穀倉地帯の襲撃
その時だった。
「陛下!」
突然、謁見の間の扉が開いた。
一人の騎士が、息を切らして駆け込んでくる。
その顔を見た瞬間。
ただ事ではないと分かった。
「何事だ?」
皇帝の声が飛ぶ。
「緊急報告です!」
騎士はその場で片膝をついた。
「東部より、穀倉地帯の一つが襲撃を受けたとの報告が!」
「襲撃?」
思わず、私の口から声が漏れた。
「倉庫が破壊され、保管されていた穀物の一部が焼かれております」
――ざわり。
謁見の間の空気が、一瞬で変わった。
「被害は?」
「現在、確認中です!」
「犯人は?」
「不明です!」
皇帝の表情が険しくなる。
「目的は、穀物か?」
「……それが」
騎士が、わずかに言葉を詰まらせた。
「不自然な点がございます」
「言え」
「倉庫にあった穀物は、すべてが焼かれたわけではありません」
「何?」
「火を放った者たちは途中で撤退しております。持ち去られた穀物も、それほど多くはありません」
私は眉をひそめた。
……おかしい。
食料が目的なら、もっと奪える。
穀物価格を混乱させたいなら、倉庫を徹底的に焼けばいい。
なのに。
中途半端すぎる。
「……まるで」
気づけば、私は呟いていた。
「別の目的があるみたいですね」
皇帝が、こちらを見る。
「何を考えている?」
「まだ分かりません」
私は首を振った。
けれど。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていた。
あまりにも出来すぎている。
帝国全体の農業改革について話していた、その最中。
東部の穀倉地帯が襲撃される。
そして当然のように――現地を調べる必要が出てくる。
「……迷い鳥」
皇帝が低い声で言った。
「まさか」
「陛下?」
「いや」
皇帝は言葉を切った。
そして、居並ぶ重臣たちを見渡す。
「まだ決めつけるな」
その声には、はっきりと警戒があった。
◇
その夜。
帝城の一室。
私は、東部から届いた報告書を読んでいた。
焼失した穀物。
破壊された倉庫。
逃走した襲撃者。
そして――被害を受けた穀倉地帯。
「……やっぱり、おかしい」
私は机の上に地図を広げた。
襲撃された村。
周囲の街道。
近隣の都市。
そして――帝都へと続く道。
なぜ、あの倉庫だった?
もっと大きな倉庫もある。
もっと警備の薄い場所もある。
それなのに。
わざわざ、そこを狙った。
「偶然……じゃない」
背筋に、冷たいものが走った。
コン、コン。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、フェルディナントさんだった。
帝都まで同行していた彼は、私の顔を見るなり眉をひそめた。
「まだ起きておられたのですか」
「少し、気になることがあって」
私は地図を指差す。
「この襲撃です」
「ええ。大変な事件ですな」
「本当に、穀物が目的だったのでしょうか」
「……と、申しますと?」
「もし私が犯人なら、もっと効率的にやります」
「その言い方は少々怖いですが」
「農業のことです」
「分かっております」
フェルディナントさんは苦笑した。
だが。
すぐに表情を引き締める。
「では、何が目的だと?」
私は答えなかった。
……いや。
答えたくなかった。
でも。
頭の中には、もう一つの可能性が浮かんでいた。
もし、この事件が。
私を東部へ向かわせるために起こされたものだとしたら。
「……フェルディナントさん」
「はい」
「私が東部へ行くことになったら、どうしますか?」
「護衛を増やします」
「そうですよね」
「当然です」
「それでも……」
私は地図を見つめる。
「道中で襲われる可能性はありますよね」
フェルディナントさんから、笑みが消えた。
「迷い鳥様」
「まだ、ただの想像です」
そう。
まだ想像だ。
だけど。
これは、想像だけで終わらない気がしていた。
農業改革によって、利益を失う者がいる。
私が改革を進めれば、困る者がいる。
その者たちが、改革そのものを止めたいと考えたなら。
私を説得する必要はない。
排除すればいい。
拉致して、帝国から遠ざける。
あるいは――。
……二度と、改革について口を開けなくする。
私は静かに地図を閉じた。
「……なるほど」
「何がですか?」
「農業改革をするというのは」
窓の外を見る。
帝都の夜。
静かなはずの街が、今はどこか不気味に見えた。
「思っていた以上に、危険な仕事みたいです」
◇
その頃。
帝都から遠く離れた場所。
暗い部屋の中で、一人の男が報告を聞いていた。
「計画通りにはいきませんでした」
「倉庫は?」
「半分ほど焼失しました」
「半分でいい」
男は、静かに答えた。
「目的は、穀物ではない」
「……では、次は」
「迷い鳥が動く」
その声は、冷たかった。
「東部の食料問題を、あの女が放っておくことはできない」
「現地へ向かわせるのですか?」
「ああ」
男は机の上に置かれた一枚の紙を見る。
そこに記されていたのは。
一人の少女の名前。
――迷い鳥。
「生かして捕らえられるなら、それが一番いい」
新しい農業。
新しい制度。
帝国そのものを変える改革。
それらを知る者がいれば、利用することもできる。
「だが」
男はゆっくりと続けた。
「抵抗するなら――消せ」
農業改革の前に立ちはだかったのは。
土でもない。
水でもない。
害虫でもなかった。
――改革を恐れる、人間だった。
そして迷い鳥は、まだ知らない。
東部の倉庫を焼いた炎が。
帝国の食料を奪うための炎ではなく。
――自分自身を誘い出すために灯された、罠の炎だったことを。
◇
翌朝。
私は再び、帝城の謁見の間へ呼ばれていた。
昨日よりも、さらに重い空気が漂っている。
東部の襲撃事件について、新しい報告が届いたのだろう。
「迷い鳥」
「はい」
皇帝陛下は、私を見るなり言った。
「結論から言う」
その声は、いつになく硬かった。
「お前は当面、帝都を離れるな」
「……え?」
一瞬。
意味が分からなかった。
「それは……東部の調査には行くなということですか?」
「そうだ」
皇帝は即答した。
私は思わず、周囲の重臣たちを見る。
誰も反対する様子はない。
つまり。
もう決まっている。
「ですが、現地を見なければ分からないこともあります」
「分かっている」
「なら――」
「だからこそだ」
皇帝の声が、私の言葉を遮った。
謁見の間が静まり返る。
「今回の襲撃は、あまりにも不自然だ」
皇帝はゆっくりと言った。
「穀物を狙ったにしては、被害が中途半端すぎる」
私は黙った。
昨日。
私自身も、同じことを考えていた。
「そして何より」
皇帝の視線が、まっすぐ私へ向けられる。
「お前が帝国の農業改革について話し始めた直後に、東部の穀倉地帯が襲撃された」
「……偶然かもしれません」
「偶然かもしれん」
皇帝は頷いた。
「だが」
一拍。
「偶然ではなかった場合は、どうする?」
答えられなかった。
「もし、あの襲撃が」
皇帝の声が、低くなる。
「お前を東部へ誘い出すためのものだったとしたら?」
背筋に、冷たいものが走った。
……私も。
昨夜、同じことを考えていた。
「……私を?」
「ああ」
「なぜ」
「分からん」
皇帝は短く答えた。
「だから、行かせるわけにはいかない」
私は拳を握った。
悔しい。
東部で何が起きているのか。
自分の目で確かめたい。
農業改革を始めると決めたのに。
最初の一歩から、止められる。
「しかし、陛下」
私は顔を上げた。
「私を帝都に留めても、事件が解決するわけではありません」
「分かっている」
「ならば」
「調査は、別の者にさせる」
皇帝は言った。
「お前は帝都で、帝国全体の農業改革案を作れ」
「……改革案を?」
「東部だけを見て判断するな」
皇帝は、玉座から立ち上がった。
「帝国には、東部以外にも土地がある」
西部。
南部。
北部。
山岳地帯。
沿岸部。
気候も違う。
土も違う。
育つ作物も違う。
「お前が言ったのだろう」
皇帝が、わずかに笑う。
「全国一律の改革ではない、と」
「……はい」
「ならば、帝都にいてもできる仕事はある」
確かに。
その通りだった。
いや。
帝都だからこそ、できることもある。
各地から報告を集める。
役人を呼ぶ。
商人から話を聞く。
古い記録を調べる。
そして。
帝国全体を見渡す。
「迷い鳥」
「はい」
「これは命令だ」
皇帝の声が、謁見の間に響いた。
「当面の間、お前の帝都からの外出を禁ずる」
「……承知しました」
私は頭を下げた。
納得したわけではない。
けれど。
皇帝の判断は正しい。
少なくとも――今のところは。
◇
その夜。
私は、帝城の一室に広げた地図を見つめていた。
「……帝都から出るな、か」
窓の外を見る。
高い城壁。
厳重な警備。
皇帝のいる帝城。
この帝国で。
おそらく、もっとも安全な場所。
……少なくとも。
私は、そう思っていた。
けれど。
「本当に、安全なんでしょうか」
私を狙う者がいるとすれば。
私が東部へ行かなければ、諦めるだろうか。
そんなはずがない。
私を排除したい者がいる。
あるいは。
私を、生きたまま手に入れたい者がいる。
なら。
東部へ行かなければいい。
――帝都で捕らえればいい。
コン。
不意に。
小さな音がした。
「……誰ですか?」
返事はない。
私は立ち上がった。
コン。
もう一度。
……今度は。
窓の方からだった。
心臓が、大きく跳ねる。
私はゆっくりと、窓へ近づいた。
そして。
夜の帝都を見下ろした。
誰もいない。
……はずだった。
遠く。
城壁の外。
闇の中に。
一瞬だけ。
何かが動いた気がした。
「…………」
私は、そっと窓を閉めた。
皇帝は私を守るために。
迷い鳥を、帝都へ留めた。
けれど。
敵にとっても。
それは好都合だったのかもしれない。
なぜなら――。
迷い鳥は。
もう、どこにも逃げられなくなったのだから。
はい、今回の農作物は唐辛子とカカオですね。




