食料庫は今年を守る。種子庫は来年を守る
結局。
その日の刺繍の練習が終わったのは、夕方近くになってからだった。
「……疲れた」
私は椅子の背もたれに身体を預けた。
たった一枚の布に、葉っぱの模様を刺繍しただけ。
それなのに、肩は凝るし、目は疲れる。
「お疲れさまでした」
向かいに座るマリアさんは、いつものように穏やかな笑顔を浮かべている。
「ですが、明日は今日より難しい図案に進みますので」
「……え?」
「本日は基本的な葉の模様でしたから」
「明日は?」
「花です」
「…………」
私は無言で机の上を見る。
小さな布。
細い糸。
そして針。
どうしてこんな小さなものに、ここまで苦戦するのだろう。
料理なら、頭の中でいくらでも工夫できる。
農業なら、畑を見ながら試行錯誤できる。
けれど芸術だけは――。
どうにもならない。
私には、圧倒的に才能がないらしい。
そんなことを考えていると。
「ユーリ様」
廊下から声がした。
イサベルさんだ。
「はい?」
「ローザリンデ殿から伝言がございます」
「ローザリンデさんから?」
私は顔を上げた。
「はい。先ほど、庭師たちと話をされたそうです」
来た。
私は勢いよく立ち上がった。
「それで?」
「詳しい話は食堂で聞いてほしいとのことです」
「分かりました。すぐ行きます」
刺繍のことなど、一瞬で頭から消えた。
マリアさんが呆れたように笑う。
「……ユーリ様は、本当に農業のお話がお好きなのですね」
「はい!」
即答だった。
食堂へ向かうと、すでにローザリンデさんが待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ」
ローザリンデさんは立ち上がり、軽く頭を下げる。
「それで、どうでした?」
「はい。庭師たちに確認したところ――」
ローザリンデさんは、少しだけ言葉を選んだ。
「ピーナッツもヒマワリも、この宮殿では常用されていないとのことでした」
「……ありませんでしたか」
「ただし」
「ただし?」
「完全に未知の植物というわけではないそうです」
私は目を見開いた。
「本当ですか?」
「はい」
ローザリンデさんが頷く。
「ヒマワリについては、珍しい花として知っている者がいるそうです。大きな花を咲かせるため、観賞用として扱われることもあるとか」
「なるほど……」
それなら可能性はある。
少なくとも、誰も知らない植物というわけではない。
「種は?」
「そこまでは分かりませんでした」
「ピーナッツのほうは?」
「こちらは、さらに曖昧です」
ローザリンデさんが困ったような顔をする。
「名前を聞いたことがあるという者はおりましたが、食用として宮廷厨房で使った経験はないそうです」
「つまり……」
私は腕を組んだ。
「存在は知られていても、食材としては定着していない」
「おそらく、そのような状況です」
これは、逆に好都合かもしれない。
少なくとも――。
「この地方には絶対に存在しない、というわけではないんですね?」
「はい」
ならば、探す価値はある。
「入手する方法は?」
「庭師の話では、商人に尋ねるのが早いのではないかとのことでした」
「商人……」
私は考える。
ここは帝都だ。
周辺の農村だけではない。
遠く離れた土地からも、さまざまな品物が集まってくる。
ならば。
「植物の種を扱う商人に、心当たりはありませんか?」
「いくつかございます」
ローザリンデさんが答える。
「ただ、珍しいものになりますので、相応の値段になる可能性があります」
「それくらいなら構いません」
「……よろしいのですか?」
「はい」
私は頷いた。
「試してみないことには始まりませんから」
問題は費用ではない。
農民が買える値段である必要も、最初からない。
まずは私たちが買えばいい。
種を確保する。
試験的に育てる。
収穫する。
そして――増やす。
それができればいい。
「あと、もう一つお願いがあります」
「なんでしょう?」
「もし種が手に入ったら、庭師の方たちに栽培試験をお願いしたいんです」
「栽培試験、ですか?」
「はい」
私はテーブルの上に指を置いた。
「同じ種でも、土や水の量、植える時期で結果が変わります」
「なるほど」
「だから最初から一つの畑に全部植えるのではなく、条件を変えた区画を作って、どこが一番育つのか確認したいんです」
口にしてみると。
もはや完全に農業試験場だった。
でも――。
本気でこの国の農業を変えるつもりなら、それくらい必要だろう。
「ユーリ様」
そこで、イサベルさんが口を挟んだ。
「そこまでされるのであれば、陛下へ報告したほうがよろしいのでは?」
「……」
確かに、その通りだ。
勝手に宮殿の土地を使うわけにもいかない。
そして、もし成功したなら。
ピーナッツやヒマワリを、私一人の趣味で終わらせるのはもったいない。
「そうですね」
私は頷いた。
「明日、フェルディナンドさんに相談してみます」
すると――。
「その必要はないかもしれません」
「え?」
食堂の入口から声がした。
振り返る。
そこには、一人の侍従が立っていた。
「陛下がお呼びです」
「……私を?」
「はい」
侍従は一礼する。
「農業について、相談したいことがあるとのことです」
私は思わずローザリンデさんと顔を見合わせた。
農業。
そして、陛下からの呼び出し。
嫌な予感しかしない。
いや。
最近の流れを考えれば、たぶん悪い話ではない。
「分かりました」
私は立ち上がった。
そして、ふと思い出して振り返る。
「ローザリンデさん」
「はい」
「ピーナッツとヒマワリについて、商人への確認を進めておいてください」
「承知しました」
「それと――」
私は少し考える。
「トウモロコシについても、もう少し調理法を増やしましょう」
「はい!」
ローザリンデさんの顔が明るくなった。
私はそのまま食堂を出る。
ピーナッツ。
ヒマワリ。
トウモロコシ。
そして、農民の食生活。
まだ何も始まっていない。
けれど――。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど。
この国の「食べる」という当たり前そのものを、変えられる気がしてきた。
そして、その先には――。
食料そのものの作り方を変える、大きな改革が待っている。
そんな予感がしていた。
◇
侍従に案内され、私は再び謁見の間へ向かっていた。
農業について相談したい。
そう聞かされている。
だが――。
「一体、何の話でしょう?」
「私にも分かりません」
隣を歩くイサベルさんも首を傾げる。
「ただ、フェルディナンド様も同席されるそうです」
「……余計に気になりますね」
私は小さく息を吐いた。
やがて、大きな扉の前へ到着する。
「ユーリ様がお見えになりました」
「入れ」
中から声が返ってきた。
扉が開く。
「失礼します」
中へ入ると。
そこには皇帝陛下。
フェルディナンドさん。
そして数人の重臣がいた。
「来たか、ユーリ」
「はい」
私は一礼する。
「農業の相談だと伺いましたが」
「そうだ」
陛下が頷く。
そして――。
「東部から、新しい報告が届いた」
「……東部?」
思わず表情が強張った。
最近、東部では穀倉地帯が襲撃を受けている。
その後も調査は続いていた。
「襲撃事件と関係があるのでしょうか?」
「直接の関係は、まだ分からん」
フェルディナンドさんが答える。
「だが、今回の報告には気になることが書かれている」
「気になること?」
フェルディナンドさんが、一枚の書状を差し出した。
「東部の農村で、今年の収穫量が例年より少なくなる可能性があるそうです」
「……収穫量が?」
私は書状を受け取った。
そこには複数の村の収穫予測が記されていた。
麦。
豆。
野菜。
家畜。
どれも、致命的な不作というわけではない。
しかし――。
「少しずつ、落ちていますね」
「そうだ」
陛下が答える。
「一つの村だけなら問題ではない。しかし、複数の地域で似た傾向が出ている」
私は数字を追った。
今年だけではない。
前年。
その前年。
ほんの少しずつだが、生産量が落ちている地域がある。
「……これは、土地の問題でしょうか?」
「それも調べている」
フェルディナンドさんが答えた。
「だが、我々が気になっているのは別のところだ」
「別のところ?」
「農民が、種として残すはずの作物まで食料として使っているのです」
「……!」
私は顔を上げた。
「来年のために残しておく種まで、今年食べている?」
「そうだ」
陛下が静かに頷いた。
「収穫が少ない」
フェルディナンドさんが続ける。
「だから食料が足りない」
「食料が足りないから、種まで食べる」
「そして翌年の作付けが減る」
「さらに収穫が減る……」
私は言葉を失った。
悪循環だ。
単純な食料不足ではない。
種子を残せないほど、農民が追い詰められていることが問題なのだ。
「つまり……」
私は書状を見つめる。
「農業の問題というより、農民が食べていけないことそのものが問題になっている」
「その通りだ」
陛下が頷いた。
「だから我々は、ユーリに相談したい」
「私に?」
「そうだ」
私は腕を組んだ。
これは――。
思っていたより、ずっと大きな問題だ。
単純に新しい作物を増やせば解決するわけではない。
収穫したものを食べる。
食べるから種がなくなる。
種がないから植えられない。
植えられないから収穫できない。
そしてまた食料がなくなる。
完全な負の循環だった。
「……まずは、この悪循環を止める必要があります」
「具体的には?」
フェルディナンドさんが尋ねる。
私は少し考えた。
「食用の穀物と、種として残す作物を分けることです」
「しかし、収穫そのものが足りないのでは?」
「だからこそ、別の食料を増やすんです」
私は答えた。
「麦だけに頼らない」
「……」
「トウモロコシも使えるようにする」
「……なるほど」
「豆類も増やす。芋類も使う。そして――」
私は一瞬だけ言葉を止めた。
「ピーナッツやヒマワリも試してみたいです」
「それが先ほど話していたものか?」
「はい」
陛下が興味深そうに私を見る。
「どのような作物なのだ?」
「うまく育てば、農民の食生活を支える助けになります」
私は答えた。
「ただし、まだこの土地で栽培できると決まったわけではありません」
「つまり、実験から始める必要がある」
「はい」
私は頷いた。
そして、さらに一つの考えが浮かんだ。
「陛下」
「何だ?」
「種を食べてしまうほど困っている地域があるなら、国が種子を備蓄する制度を作れませんか?」
「種子を?」
「はい」
私は地図へ視線を向けた。
「収穫の一部を税として集めるだけではなく、来年の作付け用として一定量を別に保管するんです」
「……種籾のようなものか」
「それを国が管理します」
フェルディナンドさんが考え込む。
「凶作になったときに、その備蓄種を農民へ戻す……」
「そうです」
私は頷いた。
「食料を備蓄するだけではなく、『来年、植えるための種』も備蓄するんです」
部屋が静まり返った。
私は続ける。
「食料庫は、今年の命を守ります」
「……」
「でも、種子庫は――」
一度、言葉を切る。
「来年の収穫を守ります」
陛下の表情が変わった。
「面白い考えだ」
「しかも、それなら農民が種を食べてしまうことを防げます」
「ただし、種子の品質を維持しなければならない」
「はい」
私は頷いた。
「だからこそ、今のうちに仕組みを作っておくんです」
食料問題。
農業改革。
そして国家の備蓄。
気がつけば、話は一つの作物の話ではなくなっていた。
「ユーリ」
陛下が私を呼ぶ。
「はい」
「お前なら、この問題をどうする?」
「……」
私は少しだけ考えた。
そして、答える。
「一つの方法に頼らないことです」
「一つの方法に?」
「はい」
麦だけでは駄目。
トウモロコシだけでも駄目。
芋だけでも駄目。
肉だけでも駄目。
だから――。
「いくつもの作物を育てて、いくつもの食べ方を用意して、いくつもの場所に備蓄するんです」
私は地図の上へ手を置いた。
「一つが失敗しても、全部が失敗しないようにする」
陛下はしばらく黙っていた。
やがて――。
「……それを農業政策にできるか?」
私は顔を上げた。
「やってみます」
その瞬間。
私の中で、何かが変わった。
これまでは。
目の前の農民が食べられる料理を考えていた。
新しい作物を試そうとしていた。
畑を増やす方法を考えていた。
けれど――。
もう、それだけではない。
料理から始まった食料改革は。
いつの間にか、国そのものの農業政策になろうとしていた。
そして私は、まだ知らなかった。
この決断が。
やがて帝国の農業そのものを、大きく変えることになるとは――。




