次の相手はイングラント
ヴェネツィアの使節を迎えた晩餐から、しばらく経った。
今夜の客は、海の向こうから来たイングラントの使節たちだった。
フランケを巡っては、皇帝陛下とイングラントの間に協力できる余地がある。だが、新大陸の話となれば事情はまったく違う。
同じ方向を向いているようでいて、その先にある利益まで同じとは限らない。
そのことを、私は厨房で下準備をしながら考えていた。
「今回は、前より緊張していませんね」
隣で皿の並びを確認していたローザリンデが、私の顔を覗き込む。
「少しはしますよ。でも、前回よりは何を見せたいかが決まっていますから」
私はそう答えながら、最後の皿の盛りつけを確認する。
ヴェネツィアのときは、相手の食文化に寄り添いながら、帝国の料理と新しい作物を見せた。
今回は、それだけでは足りない。
イングラントは海に生きる国だ。
新大陸との交易についても、きっと自分たちなりの考えがあるだろう。
「今回は、少し難しい相手ですね」
ローザリンデが慎重な表情で呟く。
「だからこそ、料理が役に立つんですよ」
そう言って笑うと、彼女は苦笑しながら頷いた。
「あなたは本当に料理を外交に使うのが好きですね」
「美味しいものを食べているときのほうが、険しい顔もしにくいでしょう?」
「それは確かに」
二人で小さく笑ったところで、晩餐の開始が告げられた。
ほどなくして、皇帝陛下とフェルディナント大公、ガッティナーラ、マルク伯が席につき、その向かいにイングラントの使節たちが腰を下ろした。
最初の料理として出したのは、魚を中心にした一皿だった。
焼いた魚に豆と香草を合わせ、酸味のあるソースでまとめている。
海と魚に馴染みのある相手だからこそ、最初は親しみやすい味にした。
イングラントの使節の一人が皿を眺め、香りを確かめてから口を開く。
「魚を使った料理ですか」
「ええ。海に縁の深い国ですから、まずはこちらをと思いまして」
私が答えると、使節は小さく笑ってからナイフを入れた。
一口食べる。
しばらく噛みしめたあと、満足そうに頷いた。
「魚そのものを活かしながら、豆で味に厚みを持たせている。なかなか面白いですな」
「海の料理には慣れているでしょうから、最初は親しみやすいものにしました」
私がそう言うと、マルク伯が横から口元を緩める。
「最初の一皿から相手のことを考えているわけか」
「もちろんです」
私は得意げに答えた。
次に運ばれたのは、ローストした鹿肉だった。
肉そのものの味をしっかり残しながら、酸味のある果実と香辛料を使ったソースを添えている。
使節たちは皿を見た瞬間、先ほどとは違う興味を示した。
「鹿ですか」
「ええ。イングラントでは、こうした料理も珍しくないと聞きましたので」
一人の使節が目を細め、肉を切る。
「我々のことを、ずいぶん調べられたようですな」
「せっかく来ていただいたんです。できるだけ楽しんでもらいたいですから」
そう答えると、使節は笑って肉を口に運んだ。
しかし、次の瞬間には眉を少し上げる。
「果実と香辛料を合わせましたか」
「はい。肉だけでは少し重いので、酸味を加えました」
「なるほど。知っている料理なのに、どこか違う」
使節はそう言って、もう一口食べた。
「これは面白い」
その反応に、私は思わず笑みを浮かべた。
続いて、大きな肉のパイが運ばれてくる。
外側は香ばしく焼き上げ、切り分けると、中から肉と香辛料の豊かな香りが立ち上る。
イングラントの使節たちは、今度こそ明らかに嬉しそうな顔をした。
「これは、我々にも馴染みのある料理ですな」
「ええ。イングラントの料理を参考にして作りました」
「なるほど」
使節は切り分けられたパイを口に運び、ゆっくりと頷いた。
「祖国の料理を思い出します」
その表情を見た私は、少しだけ胸を撫で下ろした。
相手の文化を尊重する。
それが今日の晩餐で、最初にやりたかったことだった。
だが、ここから先が本番だった。
次の料理として運ばれたのは、帝国の仔牛肉を使った一皿だった。
香ばしく焼いた肉に、帝国で馴染みのある調味を合わせている。
先ほどまで笑顔だった使節たちが、今度は皿をじっと見つめた。
「こちらは?」
「帝国の料理です」
私が答える。
「先ほどまで皆さんの料理をお出ししましたから、今度はこちらの料理も知っていただこうと思いまして」
使節が一口食べる。
今度はすぐには言葉を発さず、じっくりと味を確かめていた。
やがて、一人が静かに口を開く。
「なるほど。先ほどとは違う」
「そうでしょう?」
「つまり、最初の皿で我々に歩み寄り、その次では帝国そのものを見せたわけですか」
その言葉に、私は少し驚いた。
思っていた以上に伝わっている。
皇帝陛下はグラスを手にしたまま、穏やかに頷いた。
「互いの違いを知ることは、外交において悪いことではない」
「はい」
使節が頭を下げる。
そして、次の料理が運ばれた。
赤いソースをまとった料理だった。
「これは?」
イングラントの使節が興味深そうに尋ねる。
「トマトです」
「新大陸の?」
「はい」
一瞬、空気が変わった。
先ほどまで穏やかだった使節の表情が、わずかに引き締まる。
私はその変化を見逃さなかった。
使節は料理を口に運びながらも、今度は味そのものより、その向こうにあるものを考えているようだった。
やがて、一人がナプキンを置いて尋ねる。
「帝国では、この作物をどの程度広めるおつもりなのですかな?」
「かなり広い範囲で栽培できるようにしたいと思っています。食料としても使えますし、料理にも利用できますから」
「なるほど」
返事は穏やかだった。
だが、その目は笑っていない。
フェルディナント大公が使節の様子を静かに見つめる。
「何か気になることでも?」
「いえ。大変興味深いだけです」
使節は微笑んだ。
「ただ、こうして実際に料理として出されると、新大陸との関わりが急に身近なものに感じられますな」
そして、その次にジャガイモの料理が運ばれた。
「こちらも新大陸の作物ですな」
「ええ。こちらは収量の面でも期待しています。小麦の栽培に向かない土地でも、食料として使える可能性がありますから」
使節は頷いた。
「食料として普及させれば、交易だけではなく農業そのものが変わる」
「そうなるかもしれません」
私が答えると、ガッティナーラが静かに話を引き取った。
「そして、海を通じて新大陸と結びついている国々にとっては、さらに大きな意味を持つ」
使節の表情が少し変わった。
「我々が海洋交易を重視していることをご存じでしたか」
「知らないほうが不自然でしょう」
ガッティナーラは薄く笑う。
「ですが、だからこそ申し上げておきましょう。帝国もまた、新大陸との関わりを軽く考えているわけではありません」
穏やかな声音だった。
それなのに、先ほどまでの晩餐とは違う緊張感が生まれる。
私は料理を運んでいた手を止め、思わず二人の顔を見比べた。
すると、皇帝陛下が静かに口を開く。
「イングラントと我々は、すべての問題で争うつもりはない」
使節はじっと陛下を見つめている。
「フランケを巡っては、我々には共通する利害がある」
「はい」
「だが、新大陸まで同じ利害だとは限らぬ」
使節はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……正直におっしゃられるのですな」
「隠したところで、いずれ分かることだ」
陛下はそう言ってグラスを傾けた。
その姿に、使節はむしろ安心したようだった。
「そのほうが、我々としても話しやすい」
「そうでしょうな」
ガッティナーラが頷く。
「友好と競争は、両立しないものではありません」
使節は少し考えるように杯へ視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「我々も、フランケに関しては帝国との協力を望んでおります」
その言葉に、皇帝陛下がわずかに頷く。
「だが、新大陸についてまで我々が譲歩できるとは、お考えにならぬことです」
穏やかな言い方だった。
それでも、その言葉には明確な意思があった。
私は思わず息を呑んだ。
ガッティナーラはそんな使節を見て、口元に薄い笑みを浮かべる。
「もちろんです。こちらも譲るつもりはありません」
両者の間に、一瞬だけ静かな緊張が走る。
だが、皇帝陛下はそれを険悪なものにはしなかった。
「だからこそ、争う必要のない場所では協力すればよい」
「……おっしゃる通りです」
使節は恭しく頭を下げた。
私は思わず料理を見つめた。
魚。
鹿肉。
イングラント風のパイ。
帝国の仔牛肉。
そして、新大陸のトマトとジャガイモ。
料理の並びそのものが、二つの国の関係を表しているように見えた。
ヴェネツィアでは、料理を通じて文化と交易を見せた。
イングラントでは、それに加えて、互いの利益がぶつかる場所まで見えている。
「……なるほど」
思わず呟くと、隣のローザリンデがこちらを見る。
「どうしました?」
「晩餐って、面白いですね」
「今さらですか?」
「ええ。でも、今までとは少し違います」
私は小さく笑った。
「同じ料理でも、相手によって見せる意味が変わるんです」
最後の給仕では、菓子とヒポクラスを出した。
焼き菓子やカスタードを使った菓子を並べ、その横には香辛料を加えた甘いワインを置く。
シナモンやショウガの香りがふわりと広がった。
使節が杯を手に取り、香りを確かめてから口にする。
「これは……」
「ヒポクラスです。甘さの中に香辛料の香りが残る酒です」
使節はもう一口飲んだ。
「これはいい」
先ほどまでの硬い表情が、ようやく少しだけ和らぐ。
「こういうものが最後に出てくると、難しい話をしていたことまで忘れてしまいそうですな」
「食事くらいは、楽しく終わったほうがいいですから」
私が答えると、使節は笑った。
「そうですな。競争相手になる可能性がある相手との食事だからこそ、こういう時間は大切なのかもしれません」
やがて料理がすべて下げられ、晩餐の締めくくりの時間になる。
イングラントの使節は皇帝陛下へ向き直った。
「本日の晩餐、たいへん興味深いものでした」
「ヴェネツィアの使節にも、同じようなことを言われたな」
陛下がそう言うと、使節は微笑む。
「ですが、我々が受け取った意味は少し違うと思います」
「ほう?」
「帝国は、新しいものを取り入れることを恐れていない。そして、それを自分たちのものとして育てようとしている」
使節はそこで一度言葉を切った。
「同時に、我々がその新しい世界で利益を求めることも理解している」
皇帝陛下は満足そうに微笑んだ。
「理解しているとも」
使節は深く頭を下げる。
「それならば、今後も話し合う価値はありそうですな」
そこで一度顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
「フランケについては、これまで以上に協力できるでしょう」
そして、ほんの少し間を置いてから続けた。
「ですが、新大陸については、我々も我々の利益を守らねばなりません」
「承知している」
皇帝陛下は静かに答えた。
「それでも、こうして同じ卓を囲めるのなら、それで十分なこともある」
「その通りです」
使節は深く頭を下げた。
そのやり取りを聞きながら、私は何となく気づいていた。
今日の晩餐では、料理を通して仲良くなったわけではない。
互いに違うものを持っていることを確認したのだ。
それでも、食卓を囲んで話すことはできる。
協力できるところでは手を取り合い、競うところでは競う。
もしかすると、それが外交というものなのかもしれない。
そんなことを考えていると、マルク伯がこちらへ顔を向けた。
「ところで、お前はもう次の晩餐のことを考えているんじゃないだろうな?」
「……少しだけ」
「やっぱりか」
マルク伯が呆れたように息を吐く。
ローザリンデも横で苦笑している。
「今度はどこの国を想定しているんです?」
そう尋ねられて、私はしばらく考えた。
「まだ決めていません。でも、今日の反応を見ると……」
私は空になった皿を眺め、それから小さく笑った。
「もっといろんな国の料理を試してみたくなりました」
ガッティナーラが肩をすくめる。
「どうやら、しばらくは晩餐が続きそうですな」
フェルディナント大公も苦笑し、皇帝陛下はそんな私たちを眺めながら、静かにグラスを傾けた。
食卓は、今日もまた一枚の地図になっていた。
ただし今夜の地図には、国境だけではなく、協力できる場所と競争する場所まで描かれていた。




