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農業大学生、異世界で皇帝に呼ばれる――「迷い鳥」は国を変える  作者: 水源


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実際の戦場への輸送

 翌日から、私は今までとは少し違う仕事を始めた。


 農業試験の帳面を開き、これまで自分で判断していた項目を一つずつ洗い出していく。どの村で何を試すのか、収穫量をどう記録するのか、失敗した場合には何を確認するのか。水路についても同じように、現地から上がってきた報告を誰が確認し、どこまでなら担当者の判断で進めていいのかを書き出していった。


 最初は、それほど難しい仕事ではないと思っていた。


 だが、実際に書き始めてみると、思っていた以上にすぐ筆が止まった。


「……これ、全部私の頭の中に入っていたんですね」


 机の向かいで帳面を覗き込んでいたフェルディナントが、苦笑しながら頷いた。


「だから陛下が心配していたのでしょう」


「そうみたいですね」


 私は筆を置き、積み上がった帳面へ目を向ける。農業、水路、食料の保存、輸送、そして各地から送られてくる試験結果。それぞれの仕事そのものより厄介なのは、その仕事と仕事の間にある判断だった。


 この村で麦が不作だった場合、単純に「失敗」と記録すればいいわけではない。種の問題なのか、土の問題なのか、雨が少なかったのか、それとも播種の時期が悪かったのか。それによって、次にやるべきことは変わってくる。


 水路も同じだった。水が足りないからといって、ただ水路を広げればいいわけではない。上流の水量そのものが少なければ別の場所から水を引く必要があるし、逆に下流へ流れる水が減れば、別の村との争いになる可能性もある。


「……これを全部、私が見ていたわけですか」


「見ていましたね」


「よくやってましたね、私」


「自分で言いますか、それ」


 フェルディナントが笑ったので、私もつられて少しだけ笑った。だが、その表情はすぐに消える。


「でも、これは駄目ですね」


「何がです?」


「私が分からなくなったら、誰にも判断できない」


 フェルディナントの顔から笑みが消えた。


「だから、決めていきましょう」


「何を?」


「どこまでなら担当者が自分で決めていいのかです」


 私は新しい紙を引き寄せ、その中央へ線を引いた。


「全部を私に聞かなくてもいいようにする」


「それは……かなり大きな仕事になりますよ」


「でしょうね」


 私は苦笑しながら頷いた。


「でも、第五回実地試験で分かったことと同じです」


 フェルディナントも、その意味を理解したように頷く。


「一つに集中させすぎれば、そこが止まったとき全部が止まる」


「はい」


「なら、私の仕事も同じです」


 私は紙へ項目を書きながら、続けた。


「私がいなくても回る部分と、どうしても私が判断しなければならない部分を分けます」


「そして、いずれは」


 フェルディナントが私の書いている紙を見ながら、静かに続けた。


「その『どうしても迷い鳥様が判断しなければならない部分』も減らす」


「……そうですね」


 それが本当の意味での引き継ぎなのだろう。


 自分の仕事を誰かに押しつけることではない。自分がいなくなっても、仕組みそのものが動くようにすることだ。


     ◇


 その日の午後。


 私は農業担当者、水路担当者、記録係、それに数人の若い役人を集めた。皆、机の上に並べられた帳面を前にして、何が始まるのかと少し緊張した様子でこちらを見ている。


「今日から、少しやり方を変えます」


 私がそう言うと、皆が顔を上げた。


「これまで、判断に迷ったことがあれば私のところへ来てもらっていました」


 何人かが頷く。


「これを減らします」


 途端に、何人かが不安そうな顔をした。


「仕事を減らすという意味ではありません。逆です。皆さんに判断してもらう範囲を増やします」


「私たちが、ですか?」


 一人の役人が戸惑ったように尋ねた。


「はい」


 私は頷いた。


「もちろん、いきなり全部を任せるつもりはありません。まずは、今まで私が判断していたことを全部書き出します。その上で、これは担当者が決めていい、これは上司の確認が必要、これは私まで報告する、と分けます」


「ですが……」


 別の役人が遠慮がちに口を挟んだ。


「間違えた場合は?」


「間違えてください」


「……はい?」


 思わず全員の顔が固まった。


「もちろん、取り返しのつかない間違いは困ります。でも、何でも私に確認してから動く仕組みにしていたら、私がいなくなった瞬間に何もできなくなります」


 私は少し考えてから、できるだけ伝わりやすいように言葉を選んだ。


「私も、最初から全部正しく判断できたわけではありません」


 そう言って、私は帳面へ手を置いた。


「だったら、皆さんにも判断する経験が必要です」


 しばらく誰も口を開かなかった。


 だが、先ほどまでの不安そうな顔とは少し違うものが浮かび始めている。


「……分かりました」


 最初に答えたのは、若い記録係だった。


「やってみます」


「お願いします」


 私は頷いた。


 その姿を見ながら、これまで自分が何をしていたのかが、少しずつ分かってきた。


 私は新しい方法を作っていたつもりだった。


 だが実際には、新しい方法を自分一人で抱えていたのだ。


 それでは、帝国の仕組みにはならない。


     ◇


 数日後。


 第五回実地試験の続きの記録が届いた。


 六〇人編成の行軍速度、荷車の数、馬の消耗、食料の消費量、水の必要量、そして道幅による渋滞について、細かな数字が並んでいる。私はそれを一枚ずつ確認していった。


「……面白いですね」


 フェルディナントが隣から覗き込んだ。


「何がです?」


「人員を増やしたことで、戦闘以外の部分では確かに余裕が出ています」


「ええ」


「ですが、移動速度は落ちる」


「はい」


「そして移動速度が落ちれば、必要な食料も増える」


 私は頷いた。


「一日余計にかかれば、その一日分の食料と水が必要になりますからね」


「つまり、輸送能力を増やした結果、輸送するものそのものが増えている」


「そういうことです」


 私は数字を見ながら考えた。


 兵站は、単純な足し算ではない。


 兵を増やせば物資が増え、物資が増えれば輸送手段が必要になる。輸送手段を増やせば、今度はその維持に必要なものまで増えていく。どこか一つを増やしただけでも、その増加分が別の場所へ波及してしまう。


「……やっぱり、組み合わせですね」


「ええ」


「一番多く持っていくことではない」


 私は帳面へ書き込んだ。


「必要なものを、必要な量だけ、必要な場所へ届ける」


 フェルディナントが頷く。


「そして、それを可能にする人数と馬と荷車を選ぶ」


「はい」


 私はふと、今回の試験で長く伸びた車列を思い出した。


「……ただ」


「はい?」


「荷車を増やすよりは、トロスを増やしたほうが確実かもしれません」


 フェルディナントが、少し意外そうな顔をする。


「トロスを?」


「荷車は増やせば、その分だけ道幅を使います。車輪が詰まれば、後ろの荷車まで止まりますし、馬も必要になる。それなら、ある程度までは人手を増やして、人力で運んだほうが融通が利くんじゃないかと思うんです。それに荷車ですと、結局は馬匹も増えますからね」


 私は帳面の余白へ、さらに書き込んでいった。


「もちろん、人間だけで運べる量には限界があります。重い物や大量の物資まで全部トロスに任せるつもりはありません」


「ですが、荷車と馬を増やすほどではない量なら」


「ええ。道幅や地形によっては、そのほうが部隊全体としては動きやすい」


「つまり、荷車を増やす前に、まずトロスを増やす選択肢がある」


「そういうことです」


 フェルディナントは記録を見ながら考え込んだ。


「そうなると、トロス一人が一日にどれだけ運べるかも測ったほうがいいですね」


「はい。それに、荷車一台が運べる量との比較も必要です」


 私は新しい欄を作り、そこへ項目を書き込んでいく。


 ――人力輸送。


 ――荷車輸送。


 ――必要人数。


 ――必要馬数。


 ――道路条件。


「……比較できれば」


 私はそこへ数字を入れる未来を思い浮かべた。


「『何でも荷車』ではなく、『この道ならトロス、この道なら荷車』と使い分けられるかもしれません」


「さらに兵站が細かくなりますね」


「ええ」


 だが、その細かさこそが重要なのだろう。


 何かを増やせばいい。そんな単純な話ではない。


 荷車にも向いている場所があり、トロスにも向いている場所がある。馬にも役割があり、人間にも役割がある。


「……結局」


 私は苦笑した。


「兵站って、何を増やすかより、何をどこで使うかを考える仕事なんですね」


「そのようですね」


 フェルディナントも頷いた。


 私はイタリアから届いた報告書を思い出した。


「現地でも、同じ考え方が使えるかもしれません」


 フェルディナントが少し驚いた顔をする。


「行くつもりですか?」


「行くとは言ってませんよ」


「ですが、迷い鳥様の顔は行くと言っています」


「……そんなに分かりやすいですか?」


「分かりやすいです」


 私はため息をついた。


「困りましたね」


「何がです?」


「自分のことが、自分で分かっていないのに」


 私はイタリアの報告書へ視線を落とした。


「周りには全部ばれているみたいです」


     ◇


 その日の夕方。


 私は再び皇帝の執務室へ呼ばれた。


「引き継ぎを始めたそうだな」


「耳が早いですね」


「帝国の中でお前が何か始めれば、すぐに分かる」


「怖いですね」


「褒めている」


「そうですか」


 皇帝は少しだけ口元を緩めた。


「それで?」


「順番に整理しています」


「順調か?」


「思ったより大変です」


 私は正直に答えた。


「私が思っていた以上に、私の判断に依存しています」


「だから言っただろう」


「はい」


 私は少し苦笑する。


「今になって意味が分かりました」


 皇帝は黙って私を見る。


「……それで」


 私は机の上へ一枚の紙を置いた。


「イタリア戦線について、追加の質問をまとめました」


 皇帝の表情が変わる。


「行くつもりか?」


「いいえ」


 私はすぐに答えた。


「少なくとも、今は」


 その言葉を聞いて、皇帝は少しだけ安心したように椅子へ腰を下ろした。


「ならば、何を知りたい?」


「荷車が遅れているという報告がありました」


「そうだ」


「ですが、単純に道が悪いだけなのか、それとも荷車そのものが多すぎるのか分かりません」


「現地へ確認させる」


「お願いします」


 私は質問を書いた紙を指で示した。


「それから、軍馬の一日当たりの飼料消費量。兵一人当たりの食料。荷車一台の積載量。道路の状態。橋の数。そして、補給拠点から前線までの距離」


 皇帝が目を細める。


「かなり細かいな」


「第五回実地試験と比較したいんです」


「なるほど」


「それと、可能なら人力で運んでいる物資の量も調べてください」


 皇帝が眉を上げる。


「人力?」


「荷車を増やすより、トロスを増やしたほうがいい場所があるかもしれません」


「……そこまで考えたのか」


「第五回実地試験で気づきました」


 私は苦笑する。


「荷車を増やせばいいと思っていたんですが、増やしすぎると今度は車列そのものが問題になります」


 皇帝は地図へ目を落とした。


「なるほどな」


「だから、イタリアでも場所によっては、荷車より人力輸送のほうがいい可能性があります」


「確かに調べる価値はある」


「はい」


 私はそこで少し言葉を止めた。


「ただ、数字だけでは分からないこともあります」


 皇帝が私を見る。


「現地を見たいのだな」


「……はい」


「だが、行かせない」


「分かっています」


「ならば、現場を見られる人間を作れ」


 私は顔を上げた。


「……」


「お前が行けないなら、誰かを行かせればいい」


 皇帝は淡々と続ける。


「兵站の担当者でもいい。役人でもいい。将軍でもいい。必要なら複数人を送れ」


 そして、私が差し出した紙を指で軽く叩いた。


「お前が欲しい情報を、お前の代わりに見てくる人間を育てろ」


 私はしばらく皇帝を見つめた。


 それは、今まで自分がやっていたことの反対だった。


 自分が行って見る。自分が考える。自分が判断する。


 その代わりに、人を行かせる。人に見せる。人に判断させる。


「……なるほど」


 私は小さく呟いた。


「これも、兵站と同じですね」


「またそれか」


 皇帝が呆れたように言う。


「人を増やせばいいわけではない」


 私は笑った。


「人を育てて、役割を持たせて、必要な場所へ動かす」


 そして、その仕組みそのものが、自分がいなくても動くようにする。


「……分かりました」


 私は紙を回収した。


「まず、候補者を選びます」


「頼む」


「ただし」


 私は立ち上がりながら、皇帝を見る。


「いつかは、私自身が現場を見る必要もあると思います」


 皇帝は少しだけ眉を寄せた。


「その話は、そのときにしよう」


「はい」


 今は、それで十分だった。


 私は執務室を出る。

 廊下を歩きながら、ふと足を止めた。

 窓の外を見る。


 帝都の街並み。その向こうに帝国の各地があり、さらに遠くにはイタリアがある。

 私は今まで、遠くへ行くことが問題だと思っていた。

 だが、本当の問題は、自分が行かなければ何も分からないという状態だったのかもしれない。


「……なら」


 私は小さく呟いた。


「行かなくても分かるようにするしかないですね」


 そして、それこそが、今の私にできる最初の兵站改革なのかもしれなかった。

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