神聖帝国皇帝カールと皇弟フェルディナンド、大法官ガッティナーラ
一夜をバーデンで過ごした翌朝、私はマルク伯に連れられて、皇帝たちが待つという部屋へ向かっていた。
昨夜のうちに用意された服は、私がこれまで身につけたことのないほど豪華なもので、古風な仕立ての礼服に身を包み、胸元には大きなサファイアのブローチが留められ、その周囲には金糸で刺繍されたザクロの花が鮮やかに浮かび上がっているため、鏡を見るたびに自分が自分ではないような気分になった。
「ずいぶんと立派な格好になりましたね」
私が苦笑しながら胸元を指でつまむと、隣を歩いていたマルク伯は小さく笑い、「これから会う方々を考えれば、それくらいは必要でしょうな」と何でもないことのように答えた。
「……そんなに偉い人なんですか?」
半ば冗談のつもりで尋ねたのだが、マルク伯は冗談では返してくれなかった。
「皇帝陛下と、その弟君であるフェルディナント殿下、それに大法官まで揃っております」
「……え?」
私は思わず足を止めかけた。
「皇帝?」
「はい」
「それって、あの皇帝ですよね?」
「他に誰がおりましょう」
マルク伯は何でもないことのように答えたが、私にとっては何でもない話ではなく、皇帝、それもこれから直接会う相手だと考えた途端、胸の奥が急に重くなった。
「……できれば、もう少し早く教えてほしかったです」
「おや。緊張なさいますか?」
「しますよ。ものすごくします」
思わず本音が漏れる。異世界から来ました、なんて話を皇帝を含めた大勢の貴族の前で説明することになったら、私は途中で胃に穴が開く自信がある。
幸いなことに、今回通されるのは大広間での正式な謁見ではなく、皇帝たちが普段使っている私室に近い部屋らしかった。
「なぜ、そこまでして私を?」
歩きながら尋ねると、マルク伯は少しだけ表情を引き締め、「迷い鳥が、この辺りに現れるという神のお告げがあったからです」と静かに答えた。
「……神のお告げ?」
「はい。そのため、皇帝陛下も大法官も、そしてフェルディナント殿下も、この辺りで迷い鳥が現れるのを待っておられたのです」
私は返事をせず、しばらく黙って歩いた。
つまり、私が偶然ここへ流れ着いたのではなく、少なくともこの国の側から見れば、最初から待ち構えていたことになる。それなら、これまで妙に丁重に扱われていたことにも納得がいく。ただの異国人ではなく、彼らにとって私は――神のお告げによって現れるとされた存在なのだ。
やがて、一つの扉の前でマルク伯が足を止め、「こちらです」と告げると、そのまま扉が開かれた。
私は反射的に背筋を伸ばしたのだが、そこで最初に感じたのは威圧感ではなく、むしろ鼻を刺激する煙の匂いだった。
「……煙い」
思わず口から漏れる。
部屋の中には薄く煙が漂い、壁際には地図が広げられ、その周囲には書類が何冊も積み上げられているほか、小さな机と椅子が置かれ、机の上には蓋のついた容器や革袋、細長い管のようなものが並んでいた。その脇には灰の溜まった器があり、中にはまだ赤く燻っている火種がいくつか残っていて、浅い皿のような器には燃え尽きた煙草の吸い殻まで溜まっているため、部屋全体に染みついた煙の匂いが鼻を刺激していた。
――これ、タバコだよね?
私は思わず目を細めた。
私の知っている歴史では、タバコがヨーロッパでここまで当たり前のように扱われるのはもっと後の時代だったはずなのに、目の前では明らかに日常的な嗜好品として使われている。
……いや。
そこで私は、以前食べたトウモロコシのことを思い出した。
私の知っている歴史では、トウモロコシもヨーロッパで広く普及するまでにはもう少し時間がかかるはずだったのに、この世界ではすでに食卓に並び、しかも「トルコ小麦」などと呼ばれて普通に扱われている。
――もしかして、タバコも同じなのか?
私の知っている歴史よりも、新大陸からもたらされたものが早く広まっているのだろうか。
そう考えたところで、私はふと部屋の中にいる人物へ視線を向けた。
カール五世。
神聖ローマ皇帝であると同時に、スペイン王でもある人物だ。
そして私の知っている歴史では、スペインは新大陸との交易を通じて、タバコを早くからヨーロッパへ持ち込み、その商品価値にも目をつけていたはずだった。
コロンブスもスペインと関係が深い。
もちろん、この世界での事情が同じとは限らない。それでも、スペイン王であるカール五世の勢力下で新大陸由来の作物や嗜好品が扱われているのなら、タバコが私の知っている歴史より早く広まっていたとしても、必ずしも不思議ではない。
トウモロコシも、タバコも、どちらも新大陸からもたらされたものだ。この世界では、それらが私の知っている歴史とは違う速度でヨーロッパへ浸透しているのかもしれない。
――やっぱり、この世界の歴史は私の知っているものと完全には一致しない。
そう考えると、これから目の前の人物たちと話すことにも、これまで以上に慎重にならなければならない気がした。
「お気になさらず」
私が部屋の中を見回していると、マルク伯が苦笑しながら声をかけてきた。
「はい。少し珍しい匂いだったもので……」
そう答えながらも、私はもう一度部屋の中を見回した。煙は薄く漂い続け、灰の溜まった器の中では火種が小さく赤く光っている。
――タバコまで、ここまで普及しているのか。
私の知識だけでは、この世界を測れない。そのことを改めて思い知らされながら、私は部屋の奥へ進んだ。
そこには三人の男がいた。
一人はまだ若く、金色の髪と青い瞳を持って静かにこちらを見つめており、その人物を見た瞬間、私はすぐに分かった。
――カール五世。
歴史の教科書で何度も見た顔だった。
その隣には、彼よりも少し若い男が立っていて、こちらにも見覚えがある。
フェルディナント。
そして最後の一人は白髪の目立つ年配の男で、穏やかな表情をしているものの、その視線は鋭く、この人物についても私は知っていた。
メルクリーノ・ガッティナーラ。
カール五世の大法官だ。
「よく来たな」
カール五世が静かに声をかけたので、私は慌てて頭を下げ、「お目にかかれて光栄です」と答えたが、自分でも驚くほど声が硬くなっていた。
「そう畏まらなくてもよい」
カール五世はそう言ったものの、皇帝を前にして気楽になれるほど私は図太くない。
フェルディナントがそんな私の様子を見て穏やかな笑みを浮かべ、「無理もありません。突然このような場所へ呼ばれれば、誰でも緊張するでしょう」と言ったので、私は「ありがとうございます」と答え、少しだけ肩の力を抜いた。
「まず確認しておきたいことがあります」
私は慎重に顔を上げた。
「ここは、聖暦何年なのでしょうか?」
フェルディナントが答える。
「聖暦一五二二年です」
その数字を聞いた瞬間、頭の中でいくつもの知識が繋がった。
――やはり、私の知っている時代に近い。
だが、完全に同じではない。トウモロコシがすでに広く普及し、タバコも少なくともこの部屋では当たり前のように使われている。そして何より、私はここにいる。
歴史の知識をそのまま当てはめることはできないし、私が知っている未来を不用意に口にすれば、歴史そのものを変えてしまうかもしれない。最悪の場合、誰かを殺すことだってできてしまう。
それだけは避けなければならない。
「あなたが、迷い鳥なのですね」
ガッティナーラが静かに尋ねた。
「……はい」
「この国で確認された最初の迷い鳥だと聞いています」
マルク伯が説明する。
「迷い鳥とは、別の世界からやって来た者のことです。そして、その者が持ち込む知識や技術によって、国に繁栄をもたらすと伝えられています」
私はその説明を聞いて、少しだけ苦笑した。
「そこまで期待されても困ります。私は何でも知っているわけではありませんから」
カール五世が興味深そうに私を見る。
「では、何を知っている?」
「農業のことも、医学のことも、衛生のことも、保存食のことも、火薬や印刷、航海についても、多少は知っています。ただし、知っていることと、それをこの世界で実際に使えることは別です」
私は一度言葉を切ってから、「ですから、何か一つを突然変えるより、まず今この国で何が起きているのかを見せていただきたいと思っています」と続けた。
カール五世が少しだけ目を細める。
「まず、現場を見るということか」
「はい」
「何から始める?」
私は少し考えた。
「食べ物です」
自分でも意外なほど、答えはすぐに出た。
「食糧です」
フェルディナントが反応する。
「食糧?」
「はい。国を維持するうえで、食べ物は絶対に必要です。それに、軍を動かすならなおさらです」
フェルディナントが頷く。
「その通りです。現在、イタリア方面へ向かう軍の食糧確保には頭を悩ませています」
「具体的には?」
「兵士が食べる穀物だけではありません。馬や荷車を引く動物にも餌が必要です。ところが、集めた穀物を運ぶ道が悪く、雨が降ればぬかるみ、橋が壊れることもあれば、途中で敵に襲われることもあります」
フェルディナントは淡々と説明を続ける。
「現地で購入することもありますが、十分な量が手に入るとは限りません。軍が通れば、徴発を行わなければならないこともありますし、場合によっては兵士が食料を奪ってしまうことすらあります」
「……それでは、農民が困りますね」
「ええ。農民が翌年の種籾まで失えば、次の収穫が減ります。そうなれば食料価格が上がり、都市の民も苦しくなる。しかも兵士への給金が遅れれば、兵士自身が市場で食料を買うこともできません」
私は腕を組んだ。
単純に「食料が足りない」という話ではなく、作る、集める、運ぶ、保管する、売る、軍へ届けるという一連の流れのどこか一つが詰まれば、全体が苦しくなるということだ。
「食糧は、畑で収穫した時点で役目を終えるものではありません」
ガッティナーラが静かに口を挟んだ。
「どこに集め、どこへ送り、誰に渡すのか。その途中でどれだけ失われるのかまで含めて、一つの仕組みとして考える必要があります」
「……なるほど」
私は頷いた。
農民が一生懸命に麦を育てても、倉庫で腐れば意味がないし、倉庫から運び出しても道中で濡れたり盗まれたりすれば意味がなく、市場まで届いても価格が高すぎて誰も買えなければ、それもまた問題になる。
「国を強くするというのは、城を建てることでも、兵を増やすことでもない」
カール五世が低い声で言った。
「兵も民も、まず食わねばならぬ」
その言葉には、皇帝としての重みがあった。
「戦争は勇気だけでは続けられません」
フェルディナントが続ける。
「兵士にも馬にも食事が必要です。そして軍が食料を奪えば、今度は民が困る。民が困れば翌年の収穫が減り、収穫が減ればまた軍の食料が不足する。そうした循環を止めなければなりません」
「なら、まず実際にどこで問題が起きているのかを見たいです」
私は答えた。
「農村へ行かせてもらえますか?」
「もちろんです」
フェルディナントが答える。
「何を見たいのです?」
「まず、何がどれくらい作られているのかを確認したいです。それから、収穫したものがどこへ運ばれ、どこで保管され、どこで失われているのかも見たい。腐敗しているのか、虫に食われているのか、鼠なのか、それとも運搬中に失われているのか、倉庫での損失も確認したいですし、市場でどの程度の価格になっているのかも知りたいです。それから、凶作になった場合にどれくらい持ちこたえられるのかも確認したいと思います」
ガッティナーラが興味深そうに頷いた。
「記録を確認する必要がありますな」
「記録?」
「収穫量の記録、倉庫への搬入量、市場価格、軍への供給量。そうした数字を比較すれば、どこで差が生じているのかが分かるかもしれません」
そして、少しだけ口元を緩めた。
「数字は、嘘をつくことはありますが、少なくとも思い込みよりは役に立ちます」
「それは確かに」
私は苦笑した。
数字そのものが間違っている可能性はあるが、何も調べずに「たぶんこうだ」と考えるよりはずっといい。
「そなたは、魔法のような奇跡を約束するのではないのだな」
カール五世が私を見る。
「そのようなことは、私にはできません」
私は正直に答えた。
「できることと、できないことがあります。だからこそ、まず見て、聞いて、数字を確認して、それから何ができるかを考えたいと思います」
カール五世はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「自分の知らぬことを知らぬと言い、確かめようとする。それは、悪い態度ではない」
そしてフェルディナントへ視線を向ける。
「フェルディナント。条件の異なる農村をいくつか選べ」
「承知しました」
「収穫だけではない。倉庫、市場、そして軍への輸送についても見せてやれ」
「分かりました」
続いてカール五世はガッティナーラを見る。
「記録を用意しておけ」
「収穫記録、倉庫への搬入記録、市場価格、軍の補給記録を揃えましょう」
ガッティナーラは即座に答え、「必要であれば、輸送経路についての記録も調べます」と付け加えた。
「お願いします」
私は二人に頭を下げた。
こうして話は決まった。
私はまず農村へ行き、実際の畑を見て農民の話を聞き、収穫量を確認する。そのうえで倉庫や市場、道路や輸送の状況まで調べ、食料がどこで失われているのかを探し、記録に書かれている数字と実際に目の前で起きていることを比べる。
そこから、何ができるのかを考える。
「期待しているぞ、迷い鳥」
カール五世が言った。
その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。
期待されることが嬉しいのか、怖いのか、自分でもよく分からない。ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
私は、この世界に来てしまった。
そして、ここまで連れてこられた以上、何かをすることになるのだろう。
だったら、いきなり国全体を変えようとする必要はない。まずは、目の前にある一つの問題から始めればいい。
畑を見て、農民の話を聞く。倉庫を見て、市場を見て、道路を見て、食料がどこで失われているのかを探し、記録と現実を照らし合わせる。
戦場でも、宮廷でもない。
私が最初に向かう場所は――一本の麦畑だ。
聖暦一五二二年。
私のエスターライヒ食糧改革は、こうして始まった。
というわけでトウモロコシ同様にコロンブス交換で世界中に広がったことで強い影響力を持ったタバコを取り上げてみました。




