↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
農業大学生、異世界で皇帝に呼ばれる――「迷い鳥」は国を変える  作者: 水源


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/39

温泉とトルコ小麦の人形

 さて。


 馬車に揺られること、およそ四時間。


 ようやく私たちは、ボートゥン・バイ・ヴィーナーの街へ到着しました。


「……長かった」


 思わず、そう呟いてしまう。


 温泉療養のための街だと聞いていたのですが、周囲に広がっているのは、温泉だけではありません。


 ぶどう畑。


 麦畑。


 そして、ところどころに見える牧草地。


 私が物珍しそうに眺めていると、ヨハンさんが教えてくれました。


「ボートゥン・バイ・ヴィーナーの周辺には、ワイン用のぶどう畑や麦畑が広がっております。

 そういった場所で働く者たちが自分たちで食べるため、近頃ではトルコ小麦を植える者も増えているようです」


「なるほど。

 温泉だけで成り立っている街ではないんですね」


「ええ。

 牛や豚、鶏などを育てている者もおりますよ」


 なるほど。


 温泉を中心に農村や別荘地が集まった街、ということらしい。


 ボートゥンは、英語でいうところのバス――浴場。


 ヴィーナーは、おそらくウィーン。


 つまり「ウィーン側の浴場」というような意味なのだろう。


 たしか、この温泉は古代ローマ時代から利用されていたはずだ。


 二十一世紀になっても温泉療養で知られていて、ベートーヴェンやモーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウスといった音楽家たちにも縁のある土地だった。


 そんなことを考えていると――。


 ふわり。


 鼻をくすぐる硫黄の匂い。


 卵が腐ったような匂いだけど、日本人の私にはそこまで嫌でもない。


 むしろ、


「……温泉だ」


 と、ちょっと安心する。


 それよりも――。


 ガタン。


 馬車が止まった。


「……ようやく」


 私は心の底から安堵した。


 四時間。


 舗装されていない道を、サスペンションもない馬車で揺られ続けた結果。


 お尻が限界だった。


「お尻が……」


 よろよろと馬車から降りる。


 そして、もう一つ。


「ようやく、この拷問具みたいなコルセットも外せますね」


 私が言うと、ヨハンさんが申し訳なさそうに眉を下げた。


「……それが、その。

 申し訳ございませんが、当面の間は着用していただくことになります」


「…………え?」


 聞き間違いだろうか。


「せめて、食事のときくらいは外したいのですが」


「それも……難しいかと」


「はあ……」


 この時代、高貴な女性は細いウエストほど美しいとされる。


 それこそ、四十センチ台なんて数字も珍しくないらしい。


 私からすれば、ただの拷問である。


 監禁されているわけではない。


 食事も与えられるし、護衛もついている。


 けれど、自由がほとんどないという意味では、かなり軟禁に近い。


 もっとも、向こうとしては最大限に丁寧に扱っているつもりなのだろう。


 それに、今の私が一人で放り出されたところで、この世界で生きていける自信なんてない。


「では、まず温泉に入って身体を休めていただきましょう。

 その後、夕食アーベント・エセンを。

 それから、謁見用のウプランドを仕立てることにいたします」


「……え?」


 謁見用?


「今の服は間に合わせで用意したものですので、少々地味すぎます」


「これで十分だと思いますけど……」


「いえ。

 絹に金糸銀糸を織り込み、真珠などの宝飾品を飾ったものくらいでなければ、迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様には釣り合いが取れません」


「いやいやいや!」


 思わず声が大きくなる。


「そんな服を着たら、服のほうが私に釣り合わなくなりますって!」


「高貴な女性が身につけるものです。

 どうか、私の顔を立てると思っていただけないでしょうか」


「……はあ」


 私は諦めた。


「わかりました。

 もう、好きにしてください」


「ありがとうございます」


 ……常識が違いすぎる。


 そうして館へ入ると、一人の中年女性がヨハンさんを迎えた。


「お疲れ様でございました、マルク伯」


「ああ、エレオノーラ。

 この方が迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様だ。

 温泉の案内を頼む。

 その後、彼女の身だしなみも整えておいてくれ」


「承知いたしました」


 エレオノーラさんが私に頭を下げる。


「では、迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様。

 こちらへどうぞ」


「あ、はい」


 温泉までは、金羊毛騎士団の騎士たちが護衛についた。


 まあ、馬車よりはずっといい。


 何より――。


「はぁ……」


 温泉へ入る前、コルセットを外した瞬間。


 身体が軽くなった。


 そのまま湯船に浸かる。


 温度は三十六度から三十八度くらい。


 熱すぎない湯が、じんわりと身体をほぐしていく。


「……生き返る」


 四時間の馬車旅で凝り固まった身体が、ゆっくりとほどけていく。


 ただ、一つだけ残念なことがある。


 髪は洗えない。


 こちらの水は硬水なので、下手に洗うとごわごわになってしまう可能性があるからだ。


 頭の上でまとめた髪は、そのまま。


 ……そこだけは残念だった。


 温泉街には、湯治のために長期間滞在する人も多いらしい。


 ただし、それができるのは裕福な人間だけだ。


 街には、別荘のような立派な館がいくつも並んでいる。


 帰り道、その中でもひときわ大きな館が目に入った。


「あそこは、ずいぶん大きな館ですね」


「あそこはフリードリヒ三世陛下がお建てになったお館です」


「……皇帝陛下の?」


「はい。

 ほかにも金羊毛騎士団や聖ゲオルク騎士団、摂政や枢機卿などに所属する方々の別荘がございます。

 王、公、侯、伯といった方々が多いですね」


「……」


 私は黙った。


 そして、ぽつり。


「なんだか、とっても気が休まらなくなってきたんですが……」


 温泉で身体は癒やされた。


 代わりに、精神が疲れてきた。


 そんなことを考えていると――。


「あ、あの!」


 突然、必死な声が飛んできた。


「お人形、買っていただけませんか?」


 小さな女の子だった。


 両手で、素朴な人形を抱えている。


「お父さんが倒れてしまって……。

 弟も、ろくに食事を取れていないんです。

 だから……どうか、お人形を買っていただけませんか?」


 私は足を止めた。


 ……そうか。


 この世界には、傷病手当も生活保護もない。


 働き手が倒れれば、それだけで一家の生活が崩れる。


 この子たちは、明日の食事すら危ないのかもしれない。


「ヨハンさん」


「はい」


「この人形、二グルデン金貨で買ってあげてもらえませんか?」


「二グルデン、ですか?」


 ヨハンさんが人形を見る。


「それはトルコ小麦の皮で作られたものです。

 そこまで高価なものではありませんが……」


「ええ。

 でも、二グルデンあれば、この家族は一か月くらい暮らせるんですよね?」


「ええ。

 ただ、それでも治療費までは難しいでしょう」


「……そうですよね」


 私は少女を見る。


「じゃあ、その金額でお願いします」


「承知しました」


 ヨハンさんが懐から金貨を取り出す。


 その瞬間だった。


 少女の腕が、ぎゅっと動いた。


 人形を抱きしめている。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 少女は人形を渡すのをためらった。


 粗末な布と植物の皮で作られた、素朴な人形。


 高価なものではない。


 けれど――。


 きっと、この子にとっては大切な宝物なのだ。


 少女は人形を見つめ、それから小さく息を吐いた。


「……お父さんのためだから」


 自分に言い聞かせるような声だった。


 そして、ゆっくりと人形を差し出した。


 私は胸が痛くなった。


 この子は、お金が欲しいから売るんじゃない。


 家族を助けるために、自分の大切なものを手放そうとしている。


「……ありがとう」


 私は人形を受け取った。


 そして――。


 そのまま少女へ返す。


「え?」


「これは売らなくていいよ」


「でも……」


「二グルデンは、そのまま渡すから。

 だから、その人形は持って帰りなさい」


 少女が目を丸くする。


「お父さんのために使ってね。

 でも、人形までなくす必要はないでしょう?」


 少女の目に、じわりと涙が浮かんだ。


「……ありがとう」


 今度は、ちゃんと笑っていた。


 その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 あの子が、帰ったあとも人形を抱いて笑っていられればいい。


 そう願いながら、私は少女の小さな背中を見送った。


 そして――。


「ねえ」


 少女が振り返る。


「お父さん、腕が赤くなっていない?」


「腕?」


「日の当たるところ。

 やけどみたいになってない?」


 少女は少し考えてから、こくりと頷いた。


「はい。

 お父さんの腕、真っ赤です」


「……やっぱり」


 頭の中に、一つの病名が浮かんだ。


 ペラグラ。


 トウモロコシをほとんど主食にして、肉や乳製品などを十分に食べられないことで起きる病気だ。


「ちなみに、あなたたちは普段、何を食べてるの?」


「トルコ小麦のプルテスです」


「毎日?」


「はい」


「それまで食べていた雑穀より美味しいの?」


「うん。たくさん採れるし、お腹もいっぱいになるから」


 やっぱり。


「だったら、それを作るときにキノコかチーズを入れてみて」


「それで、お父さんの腕は治るの?」


「すぐには治らないかもしれないけど……良くなると思う」


「本当?」


「うん。

 それから、食べられるようなら卵や肉も少し食べて」


 少女は真剣に頷いた。


「それと、もしトルコ小麦が余っているなら、ヤギか乳牛を飼ってみて」


「お乳が飲めるの?」


「うん。

 チーズやバターにもできるから」


「わかった!」


 少女の顔が明るくなる。


 その笑顔を見送りながら、私は考える。


 私は医者じゃない。


 診察したわけでもない。


 だから、絶対に治るなんて言えない。


 それでも――。


 もし、この知識で一人でも救えるのなら。


 もっと広めたほうがいい。


 トウモロコシそのものが悪いわけじゃない。


 食べ方の問題だ。


 この先、ヨーロッパではトウモロコシの栽培がどんどん増えていく。


 ならば。


 同じ病気で苦しむ人が増える前に、手を打っておきたい。


「……やることが、増えちゃいましたね」


 思わず苦笑する。


迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様」


 エレオノーラさんに呼ばれて振り返る。


「今日は、こちらでお休みいただきましょう。

 帝都へは明日向かいます」


「わかりました」


 私は頷いた。


 今日は温泉に入れた。


 一人の少女と、その家族を助けるきっかけも作れた。


 けれど――。


「……明日は、またコルセットですよね」


「申し訳ございません」


「ですよねぇ……」


 私は空を見上げた。


 温泉で身体は癒やされた。


 でも明日には、またあの鉄の拘束具が待っている。


 そして、その先には――。


 神聖ローマ帝国の皇帝陛下との謁見が待っているのだった。

と言うわけで、私としてはコロンブス交換でヨーロッパに入ってきた農作物で最も大きい影響があったと思っているトウモロコシについてかいてみました。


食料問題の解決に芋ばかりが取り上げられるのはなんだかななので、個人的にはこれがかけて満足だったりします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
中近世のヨーロッパなら様々な男女分けの慣習は当然ですし、伯爵様も良い人だと思うのですが、 「自分たちの価値観しか認めない社会なら迷い鳥など不要なのでは?」 自分ならそう言い切っちゃいそう。 だってジャ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。