美味しい料理だけでは、貧しい人たちを救えない
さて。
色々と考えてはみたものの、やはり一度、実際に貧しい人たちの生活を見てみる必要がある。
どんな家に住んでいるのか。
どんな調理器具を使っているのか。
普段、何を食べているのか。
そして――。
私が考えた料理を、本当にその人たちが作れるのか。
そこを確認しなければ、机の上でいくら考えても意味がない。
そこで私は、ヨハン様に相談してみることにした。
「ヨハン様」
「はい。何でしょうか?」
「農民の方々が、どのような家に住んでいて、どのように調理をしているのか、実際に見てみたいのですが、可能でしょうか?」
「……実際に、ですか?」
「はい」
私は少し言葉を選んで続ける。
「できれば、以前、私が人形を買った女の子のお父さんの様子も見てみたいのですが」
私の言葉に、ヨハン様はしばらく考え込んだ。
やがて、ため息を一つ。
「本来であれば、王族に等しい身分の迷い鳥様に、そのようなことをしていただく必要はないのですが……」
「はい」
「それがユーリ様にとって必要なことであるならば、構いません」
「本当ですか?」
「ただし――」
ヨハン様は私の服装を見る。
「今のままでは目立ちすぎます」
「あ……」
確かに。
この格好で農村を歩けば、どう考えても浮いてしまう。
「農民の中に混じっても不自然ではない服を用意させましょう」
「あ、それはすごく助かります」
そして用意された服を見て、私は思わず感心した。
地味な色合いの、ほっそりとした長袖のワンピース。
その上に、胴体を覆うボディスを身につける。
前を紐で結ぶタイプのもので、いかにも庶民の女性が着ていそうな服装だ。
さらに頭には頭巾。
その上からスカーフを被れば、髪もほとんど見えない。
顔も隠れるので、これなら私だと気づかれる可能性も低そうだ。
もちろん、窮屈なコルセットはしていない。
「普段からこの格好でいたほうが楽なのですけどね」
私がそう言うと、ヨハン様は苦笑した。
「流石に、それはまずいです」
「ですよね」
そんなやり取りをしながら準備を整えた。
護衛の人たちも、今回はできるだけ目立たない格好をしている。
もっとも、完全に護衛をなくすわけにはいかない。
私に何かあれば大問題なのだから。
結局のところ――。
私は「庶民に紛れたつもりの貴族」という、なんとも中途半端な立場になってしまった。
そして私たちは、地味な馬車でバーデン・バイ・ヴィーナーへ向かった。
馬車を降りてからは徒歩。
しばらく歩くと、一軒の小さな家が見えてきた。
木造。
藁葺き。
決して大きくはない。
そして、その家の前には――。
「あ!」
見覚えのある女の子が立っていた。
以前、私がトウモロコシの皮で作った人形を買った、あの子だ。
女の子はこちらを見上げる。
「おねえちゃん、だれ?」
「あー……」
やっぱり、この格好では分からないか。
私はスカーフを少しずらし、顔を見せた。
「以前、あなたから人形を買ったことがあるのですが」
「……?」
女の子が首を傾げる。
そして――。
「あっ!」
ぱっと顔が明るくなった。
「ピカピカなお姉ちゃん!」
「……そうですね」
私は微妙な笑顔を浮かべた。
どうやら、この子の中では私は「ピカピカなお姉ちゃん」という名前らしい。
……まあ、覚えていてくれただけでもよしとしよう。
「じゃあ、お家の中を案内するよー!」
「よろしくお願いします」
女の子の後について、私は家の中へ入った。
「まあ……」
そこには、以前会ったことのある女の人がいた。
女の子のお母さんだ。
「あなたは……」
女性が私を見る。
最初は首を傾げていたが、私がスカーフを少しずらすと、その目が大きく開いた。
「もしかして……あのときのお方ですか?」
「はい。お久しぶりです」
「まあ……!」
女性が慌てて頭を下げる。
「以前は娘の人形を買っていただいて、本当にありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ、素敵な人形を見せてもらえて嬉しかったです」
前に会ったときも感じたことだが、この人はとても丁寧な人だ。
ただ――。
以前よりも、その顔に疲れが見える。
手も荒れている。
指先には細かな傷がいくつもある。
毎日の水汲み。
薪集め。
料理。
洗濯。
子供の世話。
そして畑仕事。
農家の女性は家の中で家事をしているだけではない。
家事そのものが重労働なのだ。
「今日は、こちらで少し暮らしを見せていただければと思っているんです」
「もちろんです」
女性は頷いた。
「こんな家でよければ、どうぞ見ていってください」
「ありがとうございます」
私は家の中を見回した。
建物は木造の簡素な造り。
壁には漆喰が塗られている。
窓には木製の戸が取り付けられていて、悪天候のときには閉めるようになっている。
家の中は、大きく分ければ居間と寝る場所。
農家としてはかなり小さい。
現代日本の感覚なら、風呂も便所もない、とても小さな一DKといったところだろうか。
もちろん、農具をしまう納屋や家畜を飼う小屋などは別にある。
けれど、この家そのものは本当に必要最低限だった。
「……なるほど」
私は居間の中央へ目を向ける。
そこには石を組んだ簡素な炉があった。
鍋を掛けるための道具も用意されている。
煙を外へ逃がすための簡単な煙道もあるようだ。
それでも、部屋の壁や天井には煤が残っている。
「毎日ここで料理をしているんですね」
「はい」
女性が頷く。
調理道具も見せてもらう。
土鍋。
銅製の大鍋。
木製のボウルや匙。
水を運ぶための桶や水差し。
そして食材を切るための小刀。
どれも使い込まれている。
何もないわけではない。
生活に必要な最低限の道具は揃っている。
けれど――。
「焼くための道具が、ほとんどない……」
私は呟いた。
鍋があるから、煮ることはできる。
炉があるから、火にかざして炙ることもできる。
けれど、パンや薄い生地を均一に焼いたり、食材を焼き付けたりするための専用の道具は乏しい。
もっとも、これはこの時代の農村では珍しいことではないのだろう。
問題は、料理ができないことではない。
**料理の選択肢が少ないことだ。**
「それに、保存も大切ですね」
私は屋根裏を見上げた。
「屋根裏にも食料を置いているんですか?」
「はい。できるだけ長く保存できるものは、あちらに置いています」
女の子が元気に答える。
「見せてくれる?」
「もちろんです」
女の子に案内されて屋根裏へ上がる。
そこには穀物の袋や乾燥させた豆、玉ねぎなどが置かれていた。
保存できるものは、できるだけ長く保存する。
当たり前のことなのだろう。
けれど、私はそこで改めて気づいた。
この時代の農家にとって、食料の保存は生きるための重要な問題なのだ。
収穫したからといって、一年中食べられるわけではない。
腐るものもある。
虫に食われるものもある。
湿気れば傷むものもある。
だからこそ――。
「乾燥も重要ですね」
「乾燥?」
ヨハン様が聞き返す。
「はい。水分を減らせば、保存しやすくなる食材があります」
私は保存されている豆や野菜を見る。
「野菜や果物なども、適切な方法で乾燥させれば、長く保存できるものがあります」
「なるほど……」
ヨハン様が頷く。
もちろん、何でも乾燥させればいいわけではない。
雨に濡らしてはいけない。
虫も防がなければならない。
カビも怖い。
それでも――。
保存方法を改善する余地は大きい。
そのときだった。
「ただいま」
家の外から男性の声が聞こえた。
「あ、お父さん!」
女の子が階段を駆け下りていく。
私も後に続いた。
入ってきた男性を見て、私は思わず息を呑んだ。
この人が、この子のお父さんだ。
初めて直接会う。
服には土がついている。
靴も泥だらけ。
顔は日焼けし、手は厚くなっている。
そして、かなり疲れているのが分かる。
「お疲れさま」
妻が声をかける。
「ああ」
男性は短く答えると、壁に背を預けた。
そのまま大きく息を吐く。
「今日はどうだったの?」
「畑のほうは何とか。だが、雨が少ない」
「そう……」
夫婦の会話は短い。
それだけで、毎日の生活がどれほど厳しいのかが伝わってくる。
それでも、娘の姿を見ると男性の表情が少しだけ緩んだ。
「お父さん、お料理できたよ!」
女の子が嬉しそうに言う。
「料理?」
「うん! ピカピカのお姉ちゃんが作ってくれるの!」
「……ピカピカのお姉ちゃん?」
父親が私を見る。
「以前、人形を買っていただいた方ですよ」
妻が説明する。
「ああ……」
父親は少し驚いた顔をした。
「あなたが……」
「はい。今日は突然お邪魔してしまってすみません」
「いや。娘がお世話になったそうで」
男性は頭を下げた。
私は慌てて首を振る。
「こちらこそ、今日は色々と見せていただいてありがとうございます」
そのやり取りをしている間にも、女の子は楽しそうに準備をしている。
私は改めて家の中を見回した。
材料がない。
わけではない。
道具がない。
わけでもない。
正確には――。
**十分な種類の材料と、十分な種類の調理器具がない。**
だから料理の選択肢が少ない。
そして、せっかく収穫した食材も、保存できる量には限界がある。
「……やっぱり、これですね」
私は持ってきてもらった荷物を見る。
中には、以前から試作している道具が入っている。
粘土を成形して焼き上げた――。
テラコッタコマル。
これはすでに完成している。
宮廷厨房では何度も試してきた。
しかし――。
**実際の農民の家で使ったことは、まだない。**
「これを使ってみましょう」
私は焼き板を炉の上に置いた。
しばらくすると、じわじわと熱が伝わってくる。
そして、トウモロコシのトルティーヤをひっくり返すためのスパーテルも取り出した。
「あ、そうだ」
私は女の子に尋ねる。
「粉にしてあるトルコ小麦はありますか?」
「うん。あるよ!」
「チーズもありますか?」
「ある!」
「それなら――」
私は笑った。
「ちょっと、お料理を作ってみましょう」
「うん!」
女の子は嬉しそうに頷いた。
そして屋根裏へ駆けていく。
しばらくして、女の子が粉とチーズを抱えて戻ってきた。
私はそれを受け取り、木製のボウルへ入れる。
コーンフラワー。
塩。
バター。
そして水。
よく混ぜ合わせて生地を作る。
それを薄く丸く伸ばし――。
熱くなったテラコッタコマルの上へ。
じゅっ。
表面が乾いてきたところで、スパーテルを差し込む。
「よいしょ」
くるり。
裏返す。
さらに焼く。
そして、用意してきたハムとチーズを乗せて包み込む。
ハムは、この家に常備されていたものではない。
今回の試食のため、私が持ってきたものだ。
「はい。完成です」
「わあ……!」
女の子の目が輝いた。
「これ、なに?」
「ブリトーです」
「ぶりとー?」
「そうです。熱いので気をつけてくださいね」
「うん!」
女の子が両手で受け取る。
そして――。
「いただきます!」
がぶっ。
一口。
二口。
そして。
「おいしー!」
満面の笑顔。
「お父さんも食べて!」
「俺も?」
「うん!」
女の子が父親に差し出す。
父親は少し戸惑いながら受け取った。
「……いただくか」
一口。
しばらく無言で噛んでいる。
やがて――。
「……うまいな」
「本当ですか?」
「ああ」
父親が頷く。
「こういう食べ方もあるんだな」
その隣で、母親も焼き板を興味深そうに見つめている。
「これがあれば、家でも作れるんですか?」
「はい」
私は頷いた。
「特別な設備は必要ありません。炉と、この焼き板があればできます」
「それなら……」
母親が焼き板を見つめる。
その横で、父親がもう一度ブリトーを見る。
「ただ――」
「はい?」
「このハムは……いつでも食べられるものじゃないぞ」
「あ……」
私は言葉に詰まった。
そうだった。
私は「美味しく食べられる料理」を作ることに意識が向きすぎていた。
ここに持ってきたハムもチーズもバターも、すべて私が用意したものだ。
この家にある食材だけで作った料理ではない。
「……そうですよね」
私は改めて、屋根裏にあった食材を思い浮かべる。
穀物。
豆。
野菜。
そして、保存してあるわずかな食料。
「私が考えなければいけないのは、宮廷で美味しい料理を作ることじゃない」
私は小さく呟いた。
「この家で、普段手に入る材料を使って作れる料理……ですね」
父親が頷く。
「そういうものなら、俺たちにもありがたい」
母親も静かに頷いた。
「特別な日ならともかく、毎日の食事に高いものは使えませんから」
「……はい」
胸に刺さった。
料理を美味しくする。
それだけでは足りない。
**安く作れること。**
**手に入る材料で作れること。**
**簡単に作れること。**
そして――。
**毎日の食卓で繰り返し作れること。**
そこまで考えて、初めて「農民のための料理」になる。
「……勉強になりました」
私は頭を下げた。
父親は少し驚いた顔をした。
「いや、そんな……」
「いいえ」
私は笑う。
「今日ここへ来て、本当によかったです」
私は焼き板を見る。
そして、屋根裏にある食材を見る。
作物を増やす。
保存方法を改善する。
調理器具を普及させる。
そして、手に入る食材だけで美味しく料理できる方法を考える。
全部必要なのだ。
「まずは、この焼き板を安く作れるようにすることですね」
私は決意する。
そして次に――。
**農民が普段食べている材料だけで作れる料理を考えよう。**
それが、今日この家族から教えてもらった一番大切なことだった。




