農業改革、試験畑から始めます
王都へ戻る馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
夕暮れの畑では収穫を終えた麦畑が広がり、牛を連れて家へ戻る農民や、街道を行き交う荷車の姿が見える。昨日までなら、ただの農村風景として何気なく眺めていた光景だった。
けれど今は違う。
畑を見るたびに、どうしても考えてしまう。――この土地で、もっと収穫を増やせないか。飢える人を減らせないか。家畜の餌を増やせないか。
窓枠に肘を置き、遠ざかっていく畑を眺めていると、向かいに座っていたマルク伯が、そんな私の様子をしばらく見つめたあと、顎に手を添えながら静かに口を開いた。
「……試験畑、ですか」
「はい」
私は視線を窓の外からマルク伯へ戻し、迷いなく頷いた。
「本当にやるおつもりで?」
マルク伯は少し意外そうに眉を上げながら身を乗り出し、念を押すように尋ねてくる。
「そのために農村を見て回ったんですから」
私は即答し、膝の上に置いた手を軽く握った。視察して、問題を見つけて、それで終わり。そんなことをするために、私はここまで来たわけではない。
「何を植えるおつもりで?」
マルク伯は腕を組み、試すような目をこちらへ向ける。
「まずはジャガイモです」
「例の『イモ』ですな」
マルク伯が思い出したように口元を緩める。
「ええ。それからサツマイモ。トウモロコシも試します」
「三つも?」
思わず目を丸くするマルク伯に、私は人差し指から順に指を折りながら答えた。
「一つだけでは危険ですから」
「ほう」
「えんどう豆とソバも植えます」
「ずいぶん多いですな」
マルク伯は肩を揺らして苦笑したが、私はそんな反応にも頷きながら説明を続けた。
「比較するためです」
「比較?」
「収穫量だけではありません。必要な水、肥料、労働力、病気への強さ、保存性……」
私は折った指を一本ずつ伸ばしながら条件を並べていく。
「最後に、農民が実際に育てられるかどうかを見る」
マルク伯は組んでいた腕をほどき、感心したように小さく息を吐いた。
「なるほど」
「ジャガイモやトウモロコシには、もう一つ期待しています」
「家畜の餌ですか」
そう言いながら、マルク伯がわずかに顎を引く。
「はい」
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、今日見た畜産村だった。干し草の足りない納屋、痩せた家畜、そして売られていく若い雄牛。飼料が足りない。
ならば――飼料を増やせばいい。
単純な話だ。
ただし。
「この土地で育てば、ですけど」
私は少しだけ苦笑し、窓の外へ視線を戻しながら付け加えた。
前世で知っている作物だからといって、この世界でも同じように育つ保証はない。土が違い、気候が違い、雨も違えば、農民の技術も違う。
だから――。
「……試すんです」
私は視線を再びマルク伯へ向け、静かに、しかしはっきりと言った。
「失敗したら?」
マルク伯が眉を上げ、私の答えを確かめるようにこちらを見つめる。
「原因を調べます」
「成功したら?」
「もっと広い畑で試します」
「それでも成功したら?」
「農民に紹介します」
私が即答すると、マルク伯は一瞬ぽかんとしたあと、堪えきれないように口元を緩めて笑った。
「ずいぶん気の長い話ですな」
「農業ですから」
私もつられて笑いながら、肩をすくめる。
「一日で結果が出るなら、誰も苦労しませんよ」
◇
翌日、私はフェルディナントさんのもとを訪ねた。
「試験畑?」
説明を終えると、フェルディナントさんは少し考えるように眉間へ皺を寄せ、それから机の上に置かれていた地図を広げた。
「はい」
私は地図の端を押さえながら頷いた。
「どこに作るおつもりで?」
「王都から近い場所がいいです」
「なぜ?」
フェルディナントさんが顔を上げ、興味深そうに私を見つめる。
「農民に見てもらいたいからです」
「なるほど」
フェルディナントさんは納得したように頷きながら、再び地図へ視線を落とした。
「それと、できれば土質の違う場所を二つ」
私がそう続けると、フェルディナントさんが顔を上げた。
「二つ?」
「同じ作物でも、土地によって結果が変わるかもしれません」
私は地図の上の二か所を指先で示しながら説明する。
「……比較するわけですか」
「はい」
フェルディナントさんはしばらく無言のまま地図を眺め、指先で地図の上をゆっくりと辿っていたが、やがて王都の南を指差した。
「ここならどうでしょう」
「ここは?」
「痩せた土地と、水のよい土地が近い」
私は身を乗り出して地図を覗き込み、場所を確認する。
「ここを借りられますか?」
「手配しましょう」
フェルディナントさんが迷いなく頷くと、私はほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「ただし――」
そこでフェルディナントさんが人差し指を立て、少しだけ真面目な表情になる。
「失敗しても報告してください」
「もちろんです」
「成功した結果だけを並べるのではなく、失敗も含めて」
フェルディナントさんが念を押すように私の目を見つめる。
「はい」
私はしっかりと頷いた。
「失敗した理由が分かれば、それも成果ですから」
その言葉を聞いたフェルディナントさんは、満足そうに目を細め、ゆっくりと笑った。
「なるほど。ますます面白くなってきましたな」
◇
数日後、小さな畑が完成した。
広さは普通の村の畑よりずっと狭い。けれど――私には、広大な実験場に見えた。
「ここにジャガイモ」
私は畝を指差し、隣で待機している農民たちへ説明する。
「はい」
一人の農民が緊張した面持ちで頷き、手元の帳面を確認した。
「隣にサツマイモ」
「はい」
「その向こうがトウモロコシ」
私が順番に指を動かすたび、記録係が丁寧に帳面へ書き込んでいく。
「麦、えんどう豆、ソバも植えます」
「比較するためですか?」
若い記録係が顔を上げ、少し不思議そうに尋ねる。
「そうです」
私は畑全体を見渡しながら頷いた。
収穫量、水、肥料、労働力、病気、保存、そして――利益。単にたくさん収穫できればいいわけではない。農民が育てられなければ意味がないし、売れなければ意味がない。保存できなければ、冬を越すこともできない。
食料とは、畑から取れた瞬間に完成するものではない。
「ずいぶん細かく見るんですね」
隣にいた若い農民が、半ば呆れたように笑いながら頭を掻く。
「全部必要です」
私は苦笑しながら肩をすくめる。
「こんな小さな畑で、分かるんですか?」
若い農民が首を傾げる。
「全部は分かりません。でも、次に何を試すべきかは分かるかもしれません」
「次?」
若い農民が目を丸くする。
「一度で全部分かるなら、試験なんて必要ありませんから」
私が笑うと、若い農民もつられて口元を緩めた。
「違いねえ」
私はもう一度畑を見渡した。土も、種も、道具も、人手も、どれも特別なものではない。それでも――ここから始める。
「では、植えましょう」
私は袖を軽くまくり、農民たちへ頷きかけた。
◇
最初に芽を出したのは、ジャガイモだった。
「おお……!」
数週間後、畑の土から小さな緑色の芽が顔を出していた。見つけた農民が驚きの声を上げると、その声を聞きつけた他の農民たちも次々に集まってくる。
「本当に芽が出ましたな」
一人の農民が腰を屈め、目を細めながら小さな葉を覗き込む。
「これがイモになるんですか?」
別の農民が半信半疑の顔で尋ねる。
「ええ」
私は頷きながら、芽を傷つけないように指先でその周囲を示した。
「でも、地面の上には何もない」
農民が不思議そうに地面を見下ろす。
「食べる部分は地面の下です」
「へえ……」
農民たちは顔を見合わせながら、興味深そうに葉を眺める。
そのときだった。
「なら、この葉っぱは?」
一人の農民が好奇心に駆られたように手を伸ばした。
「待って!」
私は慌ててその手首を掴んだ。
「それは食べないでください!」
「え?」
農民が驚いて目を見開く。
「ジャガイモは、食べる部分を間違えると危険です」
私が真剣な表情で言うと、周囲の農民たちも一斉にこちらへ視線を向けた。
「危険?」
「芽や緑色になった部分は駄目です。葉も食べないでください」
私は葉を指差しながら、念を押すようにゆっくりと告げる。
「……毒があるんですか?」
農民が不安そうに眉を寄せる。
「そういうことです」
私は頷き、畑を見渡した。
そこで気づく。
これは、かなり重要な問題だ。
作物を育てる方法だけ教えても駄目だ。
逆に、サツマイモの葉は、しっかりアク抜きや加熱をすることで、モロヘイヤのような粘りが出ながらもクセのない味わいで、おいしく食べられるようになる。
どこを食べるのか、どこを食べてはいけないのか、どう調理するのか、どう保存するのか。そこまで教えなければ――この作物は普及しない。
「収穫したら、料理も試しましょう」
私は周囲の農民たちを見回しながら、少し苦笑して言った。
「料理まで?」
さっきの農民が驚いたように目を丸くする。
「当然です」
私は肩をすくめ、当然のことを言うように答えた。
農民たちが顔を見合わせる。
私は苦笑した。
種を渡して終わり。そんな改革では駄目なのだ。
◇
ところが、問題はそれだけではなかった。
「迷い鳥様!」
翌月、農民が血相を変えて駆けてきた。
「虫が!」
「虫?」
私は驚いて立ち上がり、駆け寄ってきた農民の肩へ手を置きながら尋ねる。
「ジャガイモが食われています!」
農民は息を切らしながら訴え、畑の方を指差した。
私は急いでその後を追った。
そこには、穴だらけになった葉があった。
「……なるほど」
私はしゃがみ込み、被害を受けた葉をじっと眺める。
簡単にはいかない。
作物が育つ。それだけで成功ではない。
「どのくらい前からです?」
私は振り返り、まだ不安そうな顔をしている農民へ尋ねる。
「三日前くらいから」
「雨は?」
「昨日降りました」
「肥料は?」
「三日前に入れました」
「記録を見せてください」
私は手を差し出した。
農民が慌てて帳面を渡してくると、私はしゃがんだままページをめくった。
天気、水やり、肥料、害虫、被害の範囲。必要なことは、全部記録する。
「迷い鳥様、そんなことまで?」
農民が半ば呆れたようにこちらを見下ろす。
「必要です」
私は葉を手に取り、裏側まで確認しながら答える。
「原因が分からなければ、次も同じことになりますから」
前世の知識だけでは足りない。この世界の農業は、この世界で学ぶしかない。
だったら――。
最初から全部、記録してやる。
◇
そして、さらに数週間。
「……高い」
今度は私が呟いた。
目の前ではトウモロコシが青々と伸びていて、私は首を伸ばしてその背丈を確かめるように見上げ、思わず目を細める。
「これは……」
マルク伯も驚いたように眉を上げ、しばらくトウモロコシを見上げた。
「麦より、ずっと高いですな」
周囲の農民たちも集まってきて、互いに顔を見合わせながらざわめいている。
「本当に食べられるんですか?」
一人の農民が不安そうに尋ねる。
「ええ」
「家畜にも?」
「はい」
私が頷くと、別の農民が目を輝かせ、期待するように身を乗り出した。
「なら――飼料にできますな!」
私はその顔を見てから、ゆっくりと頷いた。
そうだ。これだ。
畜産村で見た、あの問題。干し草不足、飼料不足、そして家畜を減らさなければならない状況。
もしトウモロコシで飼料を増やせれば――畜産そのものを変えられるかもしれない。
「ただし」
私はすぐに人差し指を立て、浮かれている農民たちへ釘を刺した。
「全部を飼料にしてはいけません」
「なぜです?」
農民が不思議そうに眉を寄せる。
「人間も食べられるからです。実際、雑穀の代わりに食べている人たちがいます」
農民が首を傾げる。
私はそんな反応に苦笑しながら、トウモロコシの穂へ視線を向けた。
「一つの作物を、一つの用途だけで考えないんです」
食料、飼料、加工。用途を分ける。
そうすれば、一つの作物から得られる価値はもっと増える。視察で見てきた問題が、少しずつ一本の線に繋がっていく。
◇
そして――最初の収穫の日が来た。
「掘ってください」
私は畑の前に立ち、集まった農民たちを見回しながら、落ち着いた声で促した。
農民たちが緊張した面持ちで畑へ入り、鍬を土へ突き立てる。
ザクッ。
「……あ」
鍬を入れた農民が目を見開いた。
最初の一個が顔を出した。
「イモだ!」
「本当にできてる!」
別の農民が思わず声を上げ、しゃがみ込んで土を手で掘り始める。一つ、二つと掘り進めるうちに、さらに別の場所からも姿を現した。
「まだあるぞ!」
「こっちにも!」
あちこちから歓声が上がり、次々とジャガイモが土の中から姿を現す。
「おおおおっ!」
歓声が畑いっぱいに響き、私も思わず笑ってしまった。
「やりましたね」
私は満面の笑みを浮かべながら、近くの農民へ声をかける。
「こんなに取れるとは……!」
農民は泥のついたジャガイモを両手いっぱいに抱え、信じられないものを見るような顔で笑っている。
その光景を見て、胸が熱くなった。
成功だ。
少なくとも――最初の試験では、成功した。
だが。
「待ってください」
私は収穫されたジャガイモを一つ手に取り、喜びに沸く農民たちを落ち着かせるように手を上げた。
「まだ終わってません」
「え?」
農民たちが一斉にこちらを見る。
「収穫量を測ります」
農民たちが固まる。
「麦と比較します」
「……はい」
少し残念そうな顔をしながらも、農民が頷く。
「それから、保存します」
「保存?」
別の農民が首を傾げる。
「どれだけ冬まで残せるか調べます」
私は収穫したジャガイモを見ながら、さらに続けた。
必要だった労働量、肥料、水、病害虫、そして収穫後の損失まで、調べることはまだ山ほどある。
◇
その日の夕方、小さな鍋でジャガイモを茹でた。
湯気が立ち上る中、私は鍋の中から一つを取り出し、熱さを確かめながら手で割る。白く、ほくほくした中身が顔を出し、そこへ乗せたバターが熱でゆっくりと溶けていく。
農民たちは、息を潜めるようにしてその様子を見つめている。
「……いただきます」
私は小さく息を吹きかけてから一口食べた。
「うん」
バターとジャガイモの素朴な味だった。
けれど――。
「うん、美味しいし、これなら、いける」
私は嬉しそうに口元を緩めながら、隣の農民へジャガイモを差し出した。
「食べてみてください」
「私が?」
農民は驚いたように自分を指差す。
「ええ」
私は頷きながら、安心させるように笑った。
農民は恐る恐るジャガイモを受け取り、慎重に口へ運ぶ。
しばらく黙ったあと、農民は何度か噛みしめるようにしてから、驚いたように目を見開いた。
「たしかにうまいし、腹が膨れますな」
私はその言葉を聞いて、満足そうに笑った。
「そこが一番大事です」
豪華である必要はないし、高価である必要もない。農民が育てられて、食べられて、保存できる。そして、凶作の年にも役に立つ。
それだけで――十分な価値がある。
「もう一つ、食べても?」
農民が少し遠慮がちに尋ねながら、空になった手元へ視線を落とす。
「もちろん」
私は笑いながら頷き、もう一つ渡した。
農民も嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、私は思う。
これが――農業改革の最初の一歩だ。
まだ小さな畑で、まだ一度の収穫しか経験していない。成功したのも、たった一つの作物に過ぎない。
それでも、土の中から出てきた小さなイモが、確かに新しい可能性を見せてくれた。
「迷い鳥様」
マルク伯が少し離れたところから声をかけてきた。
「次はどうします?」
そう尋ねながら、マルク伯は収穫されたジャガイモと私の顔を交互に見つめる。
私はジャガイモを見た。それから、隣のトウモロコシ畑へ視線を移す。
「次は――」
少し考えてから、私はジャガイモを持ち上げた。
「保存です」
「保存?」
マルク伯が目を瞬かせる。
「ええ」
私はジャガイモを手のひらの上で転がしながら答える。
「収穫したあと、どう冬まで残すか」
そして、ふと思う。
もしこれを冬まで保存できれば。もし凶作の年にも食べられれば。もし、麦が不作でもこの作物が残れば――飢饉の景色を、変えられるかもしれない。
私はジャガイモを握りしめるようにして、まだ何もない未来へ思いを馳せる。
農業改革は、まだ始まったばかりだった。




