農業は、畑だけでは変えられない
ブドウ栽培の村を後にしてからも、私は農村を見て回った。
最初の麦作村で知ったのは、食料を作る難しさ。
ブドウの村で知ったのは、商品作物と市場の難しさ。
だからこそ――。
もっと見なければならない。
この国の農業が抱えている問題を。
できるだけ多く。
そうして私たちは、次の村へ向かった。
◇
「……牛、多くないですか?」
馬車を降りた私は、思わず目を丸くした。
村のあちこちに牛がいる。
羊もいる。
山羊もいる。
農民たちは朝から家畜の世話に追われていた。
「ええ。この村は畜産が中心です」
マルク伯が答える。
「これだけ家畜がいれば、肥料には困らなそうですね」
「それが、そうでもないのです」
「え?」
案内してくれた農民が、苦笑した。
「家畜の糞は畑に使います。ですが、全部を堆肥にはできません」
「どうして?」
「薪の代わりにも使いますからな」
「あ……」
燃料。
そういう使い道もあるのか。
家畜が多い。
だから肥料も豊富。
そんな単純な話ではない。
そのときだった。
「父ちゃん!」
少年が、息を切らして走ってきた。
「どうした?」
「干し草が……」
少年が指差した納屋を覗く。
中に積まれていた干し草は、驚くほど少なかった。
「これで冬は足りるんですか?」
私が尋ねると、農民は黙って首を横に振った。
「今年は雨が多くてな。牧草の出来が悪かったんです」
「では……?」
「何頭か、減らします」
その言葉と同時に、別の農民が若い雄牛を連れてきた。
牛は何も知らず、のんびりと草を食んでいる。
胸が、きゅっと締めつけられた。
「……売るんですか?」
「冬を越せないなら、仕方ありません」
静かな声だった。
感情を押し殺している。
それが分かった。
家畜を増やせば豊かになる。
そんな単純な話ではない。
増やせば餌が必要になる。
冬を越すための飼料も必要になる。
病気になれば治療費もかかる。
そして、餌が足りなければ――。
せっかく育てた家畜を、売らなければならない。
「……なるほど」
私は小さく呟いた。
ここで初めて、畜産が抱える厳しさを実感した気がした。
「牛乳は、どうしています?」
「飲みます。しかし、ほとんどはチーズやバターにします」
「乳はすぐ腐りますからね」
「肉は?」
「売ります」
「では、かなり豊かな村なのでは?」
農民は苦笑した。
「そう見えますか?」
「ええ」
「家畜は、たくさん食べますからな」
「……ですよね」
私も苦笑する。
「この村では、家畜そのものより、乳をチーズやバターに加工するほうが利益になるかもしれません」
「加工、ですか?」
「はい。生乳より保存できますから」
農民の目が、わずかに輝いた。
けれど、私は続けた。
「ただし、設備と技術が必要です」
やはり簡単ではない。
だからこそ――試す必要がある。
◇
次に訪れたのは、果樹園の村だった。
リンゴ。
梨。
プラム。
色とりどりの果実が、斜面いっぱいに実っている。
「綺麗ですね」
「収穫の時期には、もっと綺麗ですよ」
農民は笑った。
だが、その日の午後。
私は足を止めた。
「……これ、全部捨てるんですか?」
道端に木箱が並んでいる。
中には傷のついたリンゴや、熟しすぎた梨が山のように入っていた。
「傷物は安くなります」
「でも、食べられますよね?」
「ええ」
「なら、どうして?」
「街まで運ぶ間に、さらに傷みますから」
私は一つのリンゴを拾い上げた。
少し傷があるだけだ。
食べられないわけではない。
なのに、捨てられる。
「……勿体ない」
思わず口からこぼれた。
さっきまでの畜産村とは違う感情だった。
胸が痛む。
目の前に、食べられるものがある。
それなのに、売れないから捨てられている。
「ジャムや果実酒には?」
「作る家もあります」
「干し果物は?」
「少しだけ」
「なら、そこを伸ばせばいい」
私はリンゴを握ったまま言った。
「捨てるはずだったものを、保存できる商品に変えるんです」
農民が目を見開く。
だが、すぐに苦笑した。
「ですが……瓶が高い」
「ああ……」
また壁がある。
保存するにも容器がいる。
加工するにも設備がいる。
それでも。
私は足元の果物を見た。
これは、何とかしたい。
そう思った。
◇
その次は、海沿いの漁村だった。
「魚、多いですね」
港には小さな漁船が並び、網には大量の魚が入っている。
私は思わず目を輝かせた。
「これなら食料には困らないのでは?」
「獲れる日は、な」
漁師が笑う。
「獲れない日は?」
「食えん」
「……」
その意味を知ったのは、その日の午後だった。
港の一角に、魚が山のように積まれていた。
「……こんなに?」
「今日は大漁だ」
漁師は嬉しそうだった。
だが、その魚の山を見た途端。
私は拳を握った。
「なのに、どうして売らないんです?」
「売れん」
「でも、まだ食べられる!」
「分かってるさ」
漁師の声が低くなる。
「だが、街の商人が必要な分を買った後なんだ」
目の前には、まだ新鮮な魚が大量に残っている。
けれど、買い手がいない。
時間が経てば腐る。
「保存は?」
「塩が高い」
「燻製は?」
「設備が足りない」
「干物は?」
「天気次第だ」
「……」
獲れる。
食べられる。
なのに、捨てるしかない。
これは仕方がないで済ませたくなかった。
「結局、そこなんだよ」
漁師が魚の山を見る。
「獲るだけなら、俺たちはできる」
そして、静かに続けた。
「だが、獲ったあとが問題なんだ」
私は頷いた。
保存。
加工。
輸送。
市場。
また同じところに行き着いた。
けれど今度は、ただの「問題」ではなかった。
**何とかしなければならない。**
そう思った。
◇
次に向かったのは、山間部だった。
ここでは畑そのものが少ない。
斜面は急で、大きな農地を作るのも難しい。
「こんな場所でも農業をしているんですね」
「しなければ、生きていけませんから」
農民は答える。
「でも、主なのは林業です」
小さな畑。
段々畑。
雑穀。
豆。
芋。
山羊。
平地とは、まるで違う。
「山のものを売ることは?」
「ああ。薪や木材、それに木炭。薬草もあります」
「なら、それを街へ?」
「それができればいいんですがな」
その答えを聞いた直後だった。
「おーい! 押せ!」
街道の先から怒鳴り声が響く。
見ると、木材を満載した荷車が坂道の途中で立ち往生していた。
男たちが何人も押している。
だが、車輪は泥に沈んだままだ。
「……あれは?」
「街へ木材を運んでいるんです」
農民がため息をつく。
「雨が降ると、ああなります」
私は荷車を見る。
木材はある。
買い手もいる。
働く人間もいる。
それなのに――。
**道がない。**
「……こんなことで」
思わず呟いた。
土地でもない。
作物でもない。
人でもない。
道一本がないだけで、売れるはずの商品が届かない。
私は、初めて強く思った。
農業を変えるなら、畑だけを見ていては駄目だ。
「道路を整備すれば、かなり変わるかもしれません」
私が言うと、マルク伯が苦笑した。
「道路を作るには、金が必要ですな」
「……ですよね」
思わず苦笑する。
だが今度は、ため息だけでは終わらなかった。
道を作る。
それもまた、改革なのだ。
◇
そして次に向かったのは、商業都市の近郊だった。
ここは、それまでの村とは明らかに違った。
畑が広い。
しかし、麦だけではない。
野菜。
豆。
果物。
家畜。
街に近いからこそ、売れるものを作っている。
「ここでは市場が近いんですね」
「ええ」
農民が笑う。
「朝に収穫して、その日のうちに街へ持っていけます」
「それなら有利ですね」
「もちろんです」
私は街を眺めた。
活気がある。
人が多い。
商人が行き交っている。
なるほど。
市場が近い。
それだけで、大きな強みなのだ。
「では、問題はない?」
「ありますとも」
「何です?」
「土地の値段です」
「……ああ」
私は街へ続く道の脇を見た。
そこには、まだ新しい家が建っている。
「ここ、畑だったんですか?」
「去年までな」
農民が答える。
「来年には、あそこも家になるでしょう」
私は言葉を失った。
街は大きくなっている。
人も増えている。
商売も盛んになっている。
それ自体は、良いことのはずだった。
けれど――。
街が広がれば、その分だけ畑が消えていく。
「地代が上がれば、儲けも減ります」
農民は淡々と続ける。
「それに、土地そのものを売ってしまう者もいます」
「なぜ?」
「畑を売れば、まとまった金になりますから」
「……」
私は街を見る。
豊かになることと、豊かさを守ることは同じではない。
発展そのものが、新しい問題を生む。
初めて、それを実感した。
「……難しいですね」
マルク伯が笑う。
「ええ」
私も苦笑した。
「本当に難しいです」
◇
そして最後に案内されたのは、これまでとは規模の違う農地だった。
「ここは……?」
「大規模荘園です」
マルク伯が答える。
見渡す限りの畑。
麦畑だけではない。
牧草地。
果樹園。
家畜小屋。
倉庫。
水車。
そして、大きな屋敷。
「すごい……」
私は思わず立ち止まった。
村一つどころではない。
まるで、小さな町だ。
「ここなら、改革を試しやすそうですね」
私がそう言うと、マルク伯は少しだけ難しい顔をした。
「そう簡単でもありません」
「どうしてです?」
マルク伯は、荘園の奥を指差した。
「まず、あれをご覧ください」
「え?」
大きな水車が見える。
だが――。
動いていない。
「止まってますね」
「ええ」
「故障ですか?」
「いいえ」
マルク伯は首を振った。
「動かす人間が足りないのです」
「……人が?」
さらに見れば、大きな農具も納屋の脇に置かれたままだった。
立派な鋤。
荷車。
脱穀用の道具。
どれも使えば仕事を楽にできそうなのに、動いていない。
「土地はある」
私は呟いた。
「設備もある」
「ええ」
「家畜もいる」
「ええ」
「なのに、人が足りない」
マルク伯が頷く。
「大規模な土地を持っていても、それを耕す人間がいなければ意味がありません」
私は農民たちを見る。
少ない人数で、広大な畑を必死に耕している。
「人手が足りなければ?」
「賃金を上げる必要があります」
「そうすると?」
「経費が増えます」
「では、農具を増やして省力化する?」
「農具を買う金はあっても、使う人間が必要です」
「……なるほど」
私は、止まった水車を見る。
ここで初めて気づいた。
**金や設備があるだけでは、生産力にならない。**
それを動かす人間が必要なのだ。
「結局、人ですか」
「農業は、人の仕事ですからな」
私は荘園を見渡した。
土地がある。
家畜がいる。
農具もある。
倉庫もある。
水車もある。
それでも、問題がある。
私は、これまで見てきた村を思い出した。
干し草の足りない納屋。
捨てられていく果物。
港に積まれた魚。
泥に沈んだ荷車。
家に変わろうとしている畑。
そして――。
止まった水車。
どこも違う。
抱えている問題も違う。
使える資源も違う。
売れるものも違う。
けれど。
一つだけ、共通していることがあった。
「……全部、繋がっている」
私が呟くと、マルク伯がこちらを見る。
「何がです?」
「農業です」
私は、ゆっくりと言葉を続けた。
「畑だけじゃない」
土地があっても、道がなければ売れない。
「作物だけでもない」
収穫しても、保存できなければ腐る。
「家畜だけでもない」
餌がなければ増やせない。
「設備だけでもない」
動かす人間がいなければ意味がない。
「市場だけでもない」
売れても、土地を失えば続けられない。
私は、これまで見てきた光景を思い出す。
全部が一本の線で繋がっている。
「農業を変えるって……」
私は空を見上げた。
「畑を変えることじゃないんですね」
マルク伯は黙って聞いている。
「人を変えることでもない」
農民に無理をさせれば続かない。
「作物だけでもない」
作っても、売れなければ意味がない。
「全部を、一緒に考えなきゃいけない」
私は、ゆっくり息を吐いた。
「農業だけじゃない」
道も。
倉庫も。
市場も。
税も。
働く人間も。
「全部が繋がっているんですね」
マルク伯が静かに頷いた。
「そのようですな」
農業改革。
最初は、もっと簡単なものだと思っていた。
三圃式を導入する。
新しい作物を植える。
肥料を増やす。
それだけで収穫は増える。
そんなふうに考えていた。
けれど――。
現実は違った。
干し草の足りない納屋がある。
捨てられていく果物がある。
港には、売れ残った魚が積まれている。
山間部では、泥に沈んだ荷車がある。
都市の近くでは、畑が家へと変わろうとしている。
そして――。
大規模荘園には、立派なのに動かない水車がある。
どれも、別々の問題に見える。
けれど。
その一つ一つが、どこかで繋がっている。
「……これは、思っていたより大変ですね」
「今さらですか?」
マルク伯が笑った。
「はい」
私も笑う。
だけど――。
もう、最初の頃とは違う。
畑を見て、「収穫を増やせばいい」と考えるだけではない。
目の前にいる人の暮らしを見る。
何に困っているのかを見る。
その先まで考える。
それが大事なのだ。
「面白くなってきました」
「面白い?」
「はい」
私は荘園の向こうに広がる畑を見た。
「まだ、分からないことだらけです」
だからこそ。
「一つずつ調べていきましょう」
まずは試験畑。
次に保存。
加工。
輸送。
そして市場。
小さく試して、結果を見る。
うまくいけば広げる。
失敗したら、原因を探す。
「フェルディナントさんに、報告書を作らないといけませんね」
「かなり長い報告書になりそうですな」
「でしょうね」
私は苦笑した。
そして、馬車へ向かって歩き出した。
「帰ったら、イモについて調べましょう」
「イモ?」
「はい。具体的には、ジャガイモとサツマイモです」
それから――トルコ小麦。
こちらの世界でそう呼ばれている作物、トウモロコシだ。
この三つをうまく組み合わせれば、食料生産を安定させられるかもしれない。
もちろん、植えればすぐに解決するほど甘くはない。
気候は?
土壌は?
種芋や種子は手に入るのか?
農民は受け入れてくれるのか?
保存方法は?
市場はあるのか?
それも一つずつ確かめなければならない。
「また、聞いたことのない作物ですか」
マルク伯が苦笑する。
「はい」
「迷い鳥様は、本当に飽きませんな」
「私もそう思います」
そう答えながら、私は小さく笑った。
まだ、この国には知らないものが多すぎる。
だからこそ――。
もっと見てみたい。
もっと知りたい。
そして、いつか。
この国の農民たちが、凶作の年にも怯えずに冬を越せる農業を作りたい。
そのための最初の一歩は――。
小さな試験畑から始まる。
私は馬車に乗り込んだ。
もう、ただ見て回るだけでは終われない。
次は――。
自分で試す番だ。
まずは、小さな畑から。
そこで結果を出せれば、次へ進める。
私は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの畑が、ゆっくりと流れていく。
干し草。
果物。
魚。
木材。
土地。
そして、人。
今日見たものが、頭の中で一本の線になっていく。
農業を変える。
それは、畑だけを変えることではない。
この国の「仕組み」そのものを変えることなのだ。
「……やってみよう」
小さく呟く。
まだ何も始まっていない。
けれど――。
最初の一歩は、もう踏み出した。
いつか、この景色を変える。
そのための改革を。
まずは、小さな試験畑から始めよう。




