温泉とトルコ小麦
さて、馬車で揺られることおよそ4時間ほどで、ボートゥン・バイ・ヴィーナーの街へと到着しました。
ここは温泉のある療養のための街のはずですが、周囲にはブドウ畑などの畑が広がっていますね。
私の様子を見ていたヨハンさんが説明してくれました。
「ボートゥン・バイ・ヴィーナーの周辺にはワインを作るためのぶどう畑や麦畑などが広がっています。
そういった場所で働く者たちが自分で食べるため、最近ではトルコ小麦を植えるものも増えてきたようです」
「なるほど。
ここにはブドウやワインを作る人たちも住んでいるんですね」
「それはそうです。
その他に牛や豚、鶏などを育てているものもいますね」
ボートゥンは英語で言うところのバス、すなわち浴場を示す言葉で、ヴィーナーはおそらくウィーンを示すので、名前としてはウィーンの側の浴場という意味になる。
たしかここは古代ローマ時代からローマ人によって温泉が発見され、21世紀の現在でも温泉療養として使われている場所なのですよね。
さらには、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ヨハンシュトラウスなどオーストリアと縁が深い多くの作曲家も滞在していたりする。
硫黄泉特有の卵の腐ったよ言うな匂いがかすかにするけど、まあ日本人にはそこそこ馴染みの匂いなので、そんな忌避感はない。
それよりも……でかい館に横付けされた私はようやく馬車から降りることができた。
この時代は道は舗装されていないし、馬車にサスペンションも装備されてないのでとてもおしりが痛い。
そして……。
「ようやくこの拷問具のような、拘束具のようなコルセットが外せそうですね」
私がホッとしながらそう言うとヨハンさんが申し訳無さそうに言った。
ちなみにこのでかい館はヨハンさんの持ってる別荘らしい。
「どうやらあまり、普段からコルセットは身につけておられなかったようで申し訳ございません。
ですが、当面の間はつけていただくことになります」
「そうですね。
できれば食事のときぐらいは外したいものですが……駄目なのですか?」
「それはちょっと……申し訳ありません」
「はあ、それがこの時代のマナーというものだから仕方ないのでしょうけど」
この時代では高貴な女性はウエストが細ければ細いほど良いとされ、ウエスト40センチ代なんてのがごろごろいるらしいですからねぇ。
正直に言えば現状は監禁というほどではないものの自由のほとんどない軟禁に近い状況の気がするんですけど、あちらとしては最大限丁寧に扱っているのでしょうし、いきなり放り出されても生きていける自信もないですしね。
「では、温泉に入って体を休めていただいたあと夕食を取りましょう。
その後は謁見用のウプランドを仕立てるといたしましょう」
その言葉に私は驚く。
「え?」
「今の服は間に合せで用意したものですので地味すぎます」
「え、そんなことはないんじゃ?」
「いえ、絹に金糸銀糸を織りこみ、真珠などの宝飾品を飾ったものくらいでなければ迷い鳥様である貴方様には釣り合いが取れません」
「いやいやいや、逆に私の方が釣り合いが取れませんってば」
「高貴な女性は豪華な布地にさらに貴金属や宝石を飾るのが当然なのです。
ここは私の顔を立ててはいただけないでしょうか」
「はぁ、わかりました。
なんかもう好きにしてください」
なんというか常識が違いすぎる。
「お疲れ様でございました。
マルク伯」
そうヨハンさんに挨拶をしているのは中年の女性。
「ああ、エレオノーラ。
この方が迷い鳥様だ。
温泉の案内の後、彼女の身だしなみを整えておいてくれるか」
「承知いたしました。
では、迷い鳥様、温泉へ向かいましょう。
どうぞこちらへ」
「あ、はい」
温泉施設までは護衛の金羊毛騎士団の騎士様数名とともに少し歩くことになったが、馬車に揺られているよりはずっと楽だし、窮屈なコルセットをやっと脱ぐことができた私は36度から38度ほどの温めの温泉を十分に堪能した。
ただオーストリアの水って硬水だから下手に髪の毛とかを洗うと髪の毛ががさがさになってしまうかもしれないのですよね。
なので頭のうえで丸めた髪の毛は洗えないです。
それだけが残念。
ちなみにこの時代だと温泉でに泊まり込みで湯治をするなんてことができるのは富裕層だけなのでそれなりに立派な別荘のようなものが他にも沢山ある。
帰り道、その中でもひときわ大きな館を見ながら私は聞いてみた。
「あそこはずいぶんと大きな館ですね」
私がそうきくとエレオノーラさんが教えてくれた。
「あそこはフリードリヒ3世陛下が建てられたお館ですからね」
ああ、A.E.I.O.U.というのは、15世紀のハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が好んで用いた略語句だったはずですがこの街に都市権を与えたのも彼何でしたっけ。
「あそこは皇帝陛下の別荘というわけですか……」
「あとは金羊毛騎士団や聖ゲオルク騎士団、摂政や枢機卿などに所属している方々の別荘などですね。
多くは王・公・候・伯といった方々です」
「なんだかとっても気が休まらなくなってしまったのですが……」
そんな事を言いながらあるいていると必死な声が私達にかけられた。
「あ、あの、お人形買っていただけませんか?」
素朴な人形を手にした小さな女の子が私達に声をかけてきていた。
「お父さんが倒れてしまって……弟もろくに食事を取れていないんです。
だから、どうかお人形を買っていただけませんか?」
この世界だと傷病手当も生活保護もないだろうから、このままだとこの女の子の家族は……餓死しかねないってことかな。
といっても今の私ではこの子の家族を雇ったり、養ったりすることができるわけではないのだけど。
「ヨハン様、この子の人形、2グルデン金貨で買ってあげてくれませんか?」
「え?
私は構いませんが……あれはトルコ小麦の皮で作られた人形でそんな高いものではないですよ」
この時代だと木製、布製、蜜蝋製の人形と共に木の皮や麦わら、トウモロコシの皮を材料にした人形も作られていたはずですね。
「2グルデン金貨あれば家族がなんとか一ヶ月は暮らしていけるんですよね?」
「ええ、といってもそれだけではこの子の親の治療費までは出せないでしょう
「それは……たしかに。
でもほおって置くのも可愛そうですし、私のできる範囲で何とかしたいなとは思うのです」
「かしこまりました。
迷い鳥様であればきっと良い知恵をお持ちなのでしょう」
「い、いや、そういうわけでもないのですが」
私は医者じゃないからこの女の子のお父さんの病気を治すことはできるかどうかわからない。
けど、トルコ小麦、つまりトウモロコシが原因なら対処法はあるかもしれないのですよね。
「ええと、あなたのお父さん、腕などの陽の光が当たるところにやけどのようなものができていませんか?」
「はい、お父さんの腕は真っ赤です」
とするとこの子の父親の病気はペラグラの可能性が高そう。
ペラグラはトウモロコシにナイアシンやその前駆体であるトリプトファンがほとんど含まれていないことで起こる栄養失調症の一種だ。
この病気でトウモロコシの栽培量が飛躍的に増えた18世紀から20世紀前半ぐらいまで、かなりの死者が出ていた。
日本の場合だと江戸時代に江戸の町で精白された白米を食べるようになり、やはり20世紀前半くらいまで患者が多かった脚気ににている。
ナイアシンは肉や魚、卵や乳製品、あるいはキノコに多く含まれているので、そういったものと一緒にトウモロコシを食べていても発症しないが、貧しいとトウモロコシと野菜や豆しか食えないという場合も多いのですよね。
この時代だと狩猟や漁労は基本的に農民には認められていないはずですし、21世紀の現代と違い鶏などはたくさん卵を産むわけでもないはずですし。
そして、この頃は腐敗しやすい牛乳を飲む習慣はほとんどないが、乳牛と肉牛が別れ始め、バターやチーズはそれなりに貧しくても一年中食べられる食材だったはず。
「ちなみにあなたたちは普段は何を食べているのかな?」
「トルコ小麦のプルテスです」
「プルテスというとイタリアで言うとポレンタと呼ばれる、粉にしたトウモロコシのスープと言うかおかゆと言うかその中間みたいなたべものでしたか」
「イタリアのことはわからないけど、多分そうです」
「そっか、そうしたらそれを作るときにキノコかチーズを入れて食べるようにしてみて。
そうすればきっと治るから」
「お父さんの腕治るの?」
「すぐにはなおらないかもしれないけどね。
後、トルコ小麦が余ってるならヤギか乳牛を飼って余ったトルコ小麦を食べさせてみて」
「うん!」
オーストリアやチェコでトウモロコシの生産量が増えるのは18世紀にマリア・テレジアが増産を指示してからのはずですが、16世紀には北部イタリアなどでは救済作物としてすでにかなり普及し、それまで栽培されていた雑穀のキビやソバと入れ替わって行ったはずなのですよね。
ペラグラを防ぐには石灰岩を使ったアルカリ処理をすればいいはずですし、この国でも早めにトウモロコシの栽培量を増やしたほうがいいと思います。
トウモロコシは21世紀では麦や稲と並ぶ三大穀物ですが、その生産量は抜きん出て多く家畜の飼料としても優秀ですからね。
近世以降ヨーロッパの食糧事情を改善するための大きな役割を果たしたのは実はジャガイモではなく、トウモロコシなのです。
「迷い鳥様。
今日はこちらで過ごし、帝都へは明日向かいましょう」
「わかりました」
今日は鉄のコルセットが外せそうですがまた明日つけ直すのは気がめいりますね
と言うわけで、私としてはコロンブス交換でヨーロッパに入ってきた農作物で最も大きい影響があったと思っているトウモロコシについてかいてみました。
食料問題の解決に芋ばかりが取り上げられるのはなんだかななので、個人的にはこれがかけて満足だったりします。