トウモロコシとピザとトマト
食事を終えたあと。
私たちは、食後の軽い談笑をしていた。
そんな中、フェルディナンド様がふと口を開く。
「当面の間、ユーリ様にはホープスブルク宮殿で過ごしていただくことになります」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
ホープスブルク宮殿。
私の知る世界でいえば、ハプスブルク家の宮殿を思わせる名前だ。
後世には歴史上の人物が数多く暮らし、巨大な宮殿として知られることになる。
もっとも――。
(この時代なら、まだ今ほど巨大ではないでしょうけど)
それでも、私がこれまで暮らしていた場所とは比べものにならない。
たぶん、迷子になったら一人では帰ってこられない。
そんなことを考えていると、フェルディナンド様が続けた。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「ユーリ様が迷い鳥であるという事実は、当面伏せることにします」
「……え?」
私は思わず首を傾げた。
「私が迷い鳥であることを伏せるのは、構いませんけど……何か問題でも?」
「問題といいますか」
フェルディナンド様は、少し困ったように笑った。
「あなたの出したアイデアを、我々が考えついたことになる可能性があります。それでもよろしいのでしょうか?」
「ああ……」
なるほど。
そういうことか。
「別に構いませんよ」
私は即答した。
「私一人では、困っている人たちを直接助けることもできませんから」
土地もない。
権力もない。
軍隊もない。
あるのは、少しばかりの知識だけ。
「私の考えを誰が広めたことになるかより、その結果、誰かが少しでも助かるほうが大切です」
「……そうですか」
フェルディナンド様は静かに頷いた。
「では、そのようにさせていただきます」
「はい」
「今日はこのくらいにしましょう。あとは、ゆっくりお休みください」
「わかりました。いろいろとお気遣いいただき、ありがとうございます」
こうして話を終えた私は、宮殿の中に用意された客室へ案内された。
◇
そして――。
ベッドに入る前。
私は一人、机に向かっていた。
「……さて」
今日の出来事を思い返す。
農業改革。
トウモロコシ。
そして――。
「……トウモロコシ、どうやって食べてもらおう」
そこなのだ。
トウモロコシを栽培する。
それ自体はいい。
しかし。
収穫できたとしても、農民が簡単に調理できなければ意味がない。
私は机の上に紙を広げた。
(宮廷なら、何でも作れるんですけどね)
石窯。
鉄板。
焼き網。
フライパン。
大鍋。
ケトル。
料理人に頼めば、煮ることも焼くことも揚げることもできる。
だが。
貧しい農民の家には、そんなものはない。
家の中央にある炉。
その上に置かれた鉄製の三脚。
そして粘土で作られた鍋。
多くの場合、それだけだ。
調理と暖房。
限られた燃料で、その両方をまかなわなければならない。
つまり――。
(特別な道具を必要とする料理は、農村では普及しにくい)
ならば。
今ある道具で作れる料理を考えなければならない。
自然と候補も限られてくる。
粥。
スープ。
シチュー。
そして――ポレンタ。
トウモロコシを粉にして煮る料理だ。
「……これは、簡単なんですけどね」
水と粉。
あとは火があればいい。
確かに優秀だ。
けれど。
「毎日ポレンタだけでは、飽きますよね……」
食べられることと。
毎日食べたいと思えること。
その二つは、まったく違う。
私は腕を組んだ。
食料政策というのは、単純にカロリーを供給すれば終わりではない。
人間は食べなければ生きていけない。
だからこそ――。
できれば、おいしく食べてほしい。
「……焼ければ、かなり変わるんですけど」
ぽつりと呟く。
焼く。
たったそれだけで、料理の幅は一気に広がる。
そこで、頭に一つの道具が浮かんだ。
「そうだ」
粘土の焼き板。
平たい板を火で熱し、その上でトウモロコシの生地を焼く。
「焼き板を作ればいいんじゃないですか?」
これなら鉄は必要ない。
粘土を成形して焼けばいい。
農村でも比較的作りやすい。
そして――。
「これなら薄いパンのようなものも作れますね」
トウモロコシの粉を練って、薄く伸ばす。
焼く。
それだけ。
トルティーヤだ。
「……小麦と混ぜてもいいですね」
コーンブレッド。
あるいは、残って固くなったポレンタを切って焼く。
焼きポレンタ。
同じ食材でも、調理法を変えるだけで別の料理になる。
「これは、いいかもしれません」
少なくとも。
粥とポレンタだけよりは、ずっと食卓が楽しくなる。
だが――。
(もっといろいろ作るには、どうする?)
たとえば窯。
粘土で小さな窯を作れば、個人でもパンを焼けるようになるかもしれない。
領主のパン窯を借りなくても、自分たちで焼ける。
それは農民にとって、かなり大きな変化になるはずだ。
「……タンドールみたいな窯も作れそうですね」
小型のものなら、粘土でも作れる。
焼き網を組み合わせれば、炭火調理にも使える。
いや。
もっと小さく作れば――。
「七輪みたいなものも、作れそうですね」
私は思わず笑った。
トウモロコシから始まった話なのに。
いつの間にか、調理器具の改革になっている。
だが。
(食料を増やすだけでは足りない)
どう保存するのか。
どう運ぶのか。
どう料理するのか。
それらすべてが揃って、初めて人々の食生活は変わる。
「……それに」
もし窯が作れるなら。
私には、どうしても作ってみたい料理があった。
「ピザ、食べたいなあ……」
思わず、本音が漏れた。
焼いた生地。
その上に野菜やチーズを乗せる。
そして、こんがり焼き上げる。
想像しただけで腹が減ってくる。
問題は――。
「トマトが必要ですね」
そう。
トマトだ。
この時代の人々は、まだトマトを食べることに抵抗がある。
ナス科の植物。
似た植物の中には毒を持つものもある。
だから警戒されている。
「……いきなり『この赤い実、おいしいですよ』なんて言ったら」
怪しまれる未来しか見えない。
それでも。
トマトソースがあれば、料理の可能性は一気に広がる。
パン。
パスタ。
肉料理。
そして――。
「ピザ」
私は紙に、その名前を書き込んだ。
うん。
やはり夢がある。
「決めました」
私は立ち上がった。
「明日、カール様かフェルディナンド様、それかヨハン様に相談しましょう」
トマト。
そして、パプリカやピーマン。
まだ広く食べられていない植物でも、食べ方さえわかれば立派な食材になる。
トウモロコシだって、そうだ。
知らない。
食べたことがない。
調理方法もわからない。
だから食べない。
でも。
おいしい食べ方を知れば、人は食べるようになる。
「農業改革って、畑を変えるだけじゃないんですね」
作る。
運ぶ。
保存する。
そして――食べる。
そのすべてを変えなければ、本当の意味で人々の生活は変わらない。
私は机の上に並んだメモを見つめた。
「……まずは、トウモロコシ料理からですね」
その中でも。
「焼きポレンタにチーズを乗せて……」
そしてトマトソース。
「……ピザ」
絶対に、おいしい。
……うん。
これは絶対に食べたい。
農業改革のため。
決して。
私がピザを食べたいからではない。
たぶん。
きっと。
そういうことにしておこう。
◇
翌朝。
「ユーリ様、お目覚めでしょうか?」
扉の向こうから、控えめな声が聞こえてきた。
「はい。どうぞ」
扉が開く。
そこには、昨日とは違う男性が立っていた。
白髪交じりの髪。
年齢は五十代くらいだろうか。
身体はがっしりしている。
腕も太い。
見るからに料理人だ。
「こちらは宮廷厨房を預かっております、ハインリヒです」
「初めまして。ユーリです」
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
ハインリヒさんは丁寧に頭を下げた。
しかし。
彼の視線は、私の顔ではない。
机の上に置かれた紙へ向いている。
「……昨夜、何やら料理についてお考えだったとか」
「あ」
しまった。
紙を片付けるのを忘れていた。
そこには大きく、
『トウモロコシ料理』
と書かれている。
その下には――。
『コーンブレッド』
『焼きポレンタ』
『トルティーヤ』
『ピザ』
などの文字。
「フェルディナンド様から伺いました」
ハインリヒさんが言う。
「新しい作物を、民にも食べてもらいたいのだとか」
「はい」
「でしたら――」
ハインリヒさんは、にやりと笑った。
「料理人として、ぜひ協力させていただきたい」
「本当ですか?」
「新しい食材を扱う機会など、そうありませんからな」
これは心強い。
私はすぐに立ち上がった。
「では、厨房を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
こうして私は、朝食前だというのに宮廷厨房へ向かうことになった。
◇
「……広い」
厨房へ入った瞬間、思わず声が漏れた。
大きな炉。
いくつもの鍋。
壁際に並ぶ食器と調理器具。
薪の燃える音。
料理人たちが忙しそうに動き回っている。
肉を切る者。
野菜を洗う者。
鍋をかき混ぜる者。
焼き上がったパンを運ぶ者。
まさに戦場だった。
「こちらが宮廷厨房です」
「すごいですね……」
私の視線は、自然と調理器具へ向かった。
鉄製の焼き網。
大きな銅鍋。
深い鍋。
焼き菓子用の型。
そして――。
「これ、フライパンですか?」
「はい」
ハインリヒさんが答える。
「肉を焼いたり、卵を調理したりするものです」
私は頷いた。
やはり宮廷ともなれば、庶民の家とは環境がまるで違う。
「では、まずこれを使いましょう」
私は持ってきてもらったトウモロコシの粉を指差した。
「これを水で練ります」
「水だけで?」
ハインリヒさんが首を傾げる。
「はい。まずは小麦を使わず、トウモロコシだけで試します」
粉に水を加える。
そして手で練る。
「少し塩を入れてもいいと思います」
「なるほど」
ハインリヒさんが手際よく混ぜていく。
さすがプロだ。
私が大雑把に説明しているだけなのに、あっという間に生地がまとまっていく。
「これを薄く伸ばして……」
丸くする。
そして熱した鉄板へ。
ジュッ。
小さな音がした。
しばらくすると、香ばしい匂いが漂ってくる。
「……いい匂いですね」
ハインリヒさんが呟いた。
表面が焼けてきた。
ひっくり返す。
また焼く。
完成。
「これがトルティーヤです」
「ほう」
ハインリヒさんが手に取る。
そして、一口。
「…………」
無言。
「どうですか?」
「……素朴ですな」
「やっぱり?」
「ですが、不味くはない」
いかにも料理人らしい評価だった。
「これなら、肉や野菜を包んでもいいでしょう」
「そうなんです!」
私は思わず身を乗り出した。
「それなら料理の幅が広がります」
「確かに」
ハインリヒさんも頷く。
「しかも小麦を使わない」
「そこが重要です」
小麦は貴重だ。
少なくとも、トウモロコシを主食として普及させたい農民にとって、小麦粉を大量に使う料理では意味がない。
「では、次です」
私は別の粉を取り出した。
「今度は小麦粉を少し混ぜます」
「小麦を?」
「はい。トウモロコシだけより、少し食感が変わるはずです」
水と塩。
トウモロコシ粉と小麦粉。
練って。
丸めて。
今度は少し厚めにする。
「これを焼いてください」
「承知しました」
鉄板の上に乗せる。
じゅう、と音がした。
しばらくすると、表面が膨らんできた。
「おお」
料理人たちから声が上がる。
焼き上がったものを割ってみる。
中はふっくら。
香ばしい匂いが立ち上る。
「コーンブレッドです」
ハインリヒさんが一口食べる。
今度は、すぐに頷いた。
「これはいい」
「本当ですか?」
「ええ。小麦だけのパンとは違いますが、これはこれで十分に食べられます」
周囲の料理人たちも試食する。
「……確かに」
「香ばしいな」
「少し甘みもある」
「これなら肉料理にも合いそうです」
反応は悪くない。
私は小さく息を吐いた。
第一関門は突破。
だが。
「次があります」
私は、昨日から頭の中にあった料理を思い浮かべた。
「焼きポレンタです」
「焼くのですか?」
「はい」
まずポレンタを作る。
トウモロコシ粉を水で煮る。
柔らかくなったところで平たい皿へ移す。
冷まして固める。
「これを切ります」
包丁で四角く切る。
そして焼く。
表面がこんがりと色づいていく。
「……これだけでも食べられますね」
「はい」
ハインリヒさんが頷く。
私はその上に、少しだけチーズを乗せた。
じわり。
チーズが溶けていく。
香ばしい匂いが広がった。
料理人たちの視線が集まる。
「……いただきます」
一口。
「……うん」
美味しい。
素朴だけれど、ちゃんと料理になっている。
「これなら、農民でも作れそうですね」
ハインリヒさんが言った。
「そうなんです」
私は頷いた。
「特別な材料がいらない。特別な技術もいらない。そして、残ったポレンタを翌日に焼くだけでもいい」
食料を無駄にしない。
それも大切だ。
「ユーリ様」
「はい?」
ハインリヒさんが真剣な顔でこちらを見る。
「この料理を、宮廷料理にするおつもりですか?」
「いえ」
私は首を横に振った。
「むしろ逆です」
焼き上がったポレンタを見る。
「宮廷料理にするのではなく――」
私は、はっきりと言った。
「誰でも作れる料理にしたいんです」
ハインリヒさんは、しばらく黙っていた。
そして。
「……なるほど」
静かに笑った。
「それなら、料理人として私も本気で考えましょう」
「ありがとうございます」
「ですが」
「はい?」
ハインリヒさんが、少しだけ笑みを深くした。
「先ほどから気になっているのですが」
彼は机の上の紙を指差した。
「その『ピザ』という料理は、どんなものですかな?」
「…………」
しまった。
そこを聞かれた。
「えっと……」
私は少し考える。
「簡単に言えば――」
焼いた生地。
その上にチーズ。
野菜。
肉。
そして、トマトソース。
それを窯で一気に焼き上げる。
「……かなりおいしい料理です」
我ながら、説明が雑だった。
「ほう」
しかし、ハインリヒさんは興味を示した。
「それは、どのような窯で焼くのです?」
「それが問題なんです」
「問題?」
「はい」
私は頷いた。
「まず、新しい窯を作らないといけません」
「新しい窯ですか?」
「ええ」
ハインリヒさんの目が輝いた。
「どのような?」
「それは――」
私は少し考えた。
「一緒に考えましょう」
「……ほう」
ハインリヒさんが笑う。
「面白そうですな」
こうして。
トウモロコシから始まった食料改革は――。
なぜか。
宮廷厨房の調理器具改革へと発展していくことになった。
そして私は、まだ知らなかった。
この小さな窯の試作が。
やがて農村の家庭料理そのものを変えていくことになるとは――。




