神聖帝国皇帝カールと摂政フェルディナンド
さて。
バーデンで一夜を明かした私は、翌朝には再び豪勢なウプラウトへと着替えさせられていた。
昨日よりも、さらに派手だ。
胸元には、見るからに高価そうな大粒のサファイアを嵌め込んだブローチ。
衣服には、金糸で大きなザクロの花が刺繍されている。
「これは……ザクロの花ですか?」
「おそらくは」
なるほど。
ブドウやイチジクと同じく、ザクロもキリスト教圏では象徴的な意味を持つ植物だったはずだ。
豊穣や生命、多産を象徴する果実。
高貴な女性の衣装や装飾にも使われることがある。
……つまり。
「私、かなり偉い人に会うんですよね?」
「はい」
即答だった。
嫌な予感しかしない。
「では、これより帝都へ向かい、皇帝陛下ならびに大法官閣下に謁見していただきます」
「皇帝……」
思わず背筋が伸びる。
私はただの元会社員だ。
異世界に来て、農業や医学について少し知識があるだけ。
そんな私が、皇帝と会う。
どう考えても普通ではない。
「ただし、今のところ迷い鳥様の存在は可能な限り秘匿しておくご意向です。そのため、正式な謁見室ではなく、私的な部屋にてお会いいただきます」
「それは……助かります」
大勢の貴族が並ぶ謁見室で、
『異世界から来ました』
などと自己紹介する羽目になったら、緊張で死ぬ自信がある。
「もっとも――」
マルク伯が苦笑した。
「相手が皇帝陛下であることに変わりはありませんが」
「ですよね……」
こうして私は、マルク伯に先導され、宮廷の奥へと進んでいった。
やがて、一枚の重厚な扉の前で足が止まる。
マルク伯が姿勢を正した。
「失礼いたします、陛下。マルク伯ヨハンが、迷い鳥様をお連れいたしました」
「良い。入れ」
「はっ」
扉が開く。
私はマルク伯とともに部屋へ入った。
部屋は思っていたより広くない。
壁際には大きな地図が掛けられ、その脇には書類が積まれている。
そして、窓の近くには小さな机。
そこに二人の男がいた。
「陛下。迷い鳥様をお連れいたしました」
「うむ」
若い男性が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
金髪。
青い瞳。
まだ若い。
けれど、その目には年齢に似合わない威厳があった。
私は思わず息を呑む。
――カール五世。
歴史の教科書で見た名前だ。
私がその人物を知っていることなど知らない皇帝は、じっと私を見つめた。
「漆黒の髪に、漆黒の瞳か」
そして、僅かに目を細める。
「確かに、この辺りでは見ないな」
「はい。こちらが坂田遊里様です」
皇帝の傍らに立つ青年が言った。
「私はフェルディナント。ユーリ様、どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私は慌てて頭を下げる。
フェルディナント。
その名前にも聞き覚えがある。
カール五世の弟。
後に皇帝となる人物だ。
しかし――。
目の前にいる二人を見ているうちに、私はあることを確かめたくなった。
歴史の知識と、この世界の現在が一致しているとは限らない。
だから。
「……あの」
「何だ?」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「構わぬ」
私は恐る恐る尋ねた。
「現在は……何年でしょうか?」
「何年、だと?」
「はい」
カール五世が少しだけ怪訝そうな顔をする。
「聖暦で?」
「はい」
すると、フェルディナントが答えた。
「聖暦一五二二年です」
「……一五二二年」
私は思わず呟いた。
やはり。
間違いない。
頭の中に浮かんでいた歴史が、現実と繋がった。
カール五世。
一五二二年。
西暦ではなく聖暦と言われているような気がするけど……。
この時代なら、私は自分が知っている歴史上の出来事をある程度照合できる。
けれど――。
同時に、それは危険なことでもある。
この世界が私の知っている歴史と同じなら。
この先に何が起こるのか、私は知っている。
そして、その知識を口にした瞬間。
歴史は変わるかもしれない。
「どうした?」
カール五世の声で我に返る。
「い、いえ……」
私は慌てて首を振った。
「少し、確認したかっただけです」
「そうか」
皇帝はそれ以上追及しなかった。
助かった。
私は小さく息を吐く。
それから、改めて目の前の二人を見る。
教科書の中の人物ではない。
今、この場所で国家を動かしている人間だ。
「すでにお聞き及びかもしれませんが、ユーリ様は我が国で初めて確認された迷い鳥様です」
フェルディナントが言う。
「迷い鳥とは、異なる世界の知識や技術を持ち、それをもって国に繁栄をもたらす存在――そう伝えられております」
「……」
期待が重い。
「ただ、私はそんな大した知識を持っているわけでは……」
思わず言い訳する。
だが、マルク伯がすかさず口を挟んだ。
「いいえ。ユーリ様は、トルコ小麦を食べることで起こる病について、その原因と治療法を示されたと聞いております」
「あ……」
「それだけでも、十分に価値ある知識でしょう」
「そう言われると……」
確かにそうなのかもしれない。
現代人なら知っているような、ごく簡単な知識。
けれど、それを知らない人たちにとっては、命を救う知識になる。
カール五世が私を見る。
「では、ユーリ」
「はい」
「そなたは、他に何を知っている?」
「え?」
心臓が跳ねた。
「我が国に役立つ知識があるのなら、聞かせてほしい」
「……」
何を答える?
農業。
医学。
衛生。
保存食。
火薬。
印刷。
航海。
いくらでも思いつく。
けれど――。
私は知っている。
ここは、一五二二年だ。
歴史の教科書に載っている時代なのだ。
私の一言が、歴史を変えるかもしれない。
それどころか、下手な知識を与えれば、人を殺すことだってできる。
「……私は」
喉が渇く。
「未来のことを、何でも知っているわけではありません」
これは本当だ。
「私の知識にも間違いがありますし、知らないこともたくさんあります」
カール五世は黙っている。
「ですから……」
私は一度息を吸った。
「今すぐ大きなことをするより、まずはこの国で困っていることから、一つずつ改善するのがいいと思います」
「困っていること?」
「はい」
私は頷いた。
「例えば――食糧です」
フェルディナントが反応した。
「食糧事情を改善できると?」
「私の知識の中では、そのあたりが一番役に立つと思います」
農業なら、私にもできることがある。
少なくとも、輪作や肥料についてなら学校で習った程度の知識がある。
保存や衛生についても、基本的なことなら話せる。
ただし、それがこの土地で本当に使えるかは分からない。
だからこそ――。
まず、現場を見る必要がある。
すると、フェルディナントが机の上に置かれていた一枚の紙を手に取った。
「実は、食糧については我々も頭を抱えております」
「何か問題があるんですか?」
「一つではありません」
フェルディナントが紙を広げる。
そこには、いくつもの数字が並んでいた。
「今年、軍を動かすために必要な穀物の量です」
「軍……」
「イタリアへ送る軍勢だけでも、相当な量になる」
私は思わず紙を見る。
「兵士だけじゃない。馬も食べる。荷車を引く家畜も食べる。さらに、遠征に出れば、食料を後から送らなければならない」
「……」
「ところが、その輸送が安定しない」
フェルディナントが指を滑らせる。
「道が悪い。雨が降ればぬかるむ。橋が落ちる。敵に襲われる。途中で食料が腐る」
私は黙って聞いていた。
「だから軍は、進んだ先で食料を買う。買えなければ徴発する。時には……奪うこともある」
「……それは、農民にとっては」
「そうです」
フェルディナントの表情が険しくなる。
「軍を養うために村が痩せる。村が痩せれば、次の年の収穫も落ちる。そして凶作になれば、都市の食料価格が跳ね上がる」
私は息を呑んだ。
単純に、収穫量を増やせばいいという話ではない。
「しかも兵士への支払いが遅れれば、彼ら自身も食料を買えない」
カール五世が初めて口を挟んだ。
「兵士が飢えれば、戦はできぬ」
その声は低かった。
「戦場では勇気だけでは腹は満たせぬ。槍を持つ兵にも、食わせる麦が必要だ」
「……はい」
皇帝の言葉が、妙に重く響く。
「兵士が飢える」
フェルディナントが続ける。
「すると、兵は民の家から食料を取る。民が食料を隠せば争いになる。村が逃げれば土地も荒れる」
私は思わず眉を寄せた。
悪循環だ。
食糧が不足する。
軍が現地から徴発する。
農民が困窮する。
翌年の生産力が落ちる。
さらに食糧が不足する。
――これでは、国が自分自身を食い潰しているようなものだ。
「ですから」
カール五世が私を見る。
「そなたが食糧を選んだことには、意味がある」
「……」
「国を強くするというのは、城を建てることでも、兵を増やすことでもない」
皇帝は地図へ視線を移した。
「兵も民も、まず食わねばならぬ」
私は黙っていた。
歴史上の大人物。
その人物が今、私に向かって国家の話をしている。
とんでもない場所に来てしまった。
「では、ユーリ様」
フェルディナントが口を開く。
「具体的に、何を改善できるとお考えですか?」
「……」
私は考えた。
収穫量を増やす。
凶作を減らす。
保存期間を延ばす。
運搬しやすくする。
そして――軍と民で食料を奪い合わなくて済むようにする。
「まず」
私はゆっくりと口を開いた。
「実際に、農村を見せてもらえませんか?」
「農村を?」
「はい」
私は頷く。
「今、何が作られているのか。どれくらい収穫できるのか。どこで失われているのか」
「失われている?」
「はい」
私は指を一本立てた。
「畑で取れる量だけを見るのではありません」
「……」
「収穫したあとに腐っていないか。虫に食われていないか。倉庫で傷んでいないか。運ぶ途中で失われていないか」
そして、もう一本。
「さらに、凶作になったとき、どのくらいの期間を耐えられるのか」
フェルディナントがじっと私を見る。
「なるほど」
「作ることだけではなく、保存と輸送まで見たいんです」
私はそこで一度言葉を切る。
「それが分からなければ、どこから手を付ければいいのか分かりません」
カール五世はしばらく黙っていた。
やがて、口元を僅かに上げる。
「面白い」
「え?」
「そなたは、魔法のような奇跡を約束するのではないのだな」
「……そんなこと、私にはできません」
「ならば、なお良い」
皇帝は頷いた。
「分からぬものを分からぬと言い、まず確かめる。為政者にとって、それは悪い態度ではない」
「ありがとうございます」
「では、見せよう」
カール五世がフェルディナントを見る。
「オーストリアの農村をいくつか選べ」
「承知しました」
「土地の違う場所を見せろ」
「はい」
「収穫だけではない。倉庫も見せる。市場も見せる。必要なら兵站の記録もだ」
「……軍の補給まで?」
思わず聞き返した。
フェルディナントが頷く。
「食糧改革をするのなら、そこまで見てもらいたい」
私は息を呑んだ。
農民の畑だけではない。
市場。
倉庫。
街道。
輸送。
そして軍。
この国の食糧が、どこから生まれ、どこで失われ、どこへ消えていくのか。
全部を見ることになる。
「分かりました」
私は頭を下げた。
「できる限り調べてみます」
カール五世が頷く。
「期待しているぞ、迷い鳥」
その言葉に、私は少しだけ背筋が寒くなった。
期待されている。
それが嬉しいのか。
怖いのか。
自分でも、まだ分からない。
ただ――。
私の前に道が一本見えた。
農村へ行く。
畑を見る。
農民の話を聞く。
倉庫を見る。
市場を見る。
そして、軍がどれだけの食料を必要としているのかも調べる。
そこで初めて、私は何ができるのかを考える。
それだけだ。
それでも。
この小さな一歩が、この国を少しだけ変えるかもしれない。
戦場でも、宮廷でもない。
最初に向かう場所は――。
一本の麦畑だ。
聖暦一五二二年。
私の、エスターライヒ食糧改革は、こうして始まった。
というわけでトウモロコシ同様にコロンブス交換で世界中に広がったことで強い影響力を持ったタバコを取り上げてみました。




