トウモロコシは危険じゃない。問題は食べ方だった
「では、トウモロコシは?」
私が尋ねると。
女性の表情が、ほんの少し曇った。
「……トウモロコシですか?」
「はい」
私は畑へ視線を向ける。
そこには、見渡す限りトウモロコシが実っている。
これだけの量が収穫できるのなら、食料としてかなり頼りになるはずだ。
なのに。
「あれだけたくさん実っているのに、あまり食べないんですか?」
「食べないわけではありません」
女性は小さく首を振った。
「ですが……なるべく、食べすぎないようにしています」
「どうしてですか?」
その問いに。
女性は少し迷ってから、視線を落とした。
「……主人が、昔ひどい病気になったことがあるんです」
「病気?」
「はい」
その瞬間。
隣にいた少女も、俯いた。
「お父さん……」
私は少女を見る。
「もしかして、以前言っていた……人形を売ろうとしていた理由も?」
少女は小さく頷いた。
「あの時、お父さんのためにお薬を買いたかったの」
「……そうだったんですね」
あの時の出来事が、ここにつながっていたのか。
私は胸の奥が重くなるのを感じた。
「トウモロコシを、たくさん食べていた頃です」
「…………」
私は息を呑んだ。
「最初は、ただ身体が弱っているだけだと思っていました」
母親は静かに話し始めた。
「疲れやすくなって……手足が痛いと言うようになって」
「…………」
「そのうち、皮膚まで赤くなってきました」
私は黙って聞いていた。
「お腹も壊すようになって……。食べても食べても痩せていくんです」
「それは……」
「最後には、何をするにも億劫になってしまって」
母親の声が震えた。
「私たちは、もう助からないんじゃないかと思いました」
少女が、母親の服の裾を握る。
「お父さん、ずっと寝てたよね……」
「ええ」
母親は頷いた。
「だから、この村では言われているんです」
「何と?」
「トウモロコシを食べすぎると、病気になる、と」
「…………」
私は言葉を失った。
皮膚炎。
下痢。
全身の衰弱。
私は以前聞いた父親の症状を思い出す。
現代の知識から考えれば――。
「……ペラグラ、かもしれません」
「ペラグラ?」
「病気の名前です」
私は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、私は医者ではありません。実際に診察したわけでもありませんから、断言はできません」
「…………」
「でも、症状だけを見ると、その可能性はかなり高いと思います」
母親は黙って私を見る。
「……お父さんは、その後どうなったんですか?」
「しばらくして、少しずつ良くなりました」
「良くなった?」
「はい」
母親は頷いた。
「トウモロコシを食べる量を減らして、麦のパンや豆、それに肉や乳を食べるようになってからです」
「…………!」
私は思わず顔を上げた。
やっぱりだ。
ここには、大きな手掛かりがある。
「今は?」
「今は、普通に働けるまでになりました」
「そうですか……」
私は胸を撫で下ろした。
だが。
安心している場合ではない。
むしろ――。
ここからが重要だ。
「では」
私はゆっくり尋ねる。
「トウモロコシを食べたから、病気になったとは限らないのではありませんか?」
「……え?」
母親が、不思議そうな顔をする。
「お父さんは、トウモロコシばかり食べていたんですよね?」
「はい」
「そして、麦や豆、肉や乳を食べるようになったら良くなった」
「はい……」
「だったら」
私は畑を見る。
風に揺れる、無数のトウモロコシ。
「問題は、トウモロコシそのものではなく――食事の偏りなのかもしれません」
「食事の……偏り?」
「はい」
もちろん、まだ断言はできない。
医学的な調査をしたわけでもない。
でも。
現代の知識から考えれば、その可能性は高い。
トウモロコシには、ちゃんと栄養がある。
カロリーも取れる。
腹も膨れる。
だからこそ、食料として価値がある。
ただし。
それだけを食べ続ければ、足りなくなる栄養が出てくる。
特に問題になるのが――。
「……ナイアシン」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ」
私は首を振った。
この時代の人に、いきなり栄養学を説明しても仕方がない。
それよりも。
実際の食卓を見なければ。
「お父さんは、トウモロコシをどうやって食べていたんですか?」
「茹でていました」
「茹でるだけ?」
「はい」
「他には?」
母親は少し考えた。
「……粉にして、粥にすることもありました」
「粥?」
その言葉に。
少女が口を開いた。
「お父さん、それ好きだったよ」
「どんな料理ですか?」
「トウモロコシを砕いて、水で煮るの」
「なるほど……」
私は頷いた。
それなら、農民の家でも作れる。
特別な道具はいらない。
大きな窯も必要ない。
小麦粉も大量には使わない。
燃料だって、それほど多くは必要ない。
「他には、どんなものを食べていましたか?」
私が尋ねると、少女は少し考えた。
「ポレンタも食べてたよ」
「ポレンタ?」
「うん。お父さん、好きだった」
私は思わず目を見開いた。
「ポレンタを?」
「はい」
母親も頷いた。
「トウモロコシの粉を、水や乳で煮て作るものです。柔らかいまま食べたり、冷まして固めてから焼いたりもします」
「なるほど……」
私は少し考え込んだ。
ポレンタ。
トウモロコシの粉を煮て作る、素朴な料理。
農民にとっては、すでに馴染みのある食べ物なのだろう。
「では、お父さんはトウモロコシのお粥やポレンタを、かなり頻繁に?」
「はい」
母親は頷いた。
「麦が足りない時期には、ほとんど毎日のように」
「…………」
私は黙り込んだ。
ここまで聞けば、かなりはっきりしてくる。
トウモロコシが悪いわけではない。
問題は――。
「食事が、トウモロコシに偏っていた……」
「はい」
母親が頷く。
おそらく、この家だけではない。
麦が足りなくなる。
食料が不足する。
そこで、収穫量の多いトウモロコシに頼る。
ポレンタや粥なら簡単に作れる。
腹も膨れる。
だから、さらにトウモロコシを食べる。
そして――。
他の食材が減っていく。
豆も。
肉も。
乳も。
卵も。
その結果、栄養が偏る。
「……なるほど」
私は小さく呟いた。
「ポレンタが悪いわけではないんですね」
母親が、不思議そうに私を見る。
「ポレンタが?」
「はい」
私は頷いた。
「ポレンタは、ちゃんとした食べ物です」
炭水化物を摂ることができる。
腹持ちもいい。
何より――。
この家の人たちが、すでに食べ慣れている。
「問題なのは、それだけで食事を済ませてしまうことです」
「…………」
「だったら」
私はポレンタの入った鍋を見る。
「ポレンタをやめる必要はありません」
「え?」
「むしろ、ポレンタを残しましょう」
母親が目を丸くする。
「ただし――」
私は続ける。
「ポレンタだけにしないんです」
「…………」
豆。
乳。
チーズ。
卵。
野菜。
手に入るなら肉や魚。
全部を揃える必要はない。
毎日の食卓に、何か一つでも加える。
それだけでも違う。
「豆なら、肉より手に入りやすい家もあるでしょう」
「はい」
「野菜なら、畑の隅で育てられるものもある」
「ええ」
「乳が取れる家なら、乳やチーズを使えばいい」
特別な料理を作る必要はない。
今ある料理に、少しだけ何かを足す。
それなら。
農民にも続けられる。
「そして、もう一つ」
私は考える。
「トウモロコシの加工方法も試してみたいです」
「加工方法?」
「はい」
トウモロコシには、アルカリ性の物質を使って処理する方法があります。
それによって、身体が利用しやすくなる栄養もある。
現代でいう――ニシュタマリゼーション。
ただ。
ここで問題がある。
この土地で、同じ方法が安全に再現できるのか。
どのくらいの量を使えばいいのか。
農民が簡単に真似できる方法なのか。
まだ何も分からない。
「……まずは試してみないと」
「ユーリ様?」
「いえ」
私は首を振った。
「まだ、思いついただけです」
成功する保証なんてない。
だからこそ。
実験する必要がある。
宮廷厨房なら、材料も人手も揃えられる。
そこで何種類か試してみる。
味。
手間。
燃料。
材料費。
そして、何より安全性。
全部を確かめなければならない。
「お母さん」
「はい?」
「もしよければ、普段の食事について、もう少し詳しく教えていただけませんか?」
「食事、ですか?」
「はい」
私は頷いた。
「何を食べているのか」
「…………」
「どれくらい食べているのか」
「…………」
「どんな食材なら、毎日手に入るのか」
さらに続ける。
「薪はどれくらい使えるのか。鍋は何個あるのか。料理にどれくらい時間をかけられるのか」
母親は驚いたように私を見る。
「そんなことまで?」
「はい」
私は笑った。
「そこまで知らなければ、農民の人たちが毎日作れる料理は考えられませんから」
宮廷料理人が作れる料理を考えるだけなら簡単だ。
高価な材料を使えばいい。
人手をかければいい。
大きな厨房を使えばいい。
でも。
農民の家には、そんなものはない。
だからこそ。
**農民の台所で作れる料理でなければ意味がない。**
すると。
今まで黙っていた少女が、私の顔を見上げた。
「だったら……」
「ん?」
「お父さんが食べてた料理も見ますか?」
「お父さんが?」
「うん」
少女は頷いた。
「お父さん、病気になる前に、よくトウモロコシのお粥を食べてたから」
「……!」
私は思わず身を乗り出した。
「それ、見せてもらえますか?」
「今から?」
「はい!」
思わず立ち上がる。
だが。
すぐに思い直した。
料理を見るだけでは足りない。
重要なのは、その料理が――。
**どういう材料で作られ、どれだけの手間がかかり、何と一緒に食べられていたのか。**
そこまで知らなければならない。
「……まずは、実際の食卓を見せてもらいましょう」
私は笑った。
それが、今回の改革の最初の一歩になる。
トウモロコシを否定するのではない。
ポレンタを取り上げるのでもない。
農民がすでに持っている食文化を残したまま――。
少しだけ、健康な方向へ変えていく。
「イサベルさん」
「はい?」
「宮廷に戻ったら、ローザリンデさんを呼んでください」
「何をするおつもりですか?」
「ポレンタを作ります」
「また料理ですか?」
「ええ」
私は笑った。
「でも、今度はただ美味しくするだけじゃありません」
私はポレンタの鍋を見る。
「農民が毎日作れる料理にします」
「…………」
「材料も、できるだけ安く」
豆。
野菜。
乳製品。
手に入るなら卵や肉。
「燃料も、できるだけ少なく」
そして――。
「健康に食べられる料理にします」
イサベルさんが、静かに頷いた。
「……なるほど」
私はもう一度、少女の父親が休んでいる家を見る。
かつて。
トウモロコシを食べて病気になった男。
その経験が、この村に一つの恐怖を残した。
――トウモロコシは危険だ。
でも。
私は、その恐怖を笑うことはできない。
実際に、父親は苦しんだのだ。
家族も苦しんだ。
少女は人形まで売ろうとした。
だからこそ。
私は、その恐怖を否定するのではなく。
原因を突き止めたい。
そして。
同じことが、二度と起こらないようにしたい。
「トウモロコシを増やすだけじゃ駄目ですね」
私は呟いた。
「食べ方まで変えなければ」
すると。
少女が、私の袖をちょこんと引っ張った。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「トウモロコシ、美味しくなるの?」
私は少女を見る。
その小さな瞳は、期待するように私を見つめていた。
「うん」
私は笑った。
「美味しくする」
「ほんと?」
「ほんと」
少女は嬉しそうに笑った。
けれど。
次の質問に、私は少しだけ胸を締めつけられた。
「じゃあ……お父さんも食べられる?」
「…………」
私は少女の目を見る。
そこにあるのは、料理への期待ではない。
父親と一緒に食卓を囲みたいという、ただそれだけの願いだった。
私はゆっくり頷く。
「もちろん」
「ほんとに?」
「うん」
私は少女に笑いかける。
「今よりもっと、美味しくて身体にいいポレンタを作ってあげよう」
「お父さん、喜ぶと思う!」
「そうだといいですね」
私は笑い返した。
そして。
心の中で、改めて決意する。
トウモロコシを、ただの家畜の餌にしない。
農民の大切な食料にする。
そのために必要なのは、新しい料理を押しつけることではない。
**農民がすでに食べているものを、健康的な食事へ変えること。**
そして。
トウモロコシを食べることで栄養が偏らないようにする知識を広めること。
料理を変える。
食べ方を変える。
そして――。
人々の「トウモロコシは怖い」という思いまで変える。
「……やることが増えましたね」
私は苦笑した。
けれど。
不思議と嫌な気分ではなかった。
むしろ――。
胸の奥が、熱くなっていた。
これは、ただの料理改革じゃない。
農民の命を守るための改革だ。
「まずは、ポレンタからですね」
私はそう呟いた。
そして私は、農村を後にした。
次に向かうのは――宮廷厨房。
農民の食卓を変えるための料理を。
今度は、実際に作ってみる。
失敗するかもしれない。
思ったような味にならないかもしれない。
それでも。
やってみなければ、何も始まらない。
少女の父親が、もう一度安心してポレンタを食べられる日を作るために。




