
「こっちは壁際ですね」
「はい」
マルク伯も覗き込む。
「それが何か?」
「まだ分かりません」
私は倉庫を見回した。
「でも、記録しましょう」
温度。
湿度。
置き場所。
通気。
収穫したときの傷。
大きさ。
保存日数。
「全部です」
「全部……」
「原因が一つとは限りませんから」
私は黒ずんだサツマイモを見つめる。
もしかすると、低すぎる温度が原因かもしれない。
収穫時についた小さな傷かもしれない。
あるいは、別の原因かもしれない。
まだ何も分からない。
だからこそ――。
「調べる価値があります」
私は帳面を開いた。
新しいページ。
そこに、今日の日付を書く。
そして、その下に大きく記した。
『サツマイモ保存試験・第一回』
農業改革は、種を植えれば終わりではない。
収穫して終わりでもない。
保存できなければ、冬を越せない。
冬を越せなければ、飢える。
だったら――。
「次は、保存方法そのものを作ろう」
私はペンを握り直した。
畑の次に待っていたのは――。
倉庫だった。




