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農業大学生、異世界で皇帝に呼ばれる――「迷い鳥」は国を変える  作者: 水源


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温泉とトルコ小麦の人形

 ボートゥン・バイ・ヴィーナーへ到着したのは、馬車に揺られて四時間ほど経った頃だった。窓から外を眺めると、葡萄畑や麦畑が広がり、その向こうには家畜を放している牧草地も見えており、これまで見てきた景色とはまた違った雰囲気だった。


「この辺りでは、葡萄や麦だけじゃなく、家畜もかなり飼われているんですね」


 私が窓の外を眺めながら尋ねると、向かいに座っていたヨハンは穏やかに頷き、同じように外へ目を向けた。


「ええ。土地によって育てやすい作物が違いますからな。この辺りでは、トルコ小麦も普通に栽培されております」


「トルコ小麦……」


 その言葉に、私はふと考え込んだ。この世界では、トウモロコシはすでにスペインからこちらへも伝わっていて、この辺りでも普通に栽培されているらしい。


 史実よりもずいぶん早くヨーロッパ各地へ広まったことになるが、私がこの世界で知っている歴史そのものが、元の世界とはかなり違っている。


 もっとも、私が知っている教科書的な知識がじつは違っていただけの可能性もあるし、実際ジャガイモだって実はイタリアなどでは意外と普及していたらしいし。


 まあジャガイモは火山地帯向けの作物で、イタリアは意外と標高が高く寒い場所も多いんで利にはかなってるけど。


 やがて馬車が町へ入ると、どこからともなく硫黄のような匂いが漂ってきたので、私は鼻をひくつかせるようにして匂いを確かめながら少し顔をしかめた。


 それでも温泉が近いと分かると、長旅で強張っていた肩から少しだけ力が抜けていくのを感じる。


 何しろ四時間も馬車に揺られていたせいで身体はすっかり凝り固まっているし、何より、あのコルセットから少しでも解放されたい。


 ただ、謁見用の礼装を着る必要がある以上、完全に自由になれるわけではない。


「きれいな服に憧れはあったけど……こんなに窮屈なものとは思わなかったな」


 そんなことを愚痴気味につぶやいていると声がかかった。


「まずは湯に入っていただきましょう」


 出迎えてくれた中年の女性――エレオノーラが、私の疲れた様子を気遣うように微笑んでそう声を掛けてくれた。


「ありがとうございます」


 私は軽く会釈を返し、ほっとした気持ちで彼女の案内に従った。


 湯は熱すぎず、身体をゆっくりと温めるにはちょうどよかったので、私は肩まで浸かって目を閉じると、思わず「はぁ……」と小さく息を吐いた。


 そのまましばらく湯に浸かっていると、馬車の揺れで凝り固まっていた身体から少しずつ力が抜けていくのが分かる。


 ただ、こちらの水は硬水なので、髪まで洗うとごわごわになりそうで洗うのはやめておいた。せっかく湯に入ったのに、髪がごわごわになったらたまらない。


 湯から上がって外へ出ると、町の中には立派な館が建っていたので、私は思わず足を止めて館を見上げた。


「ここは?」


 エレオノーラに尋ねると、彼女も館へ目を向け、静かな笑みを浮かべながら答えた。


「皇帝陛下ゆかりのお館でございます」


 その言葉を聞いて、私は改めて目の前の館へ目を向けた。これから向かう帝都のことを考えると、明日にはいよいよ皇帝フリードリヒ三世陛下に謁見することになるわけで、せっかく温泉で身体がほぐれたというのに、今度は別の意味で身体が硬くなっていくような気がした。


 そのときだった。


「お姉さん……」


 背後から遠慮がちな声が聞こえたので振り返ると、そこには小さな女の子が立っていた。女の子は緊張した様子で胸の前に人形を抱え、不安そうにこちらを見上げていたが、やがておそるおそる一歩近づき、抱えていた人形を差し出してきた。


「これ、買ってくれませんか?」


「どうして売っているの?」


 私は女の子を驚かせないよう少し腰を落として目線を合わせながら尋ねると、女の子は視線を落とし、腕の中の人形をぎゅっと抱きしめながら答えた。


「お父さんが病気で……弟もお腹を空かせていて……これを売ってこいって言われて……」


 私は女の子の様子を見つめ、それから人形へ目を向けてから、なるべく怖がらせないよう穏やかな声で尋ねた。


「いくら?」


「二グルデン……」


 女の子が小さく答えたので、その金額を聞いた私は財布から金貨を取り出した。


「これでいい?」


 そう言いながら金貨を差し出すと、女の子は目を大きく見開いた。差し出された金貨を見つめたまま、しばらく瞬きすらしない。


 ――あれ?


 私は少女の反応を見ながら、少しだけ首を傾げた。


 二グルデンくらいなら、と思って出したのだけれど、この反応を見る限り、私が思っていた以上に大きな金額だったのかもしれない。


 女の子はやがて恐る恐る金貨へ手を伸ばしたが、それでも本当に受け取っていいのか分からないように、こちらの顔を何度も見上げている。


 私はそんな彼女を安心させるように微笑んだ。


「はい。でも、人形はあなたが持っていて」


 私は女の子の手に二グルデンを握らせると、人形には手を伸ばさず、そのまま持っているように促した。


「いいんですか?」


 女の子は人形を抱えたまま、戸惑ったように私を見る。


「ええ。これはあなたが作った大切なものなんでしょう?」


 私は人形へ目を向けてから女の子へ視線を戻し、頷いてそう答えた。女の子はしばらく何も言えずにいたが、やがて人形を胸に抱きしめ、何度も頭を下げながら「ありがとうございます……!」と声を震わせた。


 その顔に浮かんだ安堵の表情を見ていると、胸の奥が少し痛くなった。この時代には傷病手当も生活保護もないのだから、家族の誰かが病気になれば、それだけで一家の生活が立ち行かなくなることだってある。


「お父さんは、どんな病気なの?」


 私は女の子の様子を窺いながら静かに尋ねた。すると女の子は少し考えるように眉を寄せ、自分の腕を指差した。


「腕が赤くなっているの。**激しい下痢もひどいし**、ずっと前から治らなくて……」


 女の子が不安そうに自分の腕を見下ろすのを見て、私は思わず眉を寄せた。


「腕が赤い?それに激しい下痢?」


 腕が赤くなっている。それだけなら、いろいろな病気が考えられる。けれど、父親が病気になり、家族は貧しく、弟もお腹を空かせている。


 そして、食事は――。


「食事は、何を食べているの?」


 私は少し間を置いてから慎重に尋ねると、女の子は申し訳なさそうに俯き、小さな声で答えた。


「トルコ小麦のプルテス……毎日、そればっかり」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に昔覚えた病名が浮かんだ。


 やっぱり……。


 もしかすると、ペラグラじゃないだろうか。


 もちろん、私は医者ではないし、腕が赤いというだけで判断できるわけでもない。それでも、トウモロコシ中心の食生活と、貧しい一家の状況を合わせて考えると、どうしてもその病気が頭から離れなかった。


 トウモロコシそのものが悪いわけじゃない。問題は、それだけを食べ続けてしまうことだ。


「キノコとか、チーズとかは食べられる?」


 私は女の子の顔を見ながら、できるだけ穏やかな声で尋ねる。


「たまになら……」


 女の子が小さく頷いたので、続けて尋ねた。


「卵や肉は?」


 すると女の子は困ったように眉を下げ、首を横に振った。


「そんなに買えません……」


 その答えを聞いて、私は少し考え込んだ末に口を開いた。


「だったら、もし飼えるなら、まずは山羊を一頭飼ってみるのもいいかもしれない。乳が取れれば、チーズやバターにもできるから」


 私は女の子の顔を見ながら、無理に勧めるのではなく、一つの方法を教えるつもりでゆっくりと言った。


「山羊……」


 女の子は目を丸くし、その言葉を小さく繰り返した。


「ええ。それから、できるだけ食事を一種類だけにしないこと。トルコ小麦を食べるのをやめろという意味じゃないからね」


 私は女の子の反応を確かめながら言葉を続け、


「トウモロコシそのものが悪いわけじゃないの。いろいろな食べ物を組み合わせて食べることが大切なのよ」


 と、できるだけ分かりやすいように伝えた。


 女の子は黙って私の話を聞いていたが、やがて不安そうな表情で顔を上げた。


「お父さん、良くなりますか?」


 胸の前で人形を抱きしめたまま、期待を込めた目で私を見つめている。その視線を受けて、私は少し言葉に詰まったが、期待だけを持たせるわけにもいかないので、慎重に答えた。


「……良くなる可能性はあると思う。でも、私はお医者さんじゃないから、絶対に治るとは言えない」


 それでも、何もしないよりはいい。この知識が正しいのなら、せめて同じような食生活をしている人たちに伝えていかなければならないし、これから先、さらに多くの人がトウモロコシを食べるようになるのなら、なおさらだ。


 実際ペラグラは貧しい人の間で問題になったし、もし私の知識が役に立つのなら、病気が広がってしまう前に、できるだけ多くの人へ伝えておきたい。


「ありがとうございます……」


 女の子は何度も頭を下げながら、手にした二グルデンを大事そうに握りしめた。その姿を見送っていると、エレオノーラが静かに私の隣へやってきた。


「お疲れでしょう。今日はもう休まれたほうがよろしいかと。明日は帝都へ向かいますから」


 エレオノーラは穏やかな声でそう告げると、館へ戻るよう促すように身体の向きを変えた。


「そうですね……」


 私は小さく頷いた。いよいよ皇帝陛下への謁見だ。ここまで来たのだから逃げるわけにもいかない――そう思う一方で、自分の身体を締めつけているコルセットを思い出すと、思わず小さくため息が漏れた。


「……せめて、謁見のときくらいは、もう少し楽な服にしてほしいな」


 誰にも聞こえないように呟き、私は明日のことを考えながら、重い足取りで館へ戻っていった。

と言うわけで、私としてはコロンブス交換でヨーロッパに入ってきた農作物で最も大きい影響があったと思っているトウモロコシについてかいてみました。


食料問題の解決に芋ばかりが取り上げられるのはなんだかななので、個人的にはこれがかけて満足だったりします。

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― 新着の感想 ―
中近世のヨーロッパなら様々な男女分けの慣習は当然ですし、伯爵様も良い人だと思うのですが、 「自分たちの価値観しか認めない社会なら迷い鳥など不要なのでは?」 自分ならそう言い切っちゃいそう。 だってジャ…
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