第5話 陰の実力者は完全敗北する!! 本能には逆らえない
決意を新たにし、ベビーベッドの上で陰の実力者への第一歩を踏み出したハイドだったが、その道は、開始わずか数分で予測不能の第一の試練に直面していた。
――きゅるるぅぅぅ。
完璧な静寂を保とうとしていたハイドの腹の底から、突如として間抜けな音が鳴り響いた。
(な、なんだ!? 丹田の奥底から込み上げるこの奇妙な異変は……! まさか、空間跳躍(転生)の後遺症による魔力酔いか!? いや、それにしてはこの猛烈な喪失感と、内臓を直接鷲掴みにされるような不快感は……ッ!)
前世において、あらゆる拷問や毒物に耐えうる精神を鍛え上げてきた彼でさえ、経験したことのない種類の焦燥感が全身を襲う。
「あらあら、お腹が空いたのね」
事態を冷静に分析しようとしていたハイドの身体を、母親が優しく微笑みながらひょいっと抱き上げた。
(ばっ、馬鹿な! 僕としたことが、気配も察知できずに背後を取られるなんて! 完全に魔力探知の網をすり抜けてきただと……!? いや、それよりこの強烈な腹の痛み……そうか、これが『空腹』……! くっ、生まれたての赤ん坊の肉体は、ここまで燃費が悪いというのか!)
母親によって柔らかな胸元に抱かれたハイドは、かつての裏社会を牛耳った男としてのプライドと、赤ん坊としての強烈な生存本能の狭間で、かつてないほど激しく葛藤した。
(くっ……冗談ではない。陰の実力者たる僕が、女の胸にすがってあられもなく母乳をねだるなど、言語道断……ッ! そのような無防備な姿、万が一にも裏切ったあの七人に見られでもしたら末代までの恥だ。僕は決して屈しない。自らの内なる魔力を循環させることで、この一時的な空腹を凌いでみせ……)
ぽいっ。
しかし、その固い決意は、口元に柔らかな感触が触れた瞬間にあっけなく崩れ去った。脳髄に直接響く「飲め」という本能からの命令。それに抗う術を、今の肉体は持っていなかった。
「ちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱ!!」
(う、ウマァァァァァァァァァ!! な、なんだこの濃厚で甘美な完全栄養食は!? 舌先から流れ込む圧倒的なカロリーが、細胞の隅々にまで凄まじい勢いで染み渡っていくゥゥ!! 前世の三ツ星シェフが作った高級スープすら凌駕する、まさに命の輝きそのものッ!)
必死に小さな両手で母親の胸を押さえ、脇目も振らずにミルクを貪り飲むその姿は、どこからどう見ても健やかで愛らしい赤ん坊そのものであった。
「ふふっ、すごい勢い。いっぱい飲むのよ。強くなるんだからね」
(ち、違う! 誤解するな母よ、これはあくまで生存戦略の一環! 陰の実力者としてこの過酷な世界を生き残るための、極めてロジカルでやむを得ないエネルギー摂取であって、決して僕が食欲に負けたわけでは……ごきゅ、ごきゅっ、ぷはぁー!)
口の端からミルクをこぼしつつ、大満足のゲップを放つハイド。
(ふん……まあいい。これで魔力回路の修復と肉体の成長エネルギーは万全だ。無駄な時間を過ごした、ただちに特訓を再開するぞ)
気を取り直し、再びベビーベッドの上で精神を集中させようとしたハイドだったが、魔王の如き暗躍計画を打ち砕く次なる試練は、すでにすぐそこまで迫っていた。
下腹部に、先ほどの空腹とは全く違う種類の、重苦しく圧迫されるような違和感。
(……む? なんだ、この下腹部の底からじわじわとこみ上げる謎の圧力は。まさか、先ほどのミルクに遅効性の毒物でも混入されていたか? それとも、急激な魔力回路拡張による副作用……いや、内圧が限界を突破しようとして……)
――ブリュリュリュッ。
(……………………え?)
静まり返った寝室のベビーベッドに響き渡る、なんとも言えない不穏かつ間の抜けた音。
と同時に、ハイドのお尻周りから腰にかけて一気に広がる生温かく、そして言語を絶する圧倒的な不快感。
(嘘だろ……。この僕としたことが……! 魔力はおろか、己の括約筋すら完全にコントロールできないというのか……!?)
尊厳が音を立てて崩れ去り、絶望のあまり虚無に染まるハイドの顔を見て、察しの良い母親がクスクスと笑いながら近づいてきた。
「あーあ、いっぱい出ちゃったみたいねー。気持ち悪いわね、今すぐすっきりしましょうねー」
(や、やめろ! 来るな! 陰の実力者が、人に己の排泄物の処理をされるなど……! 自分でやる! 魔力による『洗浄』の魔法を……ああっ、舌が回らず詠唱ができないッ! そ、そんな屈辱、耐えられないッ!!)
抵抗しようと必死にもがくものの、ハイドの短くぷっくりとした手足は、宙を虚しく蹴り上げるばかり。
熟練の母親の手によっておむつをパカッと開かれ、無防備な下半身を大気に晒された瞬間、最強の黒幕の心に一筋の熱い涙が流れた。
(殺せ……いっそ今すぐ僕を殺してくれ……。影の支配者が、お尻を優しく拭かれた挙句、ベビーパウダーをポンポンされているなんて……こんな無様な姿、世界中の誰が想像できるというんだ……)
「はい、綺麗になったわねー。ハイドちゃん、泣きもせずにお利口さんね」
(……覚えておけ。この屈辱、いつか必ず……いや、親だから百倍にして返すわけにはいかないが、とにかく何らかの形で帳尻を合わせてやる……ッ!)
狂気と野望と復讐に満ちた第二ラウンドは、赤ん坊の『生理現象』という絶対不可侵の最強の壁に阻まれ、連日連夜「ミルク・ウンチ」の過酷な無限ループに飲み込まれていくのであった。




