帝都が大軍に包囲される未来
しばらくの間、部屋には静かな空気が流れていた。
保存食の話から始まったはずなのに、気がつけば海上輸送や海軍、ロードス、エジプト、サファヴィー朝、さらには船上でのスプラウト栽培まで話が広がっている。
マルク伯はすっかり疲れたように椅子の背へ身体を預け、額を指先で軽く押さえながら苦笑していた。一方のガッティナーラは、そんな私の顔を興味深そうに見つめている。
その少し離れたところでは、フェルディナント大公も腕を組み、私たちの話を静かに聞いていた。先ほどまでは口を挟まずにいたが、今はいつでも発言できるように、わずかに身体を前へ傾けている。
やがて、ガッティナーラが机の上の地図から視線を上げた。
「しかし、迷い鳥殿は、どうしてそこまで先のことを考えるのです?」
彼は責めるような口調ではなく、純粋な疑問を口にするように首を少し傾けた。
「え?」
思いがけない質問に、私は目を瞬かせる。
「保存食だけなら、現在の軍や民衆のために必要だから、と説明できます。海上輸送も同じです。しかし、ロードス、エジプト、サファヴィー朝、そして海軍まで考えている。それも、今すぐ必要になるとは限らないことまで……」
ガッティナーラはそう言ってから言葉を止め、私の表情を探るようにじっと見つめた。
私は返事に迷い、無意識に机の上の地図へ視線を落とした。
もちろん、本当のことを全部話すわけにはいかない。
私はこの時代の人間ではないし、自分が知っている歴史をそのまま話してしまえば、どうして未来を知っているのかという別の問題まで生まれてしまう。
けれど、まったく何も答えなければ、今までの自分の行動に説明がつかない。
私はしばらく考えたあと、覚悟を決めるように小さく息を吐き、顔を上げた。
「……私が知っている範囲だと、四年後くらいに、ハンガリー王がオットマン帝国との戦いで戦死するんです」
「ハンガリー王が……?」
マルク伯が思わず聞き返し、腕を組んでいた手をほどく。その眉には驚きがはっきりと浮かんでいた。
フェルディナント大公も表情を引き締め、私の顔をまっすぐ見つめる。
「四年後、ですか」
大公が確認するように低い声で尋ねた。
「はい」
私は静かに頷いた。
「そして、そのあともオットマン帝国との戦いは続きます」
私は地図の上へ指を置き、ハンガリーの位置を確認してから、そこから西へゆっくりと指を動かした。
「その三年後、つまり今から七年後くらいには、帝都がオットマン帝国の大軍に包囲されることになります」
「……帝都が?」
フェルディナント大公の眉がわずかに動いた。
先ほどまで落ち着いていた表情が明らかに険しくなり、大公は地図の上の帝都へ視線を落とした。
マルク伯も椅子から少し身体を起こし、私と地図を交互に見ている。
「はい。私が知っている歴史では、そうなります」
私は二人の反応を見ながら、静かに続けた。
「そのときには、帝都の周辺も大変なことになります。オットマン帝国の大軍が押し寄せれば、それだけ多くの兵士を動かすことになりますし、その軍隊を支えるためには大量の食料や家畜、それにさまざまな物資が必要になります」
私はそこで一度言葉を切り、地図の帝都周辺へ指を移した。
「それに、進軍の途中や戦場の周辺では略奪も起こるでしょう。村や町が被害を受ければ、家畜を失ったり、食料を奪われたりする人も出てくると思います」
私は地図の上で指をゆっくりと動かしながら、少し眉を寄せた。
「住んでいた場所から逃げなければならなくなる人だっているでしょう。そうなれば、その人たちを受け入れるための食料や場所も必要になります」
大公は口を挟まずに聞いていたが、やがて地図から顔を上げた。
「つまり、帝都そのものを守るだけでは足りない、と?」
その声音には、単なる確認以上の真剣さがあった。
「はい」
私は大きく頷く。
「帝都まで戦場が近づいてくるなら、その途中にある町や村も無事では済まないと思います。帝都を守る軍隊のための備えだけじゃなく、その周辺で被害を受ける人たちへの備えまで考えておいたほうがいいと思うんです」
フェルディナント大公は顎へ手を添え、しばらく考え込むように目を伏せた。
「なるほど……」
短くそう呟いたあと、大公は再び私を見る。
その横で、ガッティナーラも口を開いた。
「……それを知っているから、今から準備をしたいのですか?」
「はい」
私は素直に頷いた。
「おそらく現状では、皆さんはフランケとの戦いで頭が一杯なんだと思います」
私は困ったように眉を下げながら、三人を順番に見た。
「今、目の前にある戦いが続いている以上、どうしてもそちらへ意識が向きますよね。フランケとの戦争に対応しながら、まだ大きな動きを見せていないオットマンの西進にまで注意を向ける余裕がないのも、仕方がないと思います」
マルク伯は腕を組み直し、考えるように目を細めた。
私はその表情を見ながら、慎重に言葉を続ける。
「でも、私はオットマンのほうがフランケより危険だと思っています」
「……オットマンのほうが?」
ガッティナーラがわずかに身を乗り出し、聞き返した。
「はい」
私は頷き、地図の東側へ手を伸ばした。
「もちろん、今戦っているフランケを軽く見ているわけではありません。ただ、オットマンは、これからさらに西へ進んできます」
指先を東から西へゆっくり動かしながら、私は言葉を重ねる。
「しかも、その脅威は単純に兵士が強いというだけじゃありません。大軍を動かす力があり、城や都市を攻めるための兵器も持っています。そして、一度こちらへ進み始めれば、その影響は軍隊だけに留まらないと思います」
フェルディナント大公が地図を見ながら静かに尋ねる。
「民間の暮らしまで、ということですか?」
「はい」
私はすぐに答えた。
「大軍が近づけば、その軍隊を支える食料や家畜が必要になります。街道が危険になれば商人も動きにくくなりますし、村や町が戦場に近づけば、人々が逃げることだってあります」
私はそこで一度息をつく。
「つまり、オットマンが西へ進むだけで、戦場から離れている人たちまで巻き込まれるんです」
フェルディナント大公は黙ったまま地図を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「……フランケとの戦争とは、影響の広がり方が違うということですね」
「そうです」
私は頷いた。
「今の私たちからすれば、オットマンは遠くにいるように感じるかもしれません。でも、時間が経てば、その距離は確実に縮まってきます」
ガッティナーラが地図の東側へ視線を落とし、指先で顎を撫でた。
「だから、今のうちに備えなければならない、と」
「はい」
私は強く頷いた。
「フランケとの戦いが終わってから考え始めたのでは、間に合わないかもしれません。むしろ、フランケとの戦いに集中している今だからこそ、その裏側で少しずつ準備しておく必要があると思うんです」
フェルディナント大公は腕を組んだまま、しばらく考えていた。
「今の戦争を戦いながら、次の戦争への備えも進める……」
彼はそう呟き、ゆっくりと顔を上げた。
「簡単ではありませんね」
「はい」
私は頷いた。
「だからこそ、可能な限りオットマン帝国が西へ進めないようにしておきたいんです」
私は帝都の位置へ指を戻し、今度は少し強い口調で続けた。
「私が今いるここ、帝都も危なくなりますので」
その言葉に、三人の表情が変わった。
フェルディナント大公は一瞬だけ目を見開き、それから帝都を示す私の指先へ視線を落とす。
マルク伯も黙り込み、先ほどまでとは違う緊張した表情で地図を見つめていた。
「……なるほど」
フェルディナント大公が低く呟く。
「あなた自身も、この帝都にいる以上、他人事ではないというわけですね」
「はい」
私は頷いた。
「だから、できれば戦いが始まってから慌てて備えるのではなく、その前に少しでもオットマンの進軍を止めるための準備をしておきたいんです」
ガッティナーラが静かに口を開いた。
「つまり、帝都を守る最後の戦いだけを考えるのではなく、そこまでオットマンを近づけないことも重要だと」
「そうです」
私はすぐに答えた。
「帝都まで来てしまえば、それだけ被害が大きくなります。だから、その前の段階でできることを増やしておきたいんです」
マルク伯は地図を見ながら、ゆっくりと頷いた。
「それなら、ハンガリーの状況を注視する必要もありますな」
「はい」
私は頷いた。
「ハンガリーがどうなるかで、帝都までの距離が大きく変わってしまうと思います」
フェルディナント大公は地図の上へ手を置き、東から帝都へ向かう経路をじっと眺めた。
「……確かに、帝都に近づかせないための準備なら、軍事だけではなく外交も必要になるでしょう」
「そう思います」
私はロードス、ハンガリー、帝都、さらに東側へと順番に視線を動かした。
「ロードスへの支援も、エジプトへの働きかけも、サファヴィー朝への使者も、全部ばらばらの話じゃないんです」
「全部、オットマンの西進を鈍らせるためですか?」
ガッティナーラが確認するように尋ねる。
「はい」
私は頷いた。
「もちろん、全部がうまくいくとは限りません。でも、オットマンが一つの方向だけを見ていられないようにすることはできます」
私は地図を見つめながら、言葉を続ける。
「それに、こちらが直接戦うだけじゃなく、物資を運んだり、相手に別の場所を警戒させたりするだけでも意味があります。オットマンが別の場所へ兵を動かせば、それだけ西へ向けられる兵力が減るかもしれません」
フェルディナント大公は静かに頷いた。
「兵士を倒すことだけが、敵を止める方法ではないということですね」
「はい」
私は頷いた。
「時間を使わせることも、兵力を分散させることも、こちらが準備する時間を稼ぐことも大切だと思います」
そこで私は少しだけ言葉を切った。
「ただ、すでに細かいところでは、私が知っている歴史とは違うことが起きています」
私は三人の顔を見ながら、慎重に続けた。
「私がこちらへ来てから、もういくつも変わっています。私自身が関わったことで変わったこともありますし、私が知らないところでも変化しているかもしれません」
私は少し苦笑した。
「だから、四年後にハンガリー王が戦死することも、七年後に帝都が包囲されることも、必ず起こるとは思っていません」
フェルディナント大公が静かに問いかけた。
「それでも、備えるのですか?」
「はい」
私は迷わず頷いた。
「未来を知っているから、その未来を必ず実現させようというわけじゃありません。もし私の知っている歴史に近いことが起きたとしても困らないようにしておきたいんです」
私はそこで一度言葉を切った。
「それに、もし未来が違ったとしても、保存食や港の整備、海上輸送が無駄になるわけではありません」
フェルディナント大公の表情がわずかに和らいだ。
「なるほど。どちらの未来になったとしても使える備えを優先するわけですね」
「はい」
私は頷いた。
「そのほうが私も安心できます」
ガッティナーラは腕を組み、しばらく黙って考え込んでいた。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「これは皇帝陛下のお耳にも入れておく必要があるでしょう」
マルク伯が驚いたように顔を上げる。
「皇帝陛下に?」
「ええ」
ガッティナーラは真剣な表情で頷いた。
「四年後のハンガリー王の戦死と、その三年後に帝都が包囲されるという話が、迷い鳥殿が知っている歴史に基づくものなら、皇帝陛下が知っておくべき情報です」
私は少し不安そうにガッティナーラを見る。
「でも、私の知っている歴史が絶対に正しいわけではありませんよ?」
「それも合わせて報告すればよいのです」
ガッティナーラは穏やかに答えた。
「必ず起こる未来ではなく、起こる可能性がある未来として扱えばいい」
フェルディナント大公も静かに頷く。
「私も同意します。皇帝陛下には知らせておいたほうがいいでしょう」
そう言って、大公は地図へ視線を落とした。
「ただ、今すぐ大規模な軍備を始めるべきだという報告にする必要はありません。まずは食料備蓄、港湾、輸送能力、そして東方の情勢について調査を進める。そのうえで必要なものを判断すればいい」
「はい」
私はほっとしたように頷いた。
マルク伯はしばらく地図を見つめていたが、やがて腕を組んだまま、疲れたように息を吐いた。
「……一軍を預かる者としては、無視できませんね」
そう言ってから、彼は私へ視線を向け、少し苦笑する。
「まあ、あまり仕事が増えるのは好ましくはありませんが」
「そうですよね」
私が申し訳なさそうに笑うと、マルク伯は肩をすくめた。
「今でも十分忙しいのですからな。フランケとの戦いだけでも、兵の手配や物資の確保、各地への連絡など、やることはいくらでもあります」
彼はそこで一度言葉を切り、地図の上へ視線を戻した。
「そこへオットマンへの備えまで加わるとなれば、正直なところ頭が痛くなります」
「でも……」
私は少しだけ迷いながら、マルク伯へ顔を向けた。
「実際に帝都が包囲されてしまったら、忙しさは今の比ではないと思いますよ」
そう言うと、私は苦笑しながらも、冗談ではないことが伝わるように真剣な目で彼を見つめた。
「今のうちに少し仕事が増えるのと、何も準備しないまま本当に大軍が帝都まで来てしまうのとでは、どちらが大変かは分かりやすいと思います」
マルク伯は一瞬だけ言葉を失い、それから目を伏せた。
やがて深々と息を吐き、地図へ視線を戻す。
「……それを言われると、反論できませんな」
その表情には疲労が浮かんでいたが、同時に、軍を預かる者として腹を決めたような雰囲気もあった。
「分かりました。少なくとも、調べるだけ調べておきましょう」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、マルク伯は苦笑しながら手を振った。
「礼を言われるようなことではありませんよ。帝都まで攻め込まれる可能性があるのなら、備えるのは当然です」
フェルディナント大公も、そのやり取りを見ながら穏やかに頷いた。
「その通りです。今のうちに備えられるものがあるなら、備えておくべきでしょう」
ガッティナーラも静かに同意する。
「皇帝陛下にも、この話は必ずお伝えします」
私は三人の顔を順番に見た。
四年後にハンガリー王が戦死するのか。
その三年後に、本当に帝都が包囲されるのか。
それは私にも分からない。
すでに細かな部分では、私が知っている歴史とは違うことが起きている。
だからこそ、未来を決めつけることはできない。
それでも、もし私が知っている未来が近づいてくるのなら、何も準備していないよりは、今から備えておいたほうがいい。
そして、たとえ歴史が大きく変わったとしても、食料を蓄え、物資を運び、港や船を整えることが無駄になるとは限らない。
そう考えながら、私は改めて帝都の位置へ視線を向けた。
「……でしたら、帝都周辺だけじゃなく、帝国各地の食料備蓄についても考えてみませんか?」
私がそう言うと、マルク伯は一瞬だけ目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げた。
「迷い鳥殿……」
「はい?」
「まだ話を続けるおつもりですか?」
呆れたような声音ではあったが、その口元には苦笑が浮かんでいる。
「……はい」
私が小さく頷くと、マルク伯は深々とため息を吐いた。
「では、聞きましょう」
フェルディナント大公とガッティナーラも、改めて地図へ視線を落とす。
それからしばらくの間、私たちは帝国各地の食料備蓄、物資の輸送、港湾の整備、そして東方の情勢について話し合った。
保存食の確保だけではなく、平時から各地へ物資を運べる体制を整えておくこと。
オットマン帝国の西進に備え、ハンガリーやロードス、エジプト、さらにはサファヴィー朝との関係も考えておくこと。
そして、たとえ私が知っている未来とは違う歴史になったとしても無駄にならない備えを優先すること。
話が一通りまとまったところで、ガッティナーラが椅子から立ち上がり、三人の顔を順番に見回した。
「では、これらの話をまとめて、皇帝陛下にお伝えしましょう」
その言葉に、私は少し驚いて顔を上げる。
「私もですか?」
するとガッティナーラは、穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「もちろんです、迷い鳥殿も一緒に。今回の話の中心にいたのは、あなたなのですから」
フェルディナント大公も静かに同意した。
「私もそのほうがよいと思います。あなた自身から説明したほうが、皇帝陛下にも意図が伝わりやすいでしょう」
マルク伯は少し疲れたように肩をすくめる。
「そういうことですな。これだけ話を広げたのですから、最後まで責任を持って説明していただきましょう」
「……分かりました」
私は苦笑しながら頷いた。
四年後にハンガリー王が戦死するのか。
その三年後に、本当に帝都が包囲されるのか。
それは私にも分からない。
けれど、もしその未来が近づいてくるのなら、今からできることを少しでも増やしておくべきだ。
そして、たとえ未来が大きく変わったとしても、食料を蓄え、物資を運び、港や船を整えることが無駄になるとは限らない。
私はそんなことを考えながら、これから皇帝陛下へ自分の知っている未来をどう説明するべきか、静かに考え始めていた。
こうして私たちは、四年後のハンガリー情勢と、その三年後に起こるかもしれない帝都包囲を一つの可能性として念頭に置きながら、それが起きても起きなくても役立つ備えについて話をまとめ、私自身も同行して皇帝陛下へ直接報告することになったのだった。




