フランツ・ザッハさん本当に申し訳ありません。
それから数日。
帝都では、東部で起きた襲撃事件について調査が続いていた。
しかし。
事件の捜査だけにかかりきりになるわけにもいかない。
食料問題は、待ってくれないからだ。
私たちは同時に、当面の食料政策についても話し合っていた。
「取りあえず、当面のところは――」
私は地図の上に手を置いた。
「救済作物として育てているキビを、条件の合う地域から少しずつトウモロコシへ置き換えていくのがよいと思います」
「やはり、あの作物ですか」
フェルディナンドさんが頷く。
「はい」
「理由は?」
「トウモロコシは土地や気候が合えば、高い収量を期待できます」
ただし。
「どこに植えてもいい、というわけではありません」
私は地図を指差した。
「土地によって結果は変わります。だから、まずは試験栽培を続けるべきです。そして、トウモロコシだけでなく、ジャガイモやサツマイモにも適した地域を見つけていく」
「なるほど」
フェルディナンドさんが頷いた。
「一つの作物に頼るのではなく、土地に合わせて作物を選ぶわけですね」
「その通りです」
飢饉に強い作物があっても、それだけで農業が安定するわけではない。
土壌。
気候。
水。
保存性。
市場。
それらを全部考えなければならない。
「では、もう一つの案についても聞かせていただけますか?」
「タバコですね」
私は頷いた。
「タバコは食料にはなりません。ですが、商品作物として価値があります」
「つまり、農民の現金収入にする」
「はい」
食料を増やすだけでは、農村は豊かにならない。
税を払い、道具を買い、衣服を買い、暮らしを良くするためには、現金収入も必要だ。
「ただし」
私は念を押した。
「食料用の畑を削ってまで植えるつもりはありません」
「食料を優先する、と」
「はい」
私は頷いた。
「まず自分たちが食べるための作物。そのうえで、余裕のある土地や、食料生産に向かない土地などを利用して商品作物を育てるべきです」
「承知しました」
カール様が腕を組む。
「食べるための畑と、稼ぐための畑を分けるのか」
「完全に分ける必要はありません」
私は苦笑した。
「ただ、役割を意識しておくことは大切だと思います」
「役割?」
「はい」
私は地図を見る。
「食料を確保する作物と、現金収入を得る作物。両方が必要なんです」
「面白い考えだ」
カール様が地図に目を落とした。
「国外との交易も考えているのか?」
「もちろんです」
私は頷いた。
「国内で売れるだけでも利益にはなります。でも、国外へ輸出できれば、より多くの金を帝国へ呼び込める可能性があります」
「ならば、タバコは国が買い取る仕組みにしてみては?」
フェルディナンドさんが言った。
「国が一定の価格で買い取るのです。品質も管理しやすくなるでしょう」
「専売に近い仕組みですね」
「はい」
私は少し考えた。
「……試してみる価値はあると思います」
ただし。
「農民が損をしない価格設定と、食料生産を圧迫しないこと。この二つは絶対条件です」
「承知しました」
そこで、いったん話は区切られた。
「では、そろそろ昼食の時間だ」
カール様が笑う。
「続きは食事をしながらにしようではないか」
「はい」
ちょうどそのとき、扉が開いた。
「昼食をお持ちいたしました」
◇
「白アスパラのオランデーズソースでございます」
最初に運ばれてきたのは、柔らかく茹でられた白アスパラだった。
その上に、濃厚なソースがたっぷりとかかっている。
「いただきます」
一口。
「……おいしい」
思わず笑みがこぼれる。
次に運ばれてきたのは、澄んだスープだった。
「グリースクヌーデルのスープでございます」
スープの中には、丸くふんわりとした団子が浮かんでいる。
「これは……?」
一口食べる。
ふわり。
口の中でほどけるような食感。
優しい味のスープとよく合っている。
「すいとんみたいですね」
「すいとん、ですか?」
「ああ、いえ」
私は慌てて首を振った。
「こちらのほうが、ずっと上品です」
思わず笑ってしまう。
そしてメイン料理。
「ザイブリングのムニエルと、クラウトフレッカールでございます」
運ばれてきたのは、香ばしく焼かれた魚と、キャベツの入った平たい麺だった。
「ザイブリング?」
「アルプスイワナでございます」
「なるほど」
魚を一口。
淡白な身に、バターの香りが広がる。
「おいしいですね」
続いて、キャベツのパスタ――クラウトフレッカールを口にする。
バター。
少しのニンニク。
塩。
胡椒。
そして、炒めたキャベツの甘み。
「……シンプルですけど、おいしいですね」
「ありがとうございます」
料理人が嬉しそうに頭を下げる。
けれど。
私はふと思った。
「もう一つだけ、加えてもらいたいものがあります」
「何でしょうか?」
「唐辛子です」
カール様が眉を上げた。
「また新大陸の作物か」
「はい」
私は笑う。
「ほんの少し辛みを加えると、味が引き締まると思います」
「なるほど」
カール様は頷いた。
「では、次の機会に試してみよう」
「ぜひ」
食事が進み、最後に運ばれてきたのは――。
「こちらはココアでございます」
カップから、甘い香りが立ち上る。
一口。
「……おいしい」
ミルク。
砂糖。
シナモン。
濃厚なのに、どこか優しい味だ。
「現状では、それを口にできるのは帝国内でも限られた方々だけですが」
「そうなんですね」
カカオもまた、新大陸からもたらされた作物だ。
そう考えると、目の前の一杯が少し特別なものに感じられた。
そして――。
ふと思いつく。
「これ……焼き菓子に使えませんか?」
「焼き菓子?」
「はい」
卵。
小麦粉。
砂糖。
バター。
カカオ。
材料を頭の中で組み合わせていく。
「チョコレートを使った焼き菓子が作れると思います」
カール様の目が輝いた。
「それは、ぜひ食べてみたい」
「えっ?」
フェルディナンドさんも笑う。
「迷い鳥様が作り方をご存じなら、ぜひお願いしたいものです」
「あー……」
私は苦笑した。
「材料と道具があれば、たぶん」
「では決まりですね」
「えっ?」
話が早すぎる。
◇
「……膨らまない」
一回目。
失敗。
「……硬い」
二回目。
失敗。
「今度は焦げた!」
三回目。
失敗。
「迷い鳥様……」
料理人たちの視線が痛い。
「……私だって、菓子職人じゃないんですよ」
「ですが、迷い鳥様がご存じのお菓子なのでしょう?」
「そうなんですけど……」
私は頭を抱えた。
元の世界で食べたことはある。
見たこともある。
材料もだいたい分かる。
でも。
作ったことはない。
知識と技術は、別物だった。
「もう一度」
私は気を取り直した。
卵の泡立て方を変える。
小麦粉の量を調整する。
バターの温度にも気をつける。
そして――。
「アプリコットジャムも使いましょう」
これなら、きっと。
焼き上がった生地を慎重に切る。
間にジャムを塗る。
生地を重ねる。
そして最後に、表面をチョコレートで覆う。
「…………」
見た目は、それらしい。
「できた……」
私は小さく呟いた。
完成した菓子を皿に載せる。
そして、カール様とフェルディナンドさんの前へ運んだ。
「お待たせしました」
二人が皿を見る。
「これは……?」
「チョコレートを使った焼き菓子です」
カール様がナイフを入れる。
柔らかな生地。
その間に見える、アプリコットの層。
そして――一口。
「…………」
無言。
「どうでしょう?」
嫌な沈黙だ。
ところが。
「……濃厚だ」
カール様が呟いた。
「チョコレートの苦みと砂糖の甘さ。その中に、ジャムの酸味がある」
フェルディナンドさんも一口食べる。
「これは……おいしいですね」
「本当ですか?」
「ええ」
彼は頷いた。
「非常においしい」
私は思わず息を吐いた。
どうやら成功したらしい。
ところが。
カール様はもう一口食べた。
そして、こちらを見る。
「ところで、この菓子に名前はあるのか?」
「え?」
私は固まった。
もちろん、元の世界には名前がある。
けれど。
この世界には、まだ存在していない。
「……特に、ありません」
私が答えると、フェルディナンドさんが笑った。
「では、迷い鳥様のお名前をいただきましょう」
「え?」
「ユーリの焼き菓子――」
フェルディナンドさんは楽しそうに続けた。
「『ユーリ・トルテ』というのはいかがでしょう?」
「いやいやいや!」
私は思わず声を上げた。
「そんな大げさな!」
しかし。
「異存はない」
カール様まで頷いた。
「えっ」
決まってしまった。
どうしてこうなった。
こうして――。
帝国の農業改革について話していたはずの私は。
なぜか帝国に、新しい菓子まで生み出してしまった。
その名も――。
**ユーリ・トルテ。**
……フランツ・ザッハさん。
本当に申し訳ありません。
あなたが作った代表的な菓子を、こんなところで歴史から奪ってしまいました。
……いや。
そもそも、この世界にはまだ存在していない。
誰かの菓子を奪ったわけじゃない。
私は、ただ自分の知っている料理を、この世界に伝えただけだ。
「……そういうことにしておこう」
私は小さく呟いた。
すると。
「迷い鳥様、何か仰いましたか?」
「なんでもありません」
私は慌てて笑った。
――こうして。
帝国の食料問題を話し合っていた一日の昼下がり。
農業改革の議論から生まれたものは、食料政策だけではなかった。
後に帝都の菓子職人たちを騒がせることになる、新しいチョコレート菓子。
その始まりは――。
たった一杯のココアだった。




