氷菓(ジェラート)とバニラ
さて。
肥料の問題については、ひとまず目処が立った。
そして私は、女料理長のローザリンデさんに頼み、商人を通じていくつかの種を集めてもらった。
トルコ小麦――つまり、とうもろこし。
タバコ。
唐辛子。
トマト。
パプリカ。
カボチャ。
ピーナッツ。
ひまわり。
いずれも、この世界ではまだ珍しい植物ばかりだ。
もちろん、勝手に栽培するわけにはいかない。
ヨハン様を通じてカール様たちに許可を取り、宮殿の庭園の一角を試験農園として使わせてもらうことになった。
今は、そこで少しずつ栽培を始めている。
「まずは土作りですね」
庭園を見ながら、私は呟いた。
牛に引かせたプラウで土を耕す。
そこへ種を撒く。
さらに肥料として、家畜の糞に藁などを混ぜ、発酵させて作った厩肥を施す。
足りなければ骨粉・魚骨粉も使う。
これなら、少なくとも作物を育てるための最低限の条件は整えられるはずだ。
「……あとは、ちゃんと育ってくれるかどうか」
結局のところ。
農業というのは、最後は自然との勝負なのだ。
頭の中でどれだけ知識を並べても、種を植えれば必ず育つわけではない。
気温。
雨。
日照。
土壌。
病害虫。
そして品種そのものの適応。
どれか一つでも噛み合わなければ、収穫は失敗する。
だからこそ、今は試すしかない。
「それに……」
私は庭園の隅へ視線を向けた。
そこには、最近作らせた調理器具が並んでいる。
こちらも、かなり順調だった。
耐火粘土を使ったテラコッタ製の焼き板――コマル。
タンドリー窯。
そして、タンドリー窯の構造を参考にして、焼き網を組み合わせた七輪。
何度も試作を繰り返してもらった結果、ようやく実用に耐えるものが完成した。
「煮るだけじゃなく、焼くこともできる」
これは地味に大きい。
鉄製の調理器具は高価だ。
庶民が簡単に買えるものではない。
しかし、土を成形して焼くのであれば、鉄器よりはるかに安く作れる。
もちろん耐久性では鉄に劣る。
それでも。
庶民の家庭に「焼く」という調理法を広めるには十分だろう。
実際、戦前の日本では七輪は各家庭で普通に使われていた。
「収穫できたら、色々と試してみたいですね」
私は、まだ小さな芽しか出ていない畑を眺めた。
とうもろこし。
カボチャ。
トマト。
唐辛子。
ピーナッツ。
ひまわり。
どれも、この世界の食卓を変える可能性を秘めている。
……うまく育てば、だけど。
そんなことを考えていたある日のことだった。
「ユーリ様、本日のデザートをお持ちしました」
食後。
ローザリンデさんが運んできたものを見て、私は思わず目を丸くした。
「これは……」
白く、半透明な氷菓。
器の中で、涼しげに輝いている。
「シャーベットですか?」
「はい」
ローザリンデさんが頷いた。
「暑くなってきましたので、今日は氷菓にしてみました」
「助かります」
私はスプーンを手に取った。
口に入れる。
「……冷たい」
当たり前だ。
しかし、暑い日に食べる冷たい甘味というのは、それだけで格別だった。
「ところで、どうやって作っているのでしょう?」
「ああ、それですか」
ローザリンデさんは少し得意そうな顔をした。
「冬の間に雪を雪室へ貯めておくのです。それでも足りない場合は、アルプスから運んできた雪を使います」
「なるほど」
「そして、その雪を敷き詰めまして……」
ローザリンデさんが説明してくれる。
「果物の果汁を入れた鉄製の器を雪の中へ置き、周囲の雪へ塩を振るのです」
「ああ」
私は思わず頷いた。
「氷と塩ですね」
「ご存じでしたか?」
「ええ。原理だけですが」
氷に塩を混ぜる。
すると、氷が融け始める。
そのとき周囲から熱を奪うため、温度が大きく下がる。
さらに塩水になることで凝固点も下がる。
いわゆる凝固点降下だ。
氷と塩を適切な割合で混ぜれば、マイナス十数度という低温まで作り出せる。
家庭用冷凍庫など存在しないこの世界では、とても便利な冷却方法だ。
「つまり……」
私はシャーベットを見つめた。
「雪と塩を使って、果汁を凍らせているわけですね」
「その通りです」
「なるほど」
これは面白い。
氷菓そのものは珍しくても、原理は非常に単純だ。
必要なのは雪と塩。
そして果物。
つまり、冷凍機械がなくても作れる。
もちろん、雪を大量に確保できる地域に限られる。
だからこそ、王族や貴族の贅沢品なのだろう。
私はシャーベットをもう一口食べた。
「……でも」
冷たい。
甘い。
美味しい。
だが――。
「これで農民の食料事情が改善するわけではありませんね」
「……はい?」
ローザリンデさんが首を傾げる。
「いえ、こちらの話です」
私は苦笑した。
そう。
氷菓は素晴らしい。
シャーベットも美味しい。
ジェラートだって食べてみたい。
だが、今の私が優先すべきなのはそこではない。
腹を空かせた人間に、冷たいデザートを与えても問題の解決にはならない。
まず必要なのは――食料そのものを増やすことだ。
……とはいえ。
「ジェラートくらいは、いつか作ってみたいですね」
「じぇらーと?」
「ええ」
私は遠い記憶を思い出す。
牛乳。
生クリーム。
砂糖。
卵。
そして果物。
これらを使って作る、滑らかで濃厚な冷たい菓子。
イタリアのジェラート。
その原型には、フィレンツェのメディチ家に仕えた建築家であり、美食家でもあったベルナルド・ブオンタレンティが関わったという説がある。
シャーベットから、より濃厚な乳製品の冷菓へ。
そう考えると、食文化の発展というのも面白い。
「ただ……」
私はそこで考えを止めた。
「今は後回しですね」
「後回し、ですか?」
「はい」
私は頷いた。
「食料生産が安定してからです」
バニラだってそうだ。
アイスクリームには欠かせない香り。
だが、その原料となるバニラは、この世界ではまだ簡単に手に入るものではない。
中央アメリカ原産の植物で、栽培も容易ではない。
しかも、現在この世界で使われているバニラは、飲み物などの香り付けに細々と利用されている程度だ。
それを大規模に栽培して、菓子文化まで発展させる。
――面白そうではある。
だが。
「今は必要ありませんね」
私はきっぱりと言った。
食料問題を解決する。
農民が十分な量を食べられるようにする。
そのための農業改革を進める。
それが最優先だ。
チューインガムも同じだ。
原料となるサポジラの樹液。
ゴムの木。
どちらも、この地域には存在しない。
そしてゴムを本格的に利用するなら、加硫という工程も必要になる。
未加硫ゴムは、そのままでは耐久性や弾性に問題がある。
硫黄などを使って加硫することで、ゴムとしての性能を大きく向上させる。
だが――。
「今の技術力で、そこまでやる必要はないでしょう」
私は首を振った。
できないわけではない。
ただ、優先順位が違う。
農業。
食料。
保存。
調理。
そして衛生。
まずは、こちらだ。
贅沢品や新しい産業は、その後でいい。
「……とはいえ」
私は、庭園の試験畑を見る。
小さな芽が、土から顔を出していた。
「これが全部うまくいったら……」
とうもろこし。
トマト。
カボチャ。
ピーナッツ。
唐辛子。
ひまわり。
そして、それらを使った新しい料理。
焼くためのコマル。
七輪。
保存技術。
肥料。
農具。
少しずつだけれど、確実に変化が積み重なっている。
「……食卓そのものを変えられるかもしれませんね」
私がそう呟いた、そのときだった。
「ユーリ様!」
庭園の向こうから、農作業を手伝っていた若者が走ってくる。
「どうしました?」
「芽が……!」
「芽が?」
「とうもろこしの芽が、昨日よりずっと大きくなっています!」
「……本当ですか?」
私は思わず立ち上がった。
シャーベットのことなど、頭から消えていた。
私は急いで畑へ向かう。
土から伸びた、小さな緑の芽。
まだ弱々しい。
けれど確かに、生きている。
「……よし」
私は拳を握った。
「まずは第一歩ですね」
冷たいデザートよりも。
豪華な菓子よりも。
今の私にとって、この小さな芽のほうがずっと嬉しかった。
というわけで今回は氷菓とバニラ、おまけにチューインガムですが、この時点で食糧事情の改善に寄与しないのでスルーですね。
ただバニラはデザートのフレーバーとして大きな影響を与えたのも事実だと思います。




