第52話 実力者っぽい女が現れて
親友(という名の裏切り者)たちによって勝手に学園選抜へエントリーされてしまったハイドは、絶望のどん底を這うように歩いていた。
「こ、こんにちは」
「うわぁっ!?」
ハイドは文字通り心臓が口から飛び出しかけ、情けない悲鳴を上げて飛び退いた。振り返ると、そこには感情の読めない無表情のまま、小首を傾げている赤髪の少女が立っていた。
「ご、ごめんなさい。そんなに驚かれるとは思わなくて……」
「き、君は確か……。この前の路地裏にいた」
「はい。ノノです」
鈴を転がすような、体温の低い丁寧な声。ハイドはバクバクと鳴る心臓を押さえながら、引きつった愛想笑いを浮かべた。
「そう、ノノだ。この前は通り魔から助けてくれて本当にありがとう。君がいなかったら、俺、腰を抜かしたままどうなってたか……」
「お気になさらないでください。……それより、ハイドさんも大会に出場されるのですか?」
「え! あぁ、うん。そうなんだよ。友達の悪ふざけで勝手に名前を書かれちゃってさ……」
ハイドが肩を落としてため息をつくと、ノノは僅かに目を細め、静かに告げた。
「……そうですか。では、ライバルですね。私も出場いたしますので」
「あはは、お手柔らかに頼むよ。まあ俺、ただの一般生徒だから、開始一秒で場外に逃げる予定だけどね!」
二人は和やかに笑い合う。
ハイドから見れば「ちょっとミステリアスだけど礼儀正しい転校生」。ノノから見れば「モブの仮面を被り、一般生徒のフリを完璧にこなす絶対的強者(※真の王)」。
致命的なすれ違いを抱えたまま、ハイドはふと、ずっと言いたかった感謝の言葉を口にした。
「そういえばさ、ノノ。最近、セリアと一緒にいてくれてるだろ? それ、本当に感謝してるんだ」
事実、ここ数日のハイドの学園生活には、奇跡的な平和が訪れていた。あの日以来、あれだけ四六時中ベタベタと絡みついてきたセリアが、パッタリと彼の前に姿を見せなくなったのだ。
空き教室への強制連行もなければ、男子トイレの前での出待ちというホラー展開も、保健室の布団の上に正座して振る舞われる『超重力おじや』も、見事に消滅した。
理由は明確である。ノノが、セリアと行動を共にするようになったからだ。
一見すると水と油のような二人だが、昼休みの中庭で並んでランチをしている姿は思いのほか絵になっていた。
「ノノみたいに落ち着いた同性の友達ができて、俺も幼馴染として安心したっていうか」
ハイドが朗らかに笑いかける。
だが、対するノノはフッと目を伏せると、周囲に他の生徒がいないことを確認し、スッとハイドに距離を詰めてきた。
「……実は今日、ハイドさんに折り入ってご相談したいことがあったのです」
「え? 相談?」
ノノの纏う空気が、先ほどまでの『フランクな友人』のものから、底冷えのするような冷ややかなものへと変わる。
ハイドが思わず身構えると、ノノは真っ直ぐにハイドの目を見据え、ひどく真剣な声で切り出した。
「……最近のセリアさんの様子について、です」
「セリアの?」
(なんだ? 友達同士のちょっとしたケンカか? それとも、あいつまた俺のことで何か厄介なこと言ってたのか?)
ハイドが能天気にそんな推測をしていると、ノノは慎重に言葉を選ぶように続けた。
「最近、彼女の様子がどうもおかしいのです。まるで、見えない『何か』に急き立てられているかのような……不自然な焦燥感に囚われている気がして」
その言葉に、ハイドの脳裏に『保健室で見せたセリアの怯えた顔』がフラッシュバックした。
(やっぱり、ノノもそう感じてたのか。ただのヤキモチじゃない、あの不気味な違和感を……)
ハイドが嫌な汗を流し始めたその時、ノノはふと表情を和らげ、小さく首を振った。
「ですが、やはり私の気のせいかもしれません。申し訳ありません、変なことを申し上げてしまって」
「え? あ、ちょ、ノノ?」
ノノはそれ以上語ることはなく、深く一礼をしてその場から立ち去ってしまった。
夕暮れの廊下に一人残されたハイドは、ボサボサの頭をガシガシと掻き毟る。
「はてさて、どうしたものか……」
ただでさえ大会のことで頭が痛いのに、幼馴染の不穏なフラグまで立ち始めている。モブの平穏への道は、あまりにも険しかった。
***
魔術学院のグラウンドに特設された、『学園選抜』の参加受付テント。
夕闇が周囲を完全に包み込む中、受付係を任されていた中年の教師は、名簿の整理をしながら大きく疲労の息を吐き出していた。
「ふぅ……。今年の参加手続きも、これでようやく終わりか」
血の気の多い生徒たちの対応で、教師のライフはもうゼロよ状態である。
そう思って名簿を閉じようとした、まさにその時だった。
――ピタリ、と。
秋の虫の音も、遠くから聞こえていた生徒たちの喧騒も、風が木々を揺らす音すらも、唐突に途絶えた。
まるで、テントの周囲だけが巨大な真空パックにでも閉じ込められたかのような、奇妙で暴力的な静寂。
「……ん?」
教師が怪訝に思い顔を上げた瞬間、その全身からブワッと滝のような冷や汗が噴き出した。
空気が、重い。
目に見えない高密度の魔力が、物理的な重量を持って空間を押し潰しているのだ。息を吸うことすら困難なほどのプレッシャー。並の魔術師であれば、この場に立っていることすらできずに白目を剥いて気絶しているだろう。
「な、なんだ……!? 一体、何が……」
ガチガチと激しく歯を鳴らす教師の視線の先。
夕闇に沈むグラウンドの奥から、コツ、コツ、と『それ』は歩み寄ってきた。
魔術学院の制服をベースにしながらも、どこか退廃的で扇情的なアレンジが施された漆黒の装束。
顔の半分は怪しげな黒いヴェールに覆われており、素顔を窺い知ることはできない。だが、ヴェールの隙間から覗く濡れたような真紅の唇と、歩くたびにしなやかに揺れる豊満なボディラインが、抗いがたい大人の色気を漂わせていた。
「あら。……参加の受付は、まだ開いていて?」
鼓膜を直接愛撫されるような、極めて妖艶で、甘く、そして背筋が凍るほどミステリアスな大人の女性の声だった。
たった一言。その声に込められた魔力の波紋だけで、ベテランであるはずの教師の膝がガクンと折れそうになる。
「あ、あぁ大丈夫だが……!」
教師は恐怖のあまり裏返った声で答えるのが精一杯だった。
間違いない。この女、ただ者ではない。学院にこんな規格外のバケモノのような女生徒がいただろうか? いや、絶対にいない。もしいたとすれば、氷の令嬢たち以上の噂になっているはずだ。
「ふふっ。よかったわ」
女が白魚のような指先を名簿に向けると、空間に不可視の魔力回路が編み込まれた。
紙を焦がすような熱量と共に、名簿にインクのない羽ペンが自動で走り、流麗な文字が刻み込まれていく。無詠唱にして無動作。あまりにも高度すぎる魔術の極致。
その圧倒的な実力に教師が息を呑む中、女は妖艶な声で自らの名を書き込んだ。
「……!」
「ふふ。楽しみね」
その言葉と、周囲の空気を歪ませるほどの圧倒的な強者のプレッシャーを残したまま、女はバサァッとローブを翻し、夜の闇へと溶けるように消え去っていった。
「見たことのない生徒だ。名前は、一体……」
誰も正体を知らない、圧倒的な力を持つ謎の美女の参戦。
教師は震える手で、今まさに女が刻み込んでいった最新のエントリー欄に目を落とした。
そこには、達筆で流麗な文字で、こう書かれていた。
『ナゾノ・オンナ』
ミステリアスでセクシーな強者のオーラ。
後に残された教師は、名簿に刻み込まれた『ナゾノ・オンナ』という名前を見つめたまま、恐怖とツッコミの狭間で滝のような冷や汗を流して震えることしかできなかった。




