ナイアシンとピーナッツとひまわり
さて。
あのあと宮殿に戻った私ですが、
私に「仕える女性」を紹介されてから、一週間ほどが経った。
その間、私は何をしていたのかというと――。
「もう一度、背筋を伸ばしてください」
「はい!」
「扇の持ち方が違います」
「はい!」
「殿方と会話するときは、相手の目を見すぎてもいけません」
「……はい」
女家庭教師のマリアさん。
そして女相談役のイサベルさん。
二人から、みっちりと教養や芸術、社交の礼儀作法を叩き込まれていた。
正直、かなり大変である。
ただ、幸いなこともあった。
どうやらこの世界へ飛ばされたとき、私は「どのような言語でも読み書きできる」という妙な能力まで手に入れていたらしい。
ドイツ語やラテン語、ギリシア語はもちろん。
ヘブライ語やアラム語といった、聖書関連で使われる言語まで普通に読める。
しかも、会話も同じだった。
ホープスブルグ宮殿にはヨーロッパ各国の大使が来ているが、彼らと話をしていても、言葉の壁で困ることはほとんどない。
「……言語だけなら、下手をすると宮廷の通訳より便利なのでは?」
そんなことを言われたくらいだ。
もっとも。
「これはどういう意味ですか?」
「……」
「では、こちらは?」
「……」
数学や世界史レベルの地理についても質問されると、今度は向こうが驚いていた。
大学までに習う程度の知識なら、私にとっては特別な勉強をしなくても答えられる。
どうやらこの世界の貴族教育と比べると、私の知識はかなり過剰だったらしい。
そのせいで、たまにマリアさんが頭を抱える。
「ユーリ様は、どうしてそんなことまでご存じなのですか?」
「……前に勉強したから?」
「その『前』が気になります……」
聞かないでください。
私にも説明できないのだから。
世界地理についても、だいたいのことは教えてもらった。
大雑把に言えば、オットマン帝国の東にはサファヴィー教国。
さらにその東にはムガールバーラト――いわゆるインド方面の大帝国があり、そのさらに東にはムイーンスィーン――つまり中国に相当する大国が存在する。
バーラトの北にはタルタロス人。
いわゆる遊牧民族たちが広く暮らしているらしい。
ヨーロッパについては、私が知っている十六世紀の世界と大きくは違わないようだった。
もっとも。
「アン・ブリン……」
その名前を思い出すと、私は少し複雑な気分になる。
もう少し後の時代だったはずだが、イングランドでは彼女の存在がきっかけとなって、大きな宗教改革が起こる。
つまり。
この世界の歴史は、私の知っている歴史と完全に同じわけではないが、それでもかなり似た道を進んでいるらしい。
だからこそ、私はうかつに歴史へ手を出すつもりはなかった。
知識はあっても、この世界で何が起こるのかまでは分からない。
未来を知っているつもりで動いて、逆に取り返しのつかないことになる可能性だってある。
それに――。
「芸術は、本当に苦手ですね」
「……返す言葉もありません」
楽器演奏。
絵画。
刺繍。
そして宮廷での礼儀作法。
このあたりは、完全に別問題だった。
知識として知っていることと、自分で実際にできることは違う。
特に刺繍など、針を持った瞬間に指が思うように動かない。
「これは……才能がないのでは?」
「経験が足りないだけです」
「本当ですか?」
「たぶん」
……たぶんって何ですか。
とはいえ、救いもある。
この時代はまだ後世ほど宮廷作法が複雑に体系化されているわけではない。
オーストリアも、フランスの宮廷のように大規模な祝宴や催事を頻繁に行っているわけではないため、覚えなければならないことは比較的少ない。
これがビクトリア朝時代のイギリスだったり、絶対王政期のフランスだったりしたら――。
考えるだけで恐ろしい。
「宮廷作法だけで一年かかるのでは?」
「さすがにそこまでは……」
イサベルさんが苦笑する。
そんな話をしながら、私の頭の中では別のことがずっと引っかかっていた。
食料問題。
特に――トウモロコシだ。
料理長たちと話し合い、調理法を試していく中で、一つの問題が見えてきた。
トウモロコシは便利な作物だ。
収量も期待できる。
保存もしやすい。
それなのに、それだけを主食にしてしまうと栄養面で問題が出る。
特に、ナイアシンの不足だ。
そこで私は、女料理人のローザリンデさんに相談してみた。
肉。
魚。
卵。
乳製品。
どれも栄養補給には使える。
けれど――毎日、貧しい農民がそんなものを食べられるわけではない。
「もっと安くて、手に入りやすいものは……」
そこで私は、ふと思い出した。
「そうだ」
ナッツだ。
正確には、ナッツと種子。
中でもピーナッツは、栄養価が高く、ナイアシンも豊富な食材だ。
ヒマワリの種にもナイアシンは含まれている。
実際、現代の食品データを見ても、ピーナッツはナイアシンの供給源として知られているし、ヒマワリの種にもかなりの量が含まれている。
「だったら……」
私は少しずつ可能性が見えてきた気がした。
ヨーロッパでは、ヘーゼルナッツ、アーモンド、クルミ、ピスタチオ、松の実など、昔から食べられているナッツ類は多い。
しかし、これらは基本的に樹木から採れる実だ。
植えてすぐ収穫できるわけではない。
それに比べれば、ピーナッツは一年草だ。
ヒマワリも一年草。
つまり。
「短期間で収穫できる」
ここが大きい。
しかもピーナッツは豆の仲間だ。
根に共生する根粒菌の働きによって、空気中の窒素を利用できる形に変えて植物の生育に役立てる。
もちろん、だからといって「どんな土地でも育つ」というわけではない。
温暖な気候が必要だし、排水の悪い土地にも向いていない。
それでも、条件さえ合えば比較的育てやすく、種子そのものにも脂質やタンパク質が含まれている。
「……これ、結構すごい作物なのでは?」
私は思わず呟いた。
麦やトウモロコシなどの穀物と組み合わせれば、食生活に不足しがちな栄養を補う助けにもなる。
ただし――問題は、この土地で育つかどうかだ。
ヨーロッパ全体で見れば、ピーナッツ栽培は気候条件の制約を受ける。
特に寒冷な地域では厳しい。
けれど。
「オーストリア周辺なら、可能性はゼロではない……?」
私は首を傾げた。
土壌や気候は場所によって大きく違う。
だからこそ、実際に試してみなければ分からない。
私はそこで、あることを思い出した。
ウィーン周辺には火山活動の影響を受けた地域も存在する。
スロバキア方面を含め、中央ヨーロッパには火山性の地質が広がっている地域がある。
ならば――。
「土壌条件を調べてみる価値はあるかもしれませんね」
私は一人で頷いた。
そして、もう一つ。
ヒマワリだ。
こちらも一年草で、種子を大量に採れる可能性がある。
「もし、この二つが育てられたら……」
食料事情が大きく変わるかもしれない。
そんなことを考えながら、私はローザリンデさんに尋ねた。
「ローザリンデさん」
「はい?」
「あー……ピーナッツ《エーアトヌス》と、ヒマワリ《ゾンネンブルーメ》って、このあたりでも手に入るでしょうか?」
「以前にも同じようなことを尋ねられましたが……」
ローザリンデさんは少し困った顔をした。
「私は料理人ですので。庭師ほど植物には詳しくございません」
「なるほど」
それなら話は早い。
「では、庭師に確認してもらえますか?」
「承知しました」
「できれば種子が手に入るかも調べてください。それと、栽培できそうな場所があるかどうかも」
「かしこまりました」
ローザリンデさんが頭を下げる。
私はその背中を見送りながら、頭の中で次々と料理を思い浮かべていた。
もしピーナッツが手に入るなら。
すり鉢で細かく潰して――。
「ピーナッツバターが作れる」
パンに塗ってもいい。
ポレンタに混ぜてもいい。
ペーストにして、料理に加えてもいい。
何より、特別な設備がなくても加工できる。
「これは使える……」
私は思わず笑った。
もちろん、ピーナッツだけ食べていればすべての栄養問題が解決するわけではない。
だが、食料事情が厳しい農民にとっては、一つでも多くの「栄養を補える、安くて作りやすい作物」があることは大きい。
トウモロコシ。
ポレンタ。
ピーナッツ。
ヒマワリ。
そして――。
「まだまだ、探せそうですね」
私はそう呟いた。
農業改革というのは、単に畑に新しい作物を植えることではない。
どう育てるか。
どう保存するか。
どう食べるか。
そして、どう組み合わせるか。
そこまで考えて初めて、本当の意味で人の腹を満たせるのだ。
……問題は。
「その前に、刺繍をもう一度練習しないといけないんですけどね」
「聞こえていますよ、ユーリ様」
「……はい」
扉の向こうから、マリアさんの声がした。
どうやら私の自由時間は、まだ終わっていないらしい。
はい、今回はピーナッツとヒマワリの種を取り上げてみました。
栽培期間が短く多量に収穫できるナッツ的な食材というものの与えた影響はじつは小さくなかったりするんですよね。
この話で入れてませんがパンプキンシードも同様だったりします。




