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農業大学生、異世界で皇帝に呼ばれる――「迷い鳥」は国を変える  作者: 水源


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迷い鳥

 ――知らない場所。


 それが、最初に思ったことだった。


「……ここ、どこ?」


 頬に触れているのは、ひんやりとした硬い感触だった。


 石。


 ざらついた石畳の上に、私は倒れていた。


 鼻をくすぐるのは、土と馬の匂い。


 少し遅れて、薪の煙が鼻に入ってくる。


 耳を澄ます。


 人のざわめき。


 馬の鼻息。


 どこかで鳴る鐘。


 そして――。


 ガラガラと、車輪が石畳を踏みしめる音。


「……?」


 私はゆっくりと上半身を起こした。


 その途端。


 周囲にいた人々が、さっと後ずさった。


「何者だ?」


「見ない顔だぞ」


「衛兵を呼べ!」


「武器を持っているかもしれん!」


 ざわざわと声が飛び交う。


「え……?」


 何が起きているのか分からない。


 私は思わず周囲を見回した。


 石造りの建物。


 木材を組んだ家。


 石畳の道。


 馬車。


 槍を持った兵士。


 行き交う人々。


 見慣れたものが、一つもない。


 いや。


 ある。


 人間がいる。


 馬がいる。


 道路がある。


 街がある。


 でも、それだけだった。


 車がない。


 電線がない。


 信号機もない。


 スマートフォンを持っている人もいない。


「…………」


 私は固まった。


(……え?)


(何ここ?)


 どう見ても、現代日本ではない。


 むしろ――。


(中世ヨーロッパ……?)


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 だけど。


 どうして?


 なぜ?


 私はこんな場所にいる?


 自分の身体を確認する。


 腕。


 足。


 頭。


 胸。


 痛みはない。


 血も付いていない。


 なのに。


 記憶だけが途中で切れている。


(私、どこから来たんだっけ?)


 そのとき。


 脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。


 大学。


 車。


 北海道の秋。


 少し色づき始めた木々。


 そして――。


 突然、車道へ飛び出してきた巨大な影。


「……鹿」


 エゾシカ。


 避ける暇などなかった。


 ブレーキを踏んだ。


 けれど、遅かった。


 ――ドンッ!


 凄まじい衝撃。


 フロントガラスが砕ける。


 その向こうから、鹿の巨体が飛び込んできて――。


 そこで。


 私の記憶は途切れている。


(……あれ?)


(私、死んだんじゃなかった?)


 そのとき。


 目の前を馬車が横切った。


 ――ガラガラガラ。


 馬の蹄が石畳を叩く。


 ――カッ、カッ、カッ。


 その音が、妙に生々しく耳へ入ってきた。


(夢じゃない)


 そう思った瞬間だった。


迷い鳥フェアローレナー・フォーゲルさま」


 突然、背後から声がした。


「……え?」


 振り返る。


 そこに立っていたのは――。


 金髪碧眼の男だった。


 背が高い。


 肩幅も広い。


 整った顔立ち。


 陽光を受けた金色の髪が、風にわずかに揺れている。


 その周囲にいる兵士たちは、誰一人として気を抜いていない。


 それどころか。


 彼が一歩前へ出ると、周囲の人間が自然に道を空けた。


 どう考えても普通の男ではない。


「オスタルリキ東方辺境伯にして、エースターカイザーライヒ大公、そして神聖帝国皇帝陛下が、貴方様にお目にかかりたいそうです。


 これより私、金羊毛騎士団団長ヨハンが、宮殿までご案内いたします」


「……え、ええと」


 私は、目の前に立つ男を見上げた。


(いや)


(ちょっと待って)


 死んだはずなのに、知らない街の石畳に倒れている。


 そして目の前の男は、皇帝に会えと言っている。


「ちなみに団長さんって……偉い人ですよね?」


 恐る恐る尋ねる。


 すると彼は、にっこりと笑った。


「はい。マルク伯という地位を頂いております」


「…………」


 私は無言になった。


(いや、待って)


(私、ただの農家の娘の農業大学生なんですけど?)


(なんで私が、そんな人に案内されてるの?)


 そもそも――。


(辺境伯と大公と皇帝を兼任って、どういうことよ!?)


 情報量が多すぎる。


 頭が完全についていかない。


 そして。


 今になって、自分の服装がおかしいことに気づいた。


「……あの」


「はい」


「これ、誰が着せたんですか?」


「我々の者でございます」


「やっぱり……」


 大学で着ていた作業着――あのクソダサジャージ姿ではない。


 衿の詰まったシュミーズ。


 その上から、金属板を組み合わせたコルセット。


 さらにペチコート。


 その上から、ネックラインの低いウプランドという裾の長いローブ。


 見た目は、いかにも貴族らしい。


 問題は――。


(お腹が死ぬほど苦しい)


 息を吸う。


「すぅ……」


 ……浅い。


 もう一度。


「すぅ……」


 やっぱり苦しい。


(これで歩けっていうの?)


 金属板が胴体を容赦なく締めつける。


 立っているだけでも圧迫感がある。


(食事したら、もっと苦しいんじゃない?)


 私は思わず腹を押さえた。


「何かございましたか?」


「い、いえ」


 笑顔を作る。


(大丈夫じゃない)


(全然、大丈夫じゃない)


 そんなことを考えていると。


 私はふと、ヨハンを見た。


「……さっきから気になってるんですけど」


「はい」


迷い鳥フェアローレナー・フォーゲルって、何なんですか?」


 ヨハンは、少しだけ黙った。


「この世界とは異なる場所から現れた者を、そう呼んでおります」


「私みたいな人が、過去にも?」


「ええ」


「その人たちは……何をしたんですか?」


 ヨハンの表情が変わった。


「国を変えた者がおります」


「国を?」


「農地の使い方を改めさせた者。


 疫病を減らすため、井戸と便所の位置を変えさせた者。


 文字や計算を広めた者。


 新しい技術を伝えた者もおります」


「……へえ」


 どれも、派手な話ではない。


 だが。


 どれも、人の暮らしを変える力を持っている。


 私は黙って続きを待った。


「もちろん、良い結果ばかりではありません」


 ヨハンの声が低くなる。


「権力を奪った者。


 戦を起こした者。


 その知識が原因で、多くの人を死なせた者もおります」


「……」


 胸の奥が、ひやりとした。


「だからこそ、我々は迷い鳥フェアローレナー・フォーゲルを歓迎すると同時に、警戒もしているのです」


「……私も?」


「当然です」


 即答だった。


「まだ、あなた様が何を望んでいるのか分かりませんから」


 私は黙った。


 乱暴には扱われていない。


 むしろ、かなり丁重に扱われている。


 けれど。


 それは信用されているという意味ではない。


「……皇帝陛下も?」


「陛下が何をお考えなのかは、私には申し上げられません」


「じゃあ、どうして?」


「ただ――」


 ヨハンが、私の目を見る。


「陛下御自身が、直接お会いになりたいと仰せになりました」


「…………」


 それだけだった。


「私、農業大学生なんですけど」


「それは存じております」


「……農業大学生って、そんなに重要なんですか?」


「さあ」


 ヨハンは微笑んだ。


「それを確かめるために、陛下がお呼びになったのではないでしょうか」


「…………」


 やっぱり。


 上手くはぐらかされた。


 これ以上聞いても、答えてはくれそうにない。


 そのまま私は、近くの建物へ連れていかれた。


 そこで、大学の作業着――クソダサジャージから、今の衣装へと着替えさせられた。


 服を整えている間にも、私は何度も自分の身体を確認した。


 やっぱり苦しい。


 けれど。


 文句を言っている場合でもない。


 そして、女性が男性の姿をすることは、この国では問題になるらしいということも聞かされた。


「ラ・ピュセル・ドルレアンの異端認定って、女性でありながら男装していたことも理由の一つでしたっけ?」


「……」


 ヨハンが固まった。


「え?」


「え、ええ。そのとおりです」


「さすがは迷い鳥フェアローレナー・フォーゲルです」


「いえ、たぶんそうかなーと思っただけで……」


(いや、本当に)


(歴史の授業で聞いた気がするだけなんだけど)


 そして。


 私は二頭立ての、四輪の屋根付き乗用馬車――コーチの前に立っていた。


 艶のある木製の車体。


 磨き上げられた金属。


 革張りの座席。


 二頭の立派な馬。


 馬が鼻息を吐く。


 白い息が一瞬だけ浮かんだ。


「なんだか、ずいぶんお高そうな馬車ですけど……」


迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様のお乗りになる馬車としては不十分かもしれませんが、今はこれで我慢していただければ」


「いえ、私はもっと目立たない馬車のほうが……」


「大切な国賓である迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様を、みすぼらしい馬車に乗せるなど、あってはならないことです」


「うーん……」


 どう考えても目立つ。


 しかも高そうだ。


「ちなみに、この馬車ってお値段どのくらいなんでしょう?」


「およそ五百グルデン金貨ほどかと」


「…………」


 五百グルデン。


 具体的な価値は分からない。


 だから、私は聞いてみた。


「どのくらいのお金なんですか?」


「大きな取引に使われるほどの金額です。庶民が気軽に手にできる額ではありません」


「なるほど……」


 それなら十分だ。


 高級品なのは間違いない。


「ちなみに――」


 ヨハンが、さらりと言った。


「馬一頭も同程度の値段です」


「…………」


 私はゆっくりと馬を見た。


 立派な馬だ。


 筋肉が盛り上がり、毛並みも美しい。


 二頭いる。


(超高級品じゃない!?)


 私は思わず馬車と馬を交互に見た。


 これに私を乗せる?


 しかも国賓だから?


 ますます、この皇帝が何を考えているのか分からなくなった。


「あ、ですが」


 ヨハンが付け加えた。


「衣食住に関しては、我々が手配いたします。迷い鳥フェアローレナー・フォーゲル様がお金を使う必要はございません」


「え?」


「ですので、お金についての心配は無用ということです」


「は、はあ……」


 至れり尽くせりすぎて、逆に怖い。


「ここヴィーナー・ノイシュタットから帝都ヴィーナーまでは三十マイレほどです」


「三十マイレ?」


「馬車でゆっくり進めば二日ほど。途中で宿を取ります」


「結構ありますね」


「ですが、途中に温泉ボートゥン・バイ・ヴィーナーがございます」


「温泉!」


 思わず食いついた。


「そこで少し身体を休めていかれるとよいでしょう」


「それはとても助かります!」


 何より。


(この金属コルセットから解放されたい!)


 心の底からそう思った。


 馬車の扉が開く。


「どうぞ」


「はい」


 私は裾を踏まないよう注意しながら乗り込む。


 ……いや。


 コルセットのせいで身体が曲がらない。


「……っ」


「大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です!」


 なんとか身体を滑り込ませる。


 腰を下ろす。


 革張りの座席が身体を受け止めた。


(……あ)


 思ったより、ずっと柔らかい。


 扉が閉じられた。


 ――ガタン。


 馬車が動き出す。


 車輪が石畳を叩く。


 ――ゴトゴト。


 ――カッポ。


 私は窓から、ゆっくりと遠ざかっていく街並みを眺めた。


 石畳。


 行き交う人々。


 荷車。


 煙を吐く煙突。


 どれも、私の知っている日常にはないものだった。


 そして――。


 城門をくぐろうとした、そのとき。


 私は門に刻まれた文字へ目を向けた。


「……A.E.I.O.U.?」


 五つのアルファベット。


 見覚えがある。


「Austriae est imperare orbi universo……」


「おお!」


 隣にいたヨハンが声を上げた。


「読めるとは、流石でございますね」


「え?」


「意味がお分かりになるのですか?」


「いえ、たぶん……そういう意味かなーって思っただけで」


 私は苦笑した。


 けれど。


(A.E.I.O.U.)


 この文字列。


 そして、この街。


 私は頭の中の知識を必死にひっくり返した。


 ヴィーナー・ノイシュタット。


 ハプスブルク。


 神聖ローマ帝国。


 そして――。


(まさか)


 心臓が、どくんと鳴る。


(ここ……本当に十六世紀初頭のオーストリアなの?)


 窓の外を見る。


 城壁の向こうには、畑が広がっている。


 遠くに農民たちの姿が見える。


 土を耕している者。


 家畜を連れて歩く者。


 荷車を押す者。


 私は思わず、そちらへ身を乗り出した。


(どんな作物を作ってるんだろう)


(どんな土なんだろう)


(肥料は……?)


 気づけば。


 歴史のことより先に、そんなことを考えていた。


 私は農業大学生だった。


 だから。


 畑を見ると、どうしても気になる。


 作物。


 土。


 水。


 肥料。


 そんな、ごく当たり前のことが。


 この世界では、私にとって初めて見るものになる。


 ふと。


 ヨハンの言葉を思い出した。


『迷い鳥が降り立った場所で、何も変わらなかった例はない』


 私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。


 黒い髪。


 黒い瞳。


 金属のコルセットに締めつけられた、現代日本の農業大学生。


(……私に、何ができるんだろう)


 分からない。


 国を変えられるなんて、思えない。


 そもそも。


 私はまだ、自分がどうしてここへ来たのかすら分かっていない。


 それなのに。


 皇帝は私を呼んだ。


 しかも、わざわざ本人が会うという。


(……どうして?)


 馬車が揺れる。


 ――ゴトン。


 窓の外の景色が流れていく。


 ヴィーナー・ノイシュタットの街が、少しずつ遠ざかっていく。


 待っているのは、神聖ローマ帝国の皇帝。


 その皇帝が。


 私を見て、何を確かめるのか。


 何を尋ねるのか。


 何を恐れるのか。


 それは、まだ分からない。


 ただ。


 この人たちは、私を「偶然ここへ来た農業大学生」とは考えていない。


 そのことだけは、はっきりしていた。


 馬車は進む。


 ゴトゴトと音を立てながら。


 まだ見ぬ帝都へ。


 私はただ。


 皇帝陛下が、私を見て最初に何を言うのか。


 それだけを考えていた。

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