教皇からの急使――ロードス島を守れ
ワラキアについて調べることになり、私はローザリンデと一緒に地図を広げていた。
ハンガリーが南からオットマンを引きつけ、サファヴィー朝も東方から圧力をかけられる可能性がある。その間にあるワラキアとも協力できれば、オットマンは北方を無視して兵力を動かすわけにはいかなくなる。問題は、ワラキアがどのような立場にあり、何を条件に協力してくれるかだった。
「ワラキアにどう働きかけるか、ですね」
ローザリンデが地図の上を指でなぞりながら言った。
「そう。ハンガリーと協力できても、それだけでオットマンの動きを完全に縛れるわけじゃないからね。ワラキアもこちらに協力してくれれば、北方にも気を配らせられるはずだよ」
「ただ、協力してもらうには、ワラキア側にも何か利点が必要ですよね」
「そこが問題だね。まずは今の立場や、オットマンとの関係を調べないと」
私が地図に目を落としていると、扉がノックされた。返事をすると、マルク伯が入ってくる。
「渡り鳥殿、少しよろしいでしょうか。教皇聖下からの使者が到着しております。皇帝陛下とフェルディナント殿下にも、急ぎお会いいただきたいとのことです」
「教皇からですか?」
私は思わず聞き返した。ローザリンデも顔を上げ、マルク伯の表情をうかがう。
「はい。急ぎの用件とのことです」
その口ぶりからすると、単なる挨拶や儀礼のための訪問ではなさそうだった。
「わかりました。すぐに向かいます」
私は地図を片づけ、ローザリンデとともにマルク伯の後について部屋を出た。
皇帝カールとフェルディナントが待つ部屋には、すでに教皇の使者が通されていた。使者は二人に深く頭を下げてから、持参した書状を差し出す。
「教皇聖下より、陛下と殿下にお願いがございます。オットマン帝国の艦隊が地中海で活動を活発化させており、ロードス島が危険にさらされるおそれがございます」
「ロードス島か……」
皇帝カールは書状に目を落とし、低く呟いた。
ロードス島は聖ヨハネ騎士団の拠点であり、東地中海におけるキリスト教勢力の重要な拠点でもある。もしオットマンに奪われれば、その影響は島ひとつにとどまらない。東地中海の勢力図が変わり、交易や航路の安全にも大きな影響が出るだろう。
「現時点で、島への攻撃が始まったという確かな報告はございません。しかし、艦隊の動きが活発になっている以上、攻撃が始まるまで待っていては、援軍が間に合わなくなるおそれがあります。準備には船も物資も必要です。どうか、早急にご検討いただきたいのです」
使者は説明を終えると、もう一度深く頭を下げた。
皇帝カールは書状を置き、フェルディナントと視線を交わした。
「教皇聖下の要請を、むげに断るわけにはいかぬな」
「はい。私も同じ考えです」
フェルディナントもすぐに同意した。
神聖帝国は、教会の守護者としての立場から退いている。だからといって、教皇からの要請を簡単に断れるわけではない。皇帝カールが戴冠を受けて間もない今、教皇との関係を損なうことは避けたいところだった。ここで要請を軽んじれば、皇帝としての立場にも影響しかねない。
「援軍を送るための準備を進めよう。必要な兵力と物資、それに船をどれほど用意できるか、急ぎ調べよ。攻撃が始まってからでは遅い。可能な限り早く動けるようにしておくのだ」
「承知いたしました」
控えていたガッティナーラが一礼した。
皇帝は援軍派遣に向けて動く意思を明確にした。だが、実際に送り届けるには、船の確保や物資の輸送、航路の検討が欠かせない。準備には時間がかかる。だからこそ、攻撃が始まる前から動き出す必要があった。
私はそのやり取りを聞きながら、今後のことを考えていた。オットマンの動きを警戒するのは当然だが、帝国にはフランケとの戦争もある。イタリアでの戦いが続いている以上、兵力も資金も無尽蔵に使えるわけではない。
ならば、援軍を送る準備と並行して、フランケとの戦争を一時的にでも休止できないだろうか。
「それなら、教皇聖下にフランケとの停戦を仲裁していただくようお願いしてはどうでしょうか」
私の提案に、皇帝カールが顔を上げた。
「フランケとの停戦を、教皇に仲裁していただくということか」
「はい。もちろん、ロードス島への援軍とは別の話です。教皇聖下からの要請には応えるべきだと思います。ただ、フランケとの戦争が少しでも落ち着けば、こちらも兵や物資を回しやすくなるのではないかと」
ロードス島への援軍を、停戦が成立した場合に限るつもりはなかった。教皇から要請を受けた以上、できる限りの対応は必要だろう。そのうえでフランケとの戦争を一時的にでも休止できれば、帝国にとっても利点があるはずだった。
私はマルク伯から聞いていたイタリアの戦況を思い返した。ビコッカの戦いをはじめ、帝国側は勝利を重ねている。私がこちらに来てからも、補給や軍の運用が改善されたことで、帝国側が戦いやすくなっていると聞いていた。
反対に、フランケは苦しい戦いを強いられている。兵も資金も消耗しているだろう。そんな状況なら、フランケの側にも、一度戦争を休んで立て直したいという考えがあるのではないだろうか。
「マルク伯から戦況を聞いているのですが、今のフランケはかなり苦しいようです。こちらから停戦を持ちかければ、話し合いに応じる可能性もあるんじゃないでしょうか」
あくまで戦況から考えた可能性だった。フランケの国内事情や貴族たちの考えまでは、私にはわからない。
ガッティナーラは顎に手を添え、少し考え込んでから口を開いた。
「確かに、フランケ国王にも停戦を検討する理由はあるでしょう。戦況が不利であれば、軍を立て直す時間を欲するはずです。ただし、国王が望んだとしても、それだけで話がまとまるとは限りません」
「といいますと?」
「フランケ国内にも、戦争の継続を望む者たちはいるでしょう。戦争によって利益を得ている者もおりますし、敗北を認める形の停戦には反対する者も出るはずです」
「なるほど……」
国王が停戦を望んでも、国内の貴族や軍人が同じ考えとは限らない。そこは、現地の政治事情に詳しい人たちの判断が必要だった。
「ですが、教皇聖下が仲裁に入られるのであれば、停戦を話し合うきっかけにはなるでしょう。両国が直接交渉するよりも、話を始めやすいかもしれません」
ガッティナーラの説明に、皇帝カールも頷いた。
「ロードス島への援軍は、停戦の成否にかかわらず進める。そのうえで、教皇聖下にフランケとの停戦を仲裁していただけるよう、こちらの希望も伝えるとしよう」
「それがよろしいかと存じます」
フェルディナントも同意した。
「ガッティナーラ、教皇聖下への返書を用意せよ。援軍については、輸送手段や必要な物資も含め、実行可能な案を急ぎまとめるのだ。停戦の仲裁についても、こちらからの要請として丁寧に伝えておけ」
「かしこまりました」
ガッティナーラは一礼した。使者も、皇帝の返答を受けて安堵したようだった。
「教皇聖下も、陛下のお返事をお聞きになれば心強く思われることでしょう」
「我々としても、ロードス島が陥落する事態は避けたい。できる限りのことはしよう」
皇帝カールの言葉に、使者は改めて深く頭を下げた。
こうして、ロードス島への援軍派遣に向けた準備と、フランケとの停戦仲裁の要請が並行して進められることになった。
*
教皇の使者が退出したあと、私たちは部屋を出た。ローザリンデは歩きながら、少し考え込むような表情で私を見た。
「停戦の話まで進むとは思いませんでした」
「私も、実際に話がまとまるとは思っていないよ。ただ、今の戦況なら、フランケにも停戦を考える理由はあるんじゃないかと思ったんだ」
「でも、フランケが応じるかどうかはわからないのですね」
「そうだね。ガッティナーラの話を聞く限り、国王が望んだとしても、国内の事情があるみたいだし」
私は肩をすくめた。今は可能性のひとつを提示したにすぎない。実際に交渉が成立するかどうかは、これからの話だった。
「それよりも、ロードス島への援軍だね。船を確保して、兵や物資を港に集めないといけない。食料や水はもちろん、負傷者のための医薬品も必要になる」
「そうですね。用意する物資の種類だけでなく、どれだけの量が必要なのかも考えなくてはいけません。運ぶ途中で傷んでしまっては意味がありませんし、港まで運ぶ手段も必要です」
ローザリンデは、すでに実務の段取りを考え始めていた。
「まずは食料を中心に、必要な物資と調達先を整理してみます」
「助かるよ。こちらでは船や航路、港の事情を調べるから、ローザリンデには物資の方を手伝ってもらえるかな」
「わかりました。必要なものを洗い出しておけば、後から不足に気づいて慌てずに済みますね」
これまで外交の場を整えるために食材や料理の手配をしてきたが、今度は兵たちを支える物資の準備になる。規模も目的も違うとはいえ、必要なものを洗い出し、調達先と運び方を考える点では共通していた。
「まずはマルク伯に、船を出せそうな港と、そこまで物資を運ぶ経路について聞いてみるよ」
「お願いします。こちらでも、物資の調達について調べておきます」
ローザリンデと役割を分け、私は地中海の地図を机いっぱいに広げた。ロードス島までの航路を指でたどり、候補となる港と補給地点を書き出していく。
援軍の規模も必要な船の数も、今の段階ではまだわからない。オットマンの艦隊と遭遇する危険もある。まずはマルク伯から港や輸送事情を聞き、実行できる計画を組み立てる必要があった。
地図を見つめていると、私はふと、先ほど考えていたもう一つの問題を思い出した。
「それと、ハンガリーとワラキアのことも考えないと」
「ワラキアの協力も、ですか?」
「うん。ロードス島へ直接兵を送るわけじゃないけれど、ハンガリーと連携して北方から圧力をかけられれば、オットマンもそちらを無視できなくなる。サファヴィーが東から圧力をかける可能性もあるし、向こうが自由に兵力を動かせない状況を作れるかもしれない」
「ただ、ワラキアが協力してくれるかどうかは、これから調べなければならないのですね」
「そうだね。どんな条件なら協力できるのかも、まだわからない。こちらの都合だけで動いてくれるわけじゃないから」
海上からの援軍と、北方での協力。それぞれ必要な準備も交渉相手も違うが、オットマンに対抗するためには、どちらも無視できなかった。
ワラキアとの協力を実現するには、まず相手の立場や事情を把握し、協力する利点を示す必要がある。ローザリンデが言ったとおり、こちらの都合だけで話を進めても、簡単には応じてもらえないだろう。
「まずは、マルク伯に港と輸送の事情を聞こう。それと並行して、ワラキアの状況も整理してみるよ」
「はい。こちらも物資の準備を進めます」
私は再び地図に目を落とした。
海の向こうにはロードス島があり、北方にはハンガリーとワラキア、さらに東にはサファヴィー朝がある。どの国も、こちらの都合だけで動いてくれるわけではない。それでも、協力できる相手を増やせば、オットマンが思いどおりに兵力を動かせない状況を作れる可能性はある。
まずは援軍を送るための条件を確かめ、同時に北方の協力をどう形にするかを考える。私は地図の上で海上の航路と北方の国々を見比べながら、次に確認すべきことを書き出していった。




