「食べられる」と「食べたい」は違う
さて。
私は、この国の食糧事情を改善するために、いろいろなことを考えている。
その中でも重要なのが――新大陸から伝わってきた農作物の普及だ。
トウモロコシ。
ジャガイモ。
サツマイモ。
カボチャ。
トマト。
唐辛子。
ピーナッツ。
ひまわり。
そして、インゲン豆やライ豆。
どれも、この世界の食糧事情を大きく変える可能性を秘めている。
問題は。
――人間という生き物は、そう簡単には新しい食べ物を受け入れてくれないことだ。
「食べられる」
ということと、
「食べたい」
ということは、まったく別問題なのである。
これは前世の世界でも同じだった。
二十世紀後半には、クロレラ、スピルリナ、ユーグレナといった微細藻類が、未来のタンパク源として注目された。
栄養価が高く、培養によって生産できる。
土地も家畜ほど必要としない。
食糧問題の切り札になる――。
そんな期待までされていた。
もちろん、実際には光過敏症などの問題もあった。
だが。
もっと単純な問題もあった。
――美味しくない。
結局、人間はそこを無視できない。
「栄養がありますよ」
「環境にも優しいですよ」
「将来の食糧問題を解決できますよ」
そう言われても、
「でも、美味しくないんでしょう?」
となれば、普及は難しい。
そして二十一世紀になると、今度は別の食材が注目された。
高タンパク。
低環境負荷。
少ない飼料と土地で生産できる。
未来の食料として期待されたもの。
――昆虫食である。
代表的なのがコオロギだ。
食用として養殖されたものなら、味そのものは決して酷くないらしい。
淡白な味で、エビやナッツ類に似た風味を持つものもある。
揚げれば、小エビのような食感になるものもあるという。
つまり。
「食べられないほど不味い」というわけではない。
それでも普及には大きな壁があった。
――見た目とイメージである。
「コオロギを食べてください」
そう言われた瞬間。
人によっては、
「いや、それはちょっと……」
となる。
私だってそうだ。
食用として安全に飼育されたものなら、理屈の上では問題ない。
エビやカニだって同じ節足動物だ。
それでも。
目の前に揚げたコオロギを置かれて、
「どうぞ!」
と言われたら。
私はたぶん、一瞬固まる。
……いや。
かなり固まる。
人間の先入観というものは、それほど強い。
だからこそ、世界には昆虫を普通の食材として利用してきた地域がある。
東アジア。
東南アジア。
メラネシア。
アフリカ。
中南米。
日本だって例外ではない。
海から遠い地域では、イナゴ、蚕、蜂の子、ザザムシなどが食べられてきた。
食文化として定着してしまえば、
「虫だから嫌だ」
とはならない。
普通の食材になる。
逆に言えば。
食文化として定着していない場所では、どれだけ栄養価が高くても、
「いや、それは食べ物じゃないでしょう」
となってしまう。
これは重要なことだ。
なぜなら。
私は今まさに、それと似た問題に直面しているからである。
新大陸からやってきた農作物。
この世界の人々にとって、それまで食料として認識されていなかった作物。
それらを、
「食べられますよ」
と紹介している。
ところが。
人々からすれば、
「……本当に?」
となる。
そして、その中でも私は特に苦戦するだろうと思っていた作物がある。
――ジャガイモだ。
それ自体は杞憂に終わったのだが。
なにしろジャガイモは、見た目があまりよろしくない。
土の中から掘り出される。
形は不揃い。
表面には土が付いている。
しかも、種ではなく「種芋」を植えて増やす。
現代人の私からすれば当たり前のことだが、この世界の人々からすれば、かなり奇妙に見えるはずだ。
しかも、この世界は前世の中世ヨーロッパに近い文化を持っている。
宗教的な価値観も強い。
聖書には、神が人間に種をつける植物や実のなる木を食料として与えた、という記述がある。
そうした価値観の中では、
「種ではなく、土の中にできる芋を植えて増やす」
というジャガイモは、どうしても異質に映る。
実際、前世のヨーロッパでも、ジャガイモは最初から大歓迎されたわけではない。
見慣れない。
食べ方が分からない。
宗教的な不安もある。
そして何より――。
「……美味しくない」
これが大きい。
生のジャガイモは美味しくない。
茹でただけでも、食べ方を知らなければ感動するほどの味にはならない。
ポテトサラダ。
マッシュポテト。
ジャガイモの冷製スープ。
フライドポテト。
ポテトチップス。
ジャガイモには美味しい料理がいくらでもある。
「……こんなことを考えていたら、食べたくなってしまいましたね」
私は思わず苦笑した。
「フライドポテト……」
……いけない。
今は食事のことを考えている場合ではない。
しかも、この時代の農民たちが普段どんな料理を食べているのかを考えると、なおさらだ。
粥。
スープ。
パン。
野菜の煮込み。
味付けに使うのは塩が中心。
肉が手に入れば、ラードなどを使って旨味を加える。
キャベツなどを脂と一緒に煮込むこともある。
だが、現代日本のように、
「ジャガイモをバターで焼いて、塩を振って……」
なんて料理が普通に存在するわけではない。
ジャガイモを美味しく食べるための料理文化や調理器具そのものがないのだ。
……いや。
調理法そのものなら、まだ方法はある。
ジャガイモを潰して生地に混ぜれば、麺のような料理にすることもできる。
ただ、それも専用の道具や技術が必要になる。
結局のところ、
「ジャガイモは食べられます」
だけでは駄目なのだ。
農民が自分の家で、
「これなら作れるし、美味しく食べられる」
と思える料理でなければならない。
そう考えると、現実世界でジャガイモの普及が遅れた理由も見えてくる。
作物そのものが悪かったわけではない。
――食べ方が知られていなかったのだ。
だから私は、ジャガイモを普及させるなら、単純に、
「たくさん収穫できます!」
と宣伝するだけでは駄目だと思っている。
美味しい料理を一緒に広めなければならない。
そして――。
もう一つ重要なのが、既存の食文化との相性だ。
例えば、この地域で栽培を進めているトウモロコシ。
こちらは比較的扱いやすい。
粉にして焼けば、パンに近い形で食べられる。
あるいは生地にして焼けば、トルティーヤのような料理にもできる。
ただし、これにも問題がある。
トウモロコシだけを主食にしてしまえば、栄養上の問題が起こる。
前世の知識では、特にペラグラが問題になる。
だからこそ、調理法だけでなく、豆類などとの組み合わせも含めて普及させなければならない。
そう考えると。
インゲン豆やライ豆は、かなり扱いやすい。
どちらも新大陸原産の豆だが、ヨーロッパでは比較的早い段階から食材として受け入れられていった。
理由は単純だ。
それまで食べられていた豆類と、用途が近かったからだ。
ソラ豆など、既存の豆を食べる文化がすでに存在している。
ならば、
「新しい豆です」
と言われても、
「豆なら食べられるな」
となる。
調理法だって応用できる。
煮る。
潰す。
スープにする。
既存の料理に加える。
これなら、人々にとって心理的な抵抗は少ない。
つまり――。
新しい作物を普及させるには、ただ、
「美味しいですよ」
「たくさん収穫できますよ」
と説明するだけでは足りない。
人々が、
「これは今まで食べていたものと同じように扱える」
と思えることが重要なのだ。
私は、机の上に並べた作物の資料を眺めた。
トウモロコシ。
ジャガイモ。
インゲン豆。
ライ豆。
サツマイモ。
カボチャ。
どれも素晴らしい作物だ。
けれど。
「未来の食料です!」
などと言っても、人々は食べてくれない。
必要なのは――。
「いつもの料理に使えますよ」
という安心感なのだ。
「……新しいものを、無理に新しいものとして売る必要はないんですよね」
私は一人で呟いた。
むしろ。
今まで食べてきた料理の中に、少しずつ入り込ませればいい。
そうすれば、新しい作物だという意識すら薄れていく。
例えば。
いつものスープにジャガイモを入れる。
いつもの豆料理にインゲン豆を使う。
いつものパンの一部にトウモロコシを混ぜる。
そうして、
「これは新しい食べ物です」
ではなく、
「いつもの料理が少し変わっただけです」
と思ってもらう。
それなら、ずっと受け入れられやすい。
私はペンを手に取った。
そして、新しい項目を書き加える。
『農作物の普及には、栽培方法だけでなく調理法の普及も必要』
さらに、その下にもう一行。
『宮廷料理ではなく、農民の家庭でも作れる料理にすること』
……これが重要だ。
宮廷でしか食べられない料理を作っても意味がない。
どれほど美味しくても、農民が再現できなければ普及しない。
必要なのは、
安い。
簡単。
材料が少ない。
そして――美味しい。
そんな料理だ。
「……まずは料理長と相談ですね」
私はそう呟いた。
トウモロコシ。
インゲン豆。
ライ豆。
ジャガイモ。
サツマイモ。
カボチャ。
頭の中で、それぞれを使った料理を考えていく。
すると。
なんだか少し楽しくなってきた。
農業改革というと、どうしても畑や収穫量の話ばかりになってしまう。
けれど。
最後に人々が向かう場所は、畑ではない。
――食卓だ。
農民が自分の畑で育てた作物を、自分の家で美味しく食べられる。
そして、
「来年もこれを植えよう」
と思ってもらう。
そこまでできて、初めて農業改革は成功したと言えるのだろう。
私は資料をまとめた。
「よし」
次にやることは決まった。
――農民でも作れる、新大陸作物の料理を考えよう。
農業改革の次なる戦場は。
どうやら、厨房になりそうだった。




