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農業大学生、異世界で皇帝に呼ばれる――「迷い鳥」は国を変える  作者: 水源


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農業は、畑だけでは変えられない

 ブドウ栽培の村を後にしてからも、私は農村を見て回った。


 最初の麦作村で知ったのは、食料を作ることそのものの難しさだった。


 そしてブドウの村で知ったのは、商品作物を作ればそれで終わりというわけではなく、それをどう売るのかという市場の難しさだった。


 だからこそ、もっと見なければならない。この国の農業が抱えている問題を、できるだけ多く、自分の目で確かめておきたい。


 そうして私たちは、次の村へ向かった。


 ◇


「……牛、多くないですか?」


 馬車を降りた私は、村のあちこちに牛がいる光景を見て、思わず目を丸くしながらマルク伯へ振り返った。牛だけではなく、羊もいれば山羊もいて、農民たちは朝から家畜の世話に追われている。


「ええ。この村は畜産が中心です」


 マルク伯は周囲を見渡してから、納得させるように小さく頷いて答えた。


「これだけ家畜がいれば、肥料には困らなそうですね」


 私は牛の群れを眺めながら、少し感心したように口元を緩めて言ったが、マルク伯は苦笑を浮かべながらゆっくり首を横に振った。


「それが、そうでもないのです」


「え?」


 私が眉を上げて聞き返すと、案内してくれた農民も苦笑しながら帽子のつばに触れ、困ったように頷いた。


「家畜の糞は畑に使います。ですが、全部を堆肥にはできません」


「どうして?」


 私は少し身を乗り出すようにして尋ねた。


「乾かしたものは、薪の代わりにも使いますからな」


 農民はそう言いながら、近くに積まれた乾かした糞へ視線を向け、申し訳なさそうに肩をすくめた。


「あ……」


 私はその視線の先を追い、なるほどと小さく頷いた。


 家畜の糞は肥料になる。けれど、それだけではなく燃料として使うこともできるのだ。家畜が多いから肥料も豊富、そんな単純な話ではなく、肥料に回せば燃料が足りなくなり、燃料に回せば肥料が足りなくなるという、限られた資源をどこに振り分けるのかという問題がある。


 そのときだった。


「父ちゃん!」


 少年が遠くから大声を上げ、息を切らしながら駆けてきた。


「どうした?」


 父親らしい農民が驚いたように顔を上げ、少年へ一歩近づきながら問いかける。


「干し草が……」


 少年は肩で息をしながら納屋のほうを指差し、言葉を続けた。


 少年が指差した納屋を覗いてみると、中に積まれていた干し草は驚くほど少なく、これで冬を越せるのかと心配になるほどだった。


「これで冬は足りるんですか?」


 私は納屋の中を覗き込みながら不安そうに農民へ尋ねる。すると農民はすぐには答えず、干し草の山へ目を落としたまま、重たそうに首を横に振った。


「今年は雨が多すぎてな。牧草を刈る時期に畑がぬかるんで、干し草を十分に作れなかったんです」


 農民は苦笑するような表情を浮かべながらも、その目には隠しきれない疲れが滲んでいた。


「では……?」


 私は続きを促すように、わずかに眉を寄せて尋ねた。


「何頭か、減らします」


 農民は目を逸らし、短く息を吐いてから静かな声で答えた。


 その言葉と同時に、別の農民が若い雄牛を連れてきた。


 牛はそんな事情など何も知らず、のんびりと草を食んでいる。その姿を見ていると、私は思わず胸元に手を当て、胸がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。


「……売るんですか?」


 私は牛から目を離せないまま、少し声を落として尋ねた。


 農民は雄牛の背中へ一度だけ視線を向け、それから寂しそうに目を細めて頷いた。


「冬を越せないなら、仕方ありません」


 できるだけ感情を押し殺そうとしているのだろう。その声は静かだったが、握りしめた手には力が入っていた。


 家畜を増やせば豊かになる――そんな単純な話ではない。増やせば、それだけ餌が必要になるし、冬を越すための飼料も確保しなければならない。病気になれば治療も必要になる。そして餌が足りなければ、せっかく育てた家畜を冬になる前に売らなければならないのだ。


「……なるほど」


 私は牛を見つめたまま小さく呟き、ゆっくり息を吐いた。


 ここで初めて、畜産が抱えている厳しさを実感した気がした。


「牛乳は、どうしています?」


 私は気持ちを切り替えるように顔を上げ、農民へ問いかけた。


「飲みます。しかし、ほとんどはチーズやバターにします」


 農民は牛のほうを顎で示しながら、少し誇らしげに答えた。


「乳はすぐ腐りますからね」


 私は納得したように頷く。


「肉は?」


 続けて尋ねると、農民は軽く肩をすくめて答えた。


「売ります」


「では、かなり豊かな村なのでは?」


 私は周囲にいる家畜を見渡しながら、少し期待を込めて尋ねた。


 すると農民は一瞬きょとんとした顔をしてから、苦笑を浮かべる。


「そう見えますか?」


「ええ」


 私は素直に頷いた。


「家畜は、たくさん食べますからな」


 農民は山羊の群れへ目を向け、どこか自嘲するように笑った。


「……ですよね」


 私も苦笑し、頭を掻く。


 見た目には家畜がたくさんいて豊かな村に思えるのに、その家畜を維持するためには、それだけ大量の餌を用意しなければならない。畜産というのは、家畜を増やせば終わりというものではないらしい。


「この村では、家畜そのものより、乳をチーズやバターに加工するほうが利益になるかもしれません」


 私は少し考えながら人差し指を立てるようにして、農民へ提案した。


「加工、ですか?」


 農民は驚いたように目を丸くし、私の顔を見返す。


「はい。生乳より保存できますから」


 私は頷きながら、保存した乳製品を想像するように手を軽く動かした。


 その説明を聞いた農民の目が、わずかに輝いた。


 けれど、私はそこで話を終わらせず、そのまま続けた。


「ただし、設備と技術が必要です」


 私は少しだけ困ったように眉を寄せて、現実的な問題も付け加えた。


 農民は期待しかけた表情を少し引き締め、それから静かに頷いた。


 やはり簡単ではない。


 保存できる形に加工すれば価値を高められるとしても、そのためには道具も必要だし、作り方を知らなければならない。


 だからこそ、試す必要がある。


 ◇


 次に訪れたのは、果樹園の村だった。


 リンゴに梨、プラムといった色とりどりの果実が、斜面いっぱいに実っている。


「綺麗ですね」


 私は果樹園を見上げながら、思わず目を細め、感嘆の息を漏らした。


「収穫の時期には、もっと綺麗ですよ」


 農民は嬉しそうに胸を張り、木々を見渡しながら笑った。


 だが、その日の午後、私は道端に並べられた木箱を見て足を止めた。


「……これ、全部捨てるんですか?」


 私は木箱の中を覗き込み、驚いたように眉をひそめながら農民へ尋ねた。


 木箱の中には、傷のついたリンゴや熟しすぎた梨が山のように入っている。


「傷物は安くなります」


 農民は困ったように木箱へ手を添えながら答えた。


「でも、食べられますよね?」


 私は一つのリンゴを拾い上げ、傷の部分を指で示しながら問い返す。


「ええ」


 農民は頷いた。


「なら、どうして?」


 私は納得できないという顔で、農民の目をまっすぐ見た。


「街まで運ぶ間に、さらに傷みますから」


 農民は少し申し訳なさそうに目を伏せた。


 私は一つのリンゴを手の中で転がす。


 少し傷があるだけで、食べられないわけではない。それなのに、売り物にならないという理由だけで捨てられている。


「……勿体ない」


 私はリンゴを見つめたまま、悔しそうに小さく呟いた。


 さっきまでの畜産村とは違う感情だった。


 目の前に食べられるものがあるのに、それが売れないというだけで捨てられているのだと思うと、胸が痛んだ。


「ジャムや果実酒には?」


 私は顔を上げ、少し期待するように農民へ尋ねる。


「作る家もあります」


 農民は指先で顎を撫でながら答えた。


「干し果物は?」


 私は続けて尋ねる。


「少しだけ」


 農民は申し訳なさそうに肩をすくめた。


「なら、そこを伸ばせばいい」


 私はリンゴを握ったまま、少し身を乗り出すようにして言った。


「捨てるはずだったものを、保存できる商品に変えるんです」


 農民が目を見開き、私の手の中のリンゴへ視線を落とす。


 しかし、すぐに苦笑した。


「ですが……瓶が高い」


 農民は困ったように両手を広げた。


「ああ……」


 私は思わず肩を落とし、納得したように頷く。


 また壁がある。


 保存するにも容器がいるし、加工するにも設備がいる。せっかく食べられる果物が余っていても、それを商品に変えるための道具がなければ、簡単には利用できない。


 それでも、私は足元に置かれた果物を見た。


 これは、何とかしたい。


 そう思った。


 ◇


 その次は、海沿いの漁村だった。


「魚、多いですね」


 私は港いっぱいに並んだ漁船と網を見て、思わず目を輝かせながら漁師へ声をかけた。


 港には小さな漁船が並び、網には大量の魚が入っている。


「これなら食料には困らないのでは?」


 私は少し期待したように笑いながら尋ねた。


「獲れる日は、な」


 漁師は肩を揺らして笑い、海のほうへ顎を向ける。


「獲れない日は?」


 私は首を傾げた。


「食えん」


 漁師はあっさりと言った。


「……」


 私は返す言葉を失い、その顔から笑みを消した。


 その言葉の意味を知ったのは、その日の午後だった。


 港の一角には、魚が山のように積まれていた。


「……こんなに?」


 私は思わず足を止め、魚の山を見ながら目を見開いた。


「今日は大漁だ」


 漁師は嬉しそうに頷きながら、魚の山を手で示した。


 だが、その魚の山を見た途端、私は拳を握った。


「なのに、どうして売らないんです?」


 私は納得できないという表情で漁師を振り返り、問いかける。


「売れん」


 漁師は視線を魚へ落としたまま、苦々しそうに答えた。


「でも、まだ食べられる!」


 私は思わず声を強め、魚の山へ手を向けた。


「分かってるさ」


 漁師は低い声で答え、私を見返した。


「だが、街の商人が必要な分を買った後なんだ」


 そう言った漁師は、魚の山を見つめながら眉間に皺を寄せた。


 目の前には、まだ新鮮な魚が大量に残っている。けれど買い手がいない以上、時間が経てば腐ってしまう。


「保存は?」


 私は少し考えてから尋ねた。


「塩が高い」


 漁師は首を横に振る。


「燻製は?」


「設備が足りない」


 漁師は両手を広げる。


「干物は?」


「天気次第だ」


 漁師は空を見上げ、それから苦笑する。


 獲れるだけの魚はある。食べられる魚もある。それなのに、保存する手段や買い手がなければ、最後には捨てるしかない。


 これは仕方がないで済ませたくなかった。


「結局、そこなんだよ」


 漁師は魚の山へ目を向け、少し寂しそうに口元を歪めた。


「獲るだけなら、俺たちはできる」


 そこで一度言葉を切り、網のほうへ視線を向ける。


「だが、獲ったあとが問題なんだ」


 漁師はゆっくり首を振りながら静かに続けた。


 私は頷いた。


 保存、加工、輸送、そして市場。結局、また同じところに行き着いた。


 けれど今度は、ただの「問題」として見過ごすことはできなかった。


 何とかしなければならない。


 そう思った。


 ◇


 次に向かったのは、山間部だった。


 ここでは畑そのものが少なく、斜面は急で、大きな農地を作るのも難しい。


「こんな場所でも農業をしているんですね」


 私は険しい斜面を見上げ、驚き混じりの表情で農民へ尋ねた。


「しなければ、生きていけませんから」


 農民は苦笑しながら肩をすくめた。


「でも、主なのは林業です」


 そう言いながら、農民は山の上のほうへ視線を向けた。


 小さな畑に段々畑、雑穀、豆、芋、そして山羊と、平地とはまるで違う農業の形だった。


「山のものを売ることは?」


 私は周囲を見回してから、農民へ尋ねる。


「ああ。薪や木材、それに木炭。薬草もあります」


 農民は指折り数えるようにしながら答える。


「なら、それを街へ?」


 私が尋ねると、農民は少し困ったように眉を寄せた。


「それができればいいんですがな」


 その答えを聞いた直後だった。


「おーい! 押せ!」


 街道の先から怒鳴り声が響き、男の一人が汗を流しながら仲間へ向かって大声を張り上げている。


 見ると、木材を満載した荷車が坂道の途中で立ち往生していた。男たちが何人も押しているのに、車輪は泥に沈んだままで、びくとも動かない。


「……あれは?」


 私は眉を寄せ、荷車を指差しながら農民へ尋ねた。


「街へ木材を運んでいるんです」


 農民は困ったように苦笑しながら答えた。


「雨が降ると、ああなります」


 そう言って、泥に沈んだ車輪へ視線を落とした。


 私は荷車を見る。


 木材はあるし、買い手もいる。働く人間もいる。それなのに、道が悪いという、それだけの理由で商品が街まで届かなくなっている。


「……こんなことで」


 私は思わず眉間に皺を寄せ、低く呟いた。


 土地でもない。


 作物でもない。


 人でもない。


 道一本がないだけで、売れるはずの商品が街まで届かなくなっている。


 私は、そこで初めて強く思った。


 農業を変えるなら、畑だけを見ていては駄目だ。


「道路を整備すれば、かなり変わるかもしれません」


 私はマルク伯を振り返り、少し身振りを交えながらそう言った。


 するとマルク伯は困ったように口元を歪め、腕を軽く組んだ。


「道路を作るには、金が必要ですな」


「……ですよね」


 私は苦笑し、肩をすくめた。


 だが今度は、ため息だけでは終わらなかった。


 道を作ることもまた、農業を支えるための改革なのだ。


 ◇


 そして次に向かったのは、商業都市の近郊だった。


 ここは、それまでの村とは明らかに違った。


 畑が広いだけではなく、麦以外にも野菜や豆、果物が作られ、家畜も飼われている。街に近いからこそ、売れるものを作っているのだ。


「ここでは市場が近いんですね」


 私は街のほうを眺めながら、農民へ確認するように尋ねた。


「ええ」


 農民は笑顔で頷いた。


「朝に収穫して、その日のうちに街へ持っていけます」


 そう言いながら、街へ続く道を手で示す。


「それなら有利ですね」


 私は感心したように頷く。


「もちろんです」


 農民は胸を張るように答えた。


 私は街を眺めた。


 活気があり、人も多く、商人が行き交っている。


 なるほど。市場が近いというだけで、それは大きな強みになるのだ。


「では、問題はない?」


 私は少し油断したような顔で尋ねた。


「ありますとも」


 農民は苦笑しながら首を横に振る。


「何です?」


 私が首を傾げると、農民は街の脇に広がる建物を指差した。


「土地の値段です」


「……ああ」


 私は納得したように短く息を吐いた。


 私は街へ続く道の脇を見た。


 そこには、まだ新しい家が建っている。


「ここ、畑だったんですか?」


 私は驚いた顔で家を指差した。


「去年までな」


 農民は少し寂しそうに笑いながら答えた。


「来年には、あそこも家になるでしょう」


 農民が指差した先を見て、私は言葉を失った。


 街は大きくなっている。


 人も増えている。


 商売も盛んになっている。


 それ自体は、良いことのはずだった。


 けれど街が広がれば、その分だけ畑が消えていく。


「地代が上がれば、儲けも減ります」


 農民は遠くを見るような目をしながら、淡々と続けた。


「それに、土地そのものを売ってしまう者もいます」


「なぜ?」


 私は眉を寄せ、農民の顔を見た。


「畑を売れば、まとまった金になりますから」


 農民はそう言って、小さく肩をすくめた。


「……」


 私は街を見る。


 豊かになることと、その豊かさを守ることは同じではない。


 発展そのものが、新しい問題を生む。


 私は初めて、それを実感した。


「……難しいですね」


 マルク伯が私の横で苦笑しながら呟いた。


「ええ」


 私は街から視線を外さないまま、小さく頷いた。


「本当に難しいです」


 ◇


 そして最後に案内されたのは、これまでとは規模の違う農地だった。


「ここは……?」


 私は馬車から降りると、目の前に広がる広大な農地を見渡しながらマルク伯へ尋ねた。


「大規模荘園です」


 マルク伯は周囲を見回しながら、静かに答えた。


 見渡す限りの畑が広がっている。麦畑だけではなく、牧草地があり、果樹園があり、家畜小屋があり、倉庫があり、水車まである。その奥には大きな屋敷まで建っていた。


「すごい……」


 私は思わず足を止め、目を見開いた。


 村一つどころではない。


 まるで、小さな町だ。


「ここなら、改革を試しやすそうですね」


 私は少し期待を込めた表情でマルク伯へ振り返った。


 するとマルク伯は少しだけ難しい顔をして、ゆっくり首を横に振った。


「そう簡単でもありません」


「どうしてです?」


 私は首を傾げながら尋ねる。


 マルク伯は荘園の奥を指差し、少し意味ありげに目を細めた。


「まず、あれをご覧ください」


「え?」


 私はその指先を追って、目を凝らした。


 指差された先には、大きな水車が見える。


 だが、その水車は動いていなかった。


「止まってますね」


 私は眉を上げながら呟いた。


「ええ」


 マルク伯が頷く。


「故障ですか?」


 私が尋ねると、マルク伯は首を横に振った。


「いいえ。あれは穀物を挽くための水車ですが、動かす人間が足りないのです」


「……人が?」


 私は思わず目を丸くした。


 さらに周囲を見ると、大きな農具も納屋の脇に置かれたままだった。立派な鋤もあれば荷車もあり、脱穀用の道具まで揃っている。どれも使えば仕事を楽にできそうなのに、人手が足りないために十分には使われていない。


「土地はあるし、設備もある。家畜もいれば、農具も倉庫も水車もある。それなのに、人が足りない」


 私は一つずつ周囲を見渡しながら、確認するように呟いた。


 マルク伯は私の言葉を聞いて静かに頷く。


「大規模な土地を持っていても、それを耕す人間がいなければ意味がありません」


 そう言いながら、農民たちの働く様子へ目を向けた。


 私は農民たちを見る。


 少ない人数で、広大な畑を必死に耕している。


「人手が足りなければ?」


 私はマルク伯へ視線を戻し、問いかける。


「賃金を上げる必要があります」


 マルク伯は指を一本立てるようにして答えた。


「そうすると?」


 私はすぐに次の問いを重ねる。


「経費が増えます」


 マルク伯は苦笑する。


「では、農具を増やして省力化する?」


 私は少し考えてから提案するように尋ねる。


「それにも限界があります。農具を増やせば、扱える人間も必要になりますし、修理や手入れをする人間も必要です」


 マルク伯は肩をすくめるようにして答えた。


「……なるほど」


 私はゆっくり頷き、改めて止まった水車へ視線を向けた。


 ここで初めて気づいた。


 金や設備があるだけでは、それだけで生産力になるわけではない。それらを実際に動かし、維持し、使いこなす人間がいて、初めて生産力として機能するのだ。


「結局、人ですか」


 私は水車から視線を外し、少し苦笑しながら呟いた。


「農業は、人の仕事ですからな」


 マルク伯も同じように水車を眺め、静かに答えた。


 私は荘園を見渡した。


 土地があり、家畜がいて、農具も倉庫も水車も揃っている。それでも問題がある。


 私は、これまで見てきた村を思い出した。


 干し草の足りない納屋も、捨てられていく果物も、港に積まれた魚も、泥に沈んだ荷車も、家に変わろうとしている畑も、そして止まった水車も、どれも抱えている問題は違う。


 使える資源も違えば、売れるものも違う。


 けれど、そんな違いがありながらも、一つだけ共通していることがあった。


「……全部、繋がっている」


 私は視線を遠くへ向けたまま、ぽつりと呟いた。


 その声を聞いたマルク伯が、少し意外そうに私を見る。


「何がです?」


 私はマルク伯へ顔を向け、ゆっくり答えた。


「農業です」


 私は、これまで見てきたものを頭の中で一つずつ繋ぎ合わせながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「畑だけじゃない。土地があっても、道がなければ売れない」


 私は山間部で見た荷車を思い出しながら、街道のほうへ手を向けた。


「作物だけでもない。収穫しても、保存できなければ腐る」


 今度は果樹園の傷んだ果物を思い出し、手のひらを見つめた。


「家畜だけでもない。餌がなければ増やせない」


 私は先ほど見た雄牛の姿を思い浮かべ、少しだけ眉を寄せる。


「設備だけでもない。動かす人間がいなければ意味がない」


 止まった水車へ視線を戻しながら、そう続けた。


「市場だけでもない。売れても、土地を失えば続けられない」


 最後に都市近郊の畑を思い出し、私は小さく息を吐いた。


 私は、これまで見てきた光景を思い出す。


 それぞれが別々の問題に見えていたものが、少しずつ一本の線になっていく。


「農業を変えるって……」


 私は空を見上げながら、考えを整理するように眉を寄せて呟いた。


「畑を変えることじゃないんですね」


 マルク伯は何も言わず、静かに私の話を聞いている。


「人を変えることでもない。農民に無理をさせれば続かない」


 私は首を横に振る。


「作物だけでもない。作っても、売れなければ意味がない」


 そう言ってから、私はマルク伯をまっすぐ見つめた。


「だから、全部を一緒に考えなきゃいけない」


 私は、ゆっくり息を吐いた。


 農業だけではない。道も、倉庫も、市場も、税も、働く人間も、互いに影響し合っていて、その一つだけを変えれば解決するような単純な話ではない。


「全部が繋がっているんですね」


 私は確かめるようにマルク伯へ尋ねた。


 マルク伯はしばらく私を見つめたあと、静かに頷いた。


「そのようですな」


 穏やかな声だった。


 農業改革。


 最初は、もっと簡単なものだと思っていた。


 三圃式を導入する。新しい作物を植える。肥料を増やす。そうすれば収穫は増える。私は、そんなふうに考えていた。


 けれど――現実は違った。


 干し草の足りない納屋があり、捨てられていく果物があり、港には売れ残った魚が積まれている。山間部では泥に沈んだ荷車があり、都市の近くでは畑が家へと変わろうとしている。そして大規模荘園には、立派なのに動かない水車がある。


 どれも別々の問題に見える。


 けれど、その一つ一つが、どこかで繋がっている。


「……これは、思っていたより大変ですね」


 私は苦笑しながらマルク伯を見る。


「今さらですか?」


 マルク伯は口元を緩め、少しからかうような笑顔で返した。


「はい」


 私は思わず笑い返し、肩をすくめた。


 だけど、もう最初の頃とは違う。


 畑を見て、ただ「収穫を増やせばいい」と考えるだけではない。目の前にいる人の暮らしを見て、何に困っているのかを確かめ、その先まで考える。それが大事なのだ。


「面白くなってきました」


 私は畑の向こうを見ながら、どこか楽しそうに笑って言った。


「面白い?」


 マルク伯は少し驚いたように目を瞬かせ、それから苦笑した。


「はい」


 私は頷く。


「まだ、分からないことだらけです」


 だからこそ、一つずつ調べていく必要がある。


 まずは試験畑を作り、次に保存や加工、輸送、そして市場についても調べていく。小さく試して結果を見て、うまくいけば広げ、失敗したら原因を探す。その繰り返しでしか前には進めない。


「フェルディナントさんに、報告書を作らないといけませんね」


 私は少し遠い目をしながら、これから書く内容を想像して苦笑した。


「かなり長い報告書になりそうですな」


 マルク伯も同じように苦笑し、肩を軽くすくめる。


「でしょうね」


 私は苦笑を返した。


 そして、馬車へ向かって歩き出した。


「帰ったら、イモについて調べましょう」


 私は歩きながら振り返り、マルク伯へ声をかける。


「イモ?」


 マルク伯は足を止めることこそなかったものの、怪訝そうに眉を上げて私を見る。


「はい。具体的には、ジャガイモとサツマイモです」


 私は人差し指を立てるようにして答えた。


「これだけ村を見て回ったなら、次は食料を増やすための作物そのものについても試してみたいんです。特に、今の作物だけでは不作のときに不安が残りますから」


 私はこれまで見てきた畑を振り返りながら、少し考え込むように言葉を続けた。


 それから――トルコ小麦。


 こちらの世界でそう呼ばれている作物、トウモロコシだ。


 この三つをうまく組み合わせれば、食料生産を安定させられるかもしれない。


 もちろん、植えればすぐに解決するほど甘くはない。気候はどうなのか、土壌は適しているのか、種芋や種子は手に入るのか、農民は受け入れてくれるのか、保存方法はどうするのか、市場はあるのか――そうしたことも一つずつ確かめなければならない。


「また、聞いたことのない作物ですか」


 マルク伯は呆れたように眉を下げ、それでもどこか楽しそうに笑った。


「はい」


 私は悪びれもせず頷く。


「迷い鳥様は、本当に飽きませんな」


 マルク伯は小さく首を振りながら、からかうような笑みを浮かべた。


「私もそう思います」


 そう答えながら、私は小さく笑った。


 まだ、この国には知らないものが多すぎる。


 だからこそ、もっと見てみたいし、もっと知りたい。


 そして、いつか、この国の農民たちが凶作の年にも怯えずに冬を越せる農業を作りたい。


 そのための最初の一歩は――小さな試験畑から始まる。


 私は馬車に乗り込んだ。


 もう、ただ見て回るだけでは終われない。次は、自分で試す番だ。


 まずは、小さな畑から始めて、そこで結果を出せれば次へ進む。その積み重ねでしか、ここから先には進めない。


 私は窓の外へ目を向けた。


 夕暮れの畑が、ゆっくりと流れていく。


 今日見た干し草や果物、魚、木材、土地、そして人の姿が、頭の中で少しずつ一本の線になっていく。


 農業を変えるということは、畑だけを変えることではない。


 それは、この国の「仕組み」そのものを変えることなのだ。


「……やってみよう」


 私は窓の外を見つめたまま、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。


 まだ何も始まっていない。


 けれど、最初の一歩はもう踏み出した。


 いつか、この景色を変える。


 そのための改革を、まずは小さな試験畑から始めよう。

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