第39話 そして……陰の実力者はあらわれた
真の恐怖というものは、決してけたたましい悲鳴や爆音と共に訪れるわけではない。それは真綿でゆっくりと首を絞めるように、あるいは足元の薄氷が音もなく罅割れるように、極めて静かに、そして確実に幕を開けたのである。
事の始まりは、ハイドが姿を消した翌日のことだった。
王都の郊外にそびえ立つ、何世紀もの歴史と伝統を誇る魔術学院。国が誇るエリートたちを育成するその壮麗な学び舎は、常に若き魔術師たちの野心と、とめどなく溢れる魔力の喧騒に満ちていた。しかし、その朝、ひとつの小さな違和感がさざ波のように広がった。
「……おい。魔法史の担当教官が、今日一日姿を見せなかったぞ」
最初は、たった『1人』だった。
生徒たちも、他の教職員たちも、その不在を深刻には受け止めていなかった。最高学府に集う彼らには、魔術に対する絶対的な自信と、それに裏打ちされた無意識の傲慢さがあったのだ。「急な病にでも倒れたのだろう」「あるいは教会の騒ぎに巻き込まれて、異端審問官の取り調べでも受けているに違いない」。誰もがそう高を括り、温かい紅茶を飲みながらゴシップの種として消費する程度で気にも留めていなかった。
だが、その翌日。事態は急転する。
「た、大変だ! 昨夜、旧校舎を特別巡回していた風紀委員の精鋭たちが……『10人』まとめて行方不明になったそうだ!」
血相を変えた生徒の叫び声が、食堂の静寂を切り裂いた。
1人が、10人へ。
ここでようやく、学院という閉ざされた安全圏に、明確なパニックが波及し始めた。ただの家出や無断欠勤ではない。消えたのは、並の魔物など瞬殺できる腕の立つ高学年の魔術師たちだ。彼らが10人がかりで遅れをとる事態など、到底考えられない。
何より生徒たちを心理的な恐慌状態へと追いやったのは、争った形跡も、一切の魔力的な痕跡すらも残されていなかったという異常な事実だった。高度な防御結界が張られた学園内で、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように、彼らは煙のごとく消え去ったのだ。
かくして、国が誇る最高峰のエリート育成機関は、たった数日にして一切の生命反応が存在しない、完全な『無人のゴーストタウン』と化していたのである。
* * *
厚い雲が月を隠し、死の気配だけが濃密に立ち込める夜。
静まり返った不気味な旧校舎の廊下を、一切の足音を立てずに進む複数の影があった。
「……不気味なほど、静かなものだな」
「ああ。何百人もの優秀な魔術師が、抵抗の痕跡すらなく消え去っている。異常という言葉すら生ぬるい」
彼らは、ノノからの緊急報告を受け、裏社会の組織から派遣された精鋭の調査部隊であった。闇に紛れ、数々の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の暗殺者たち。しかし、彼らの研ぎ澄まされた直感は、この空間に足を踏み入れた瞬間から、絶えず警鐘を鳴らし続けていた。
床には読みかけの魔導書が落ち、食堂のテーブルには手付かずの食事が冷めきって放置されている。つい先刻までそこに日常があったことを示す生々しい背景が、かえって「唐突な絶対的消失」の異常さを際立たせ、彼らの精神をじわじわと削り取っていた。
「警戒を怠るな。ノノの報告にあったアテルの転生体が、力を取り戻すために学園中の人間の魂を丸ごと喰らった可能性がある」
隊長の低い声に、部下たちが無言で頷く。張り詰めた極限の緊張感の中、彼らは武器の柄を握りしめ、冷たい夜風が吹き抜ける中庭へと足を踏み入れた。
雲の切れ間から、青白い月光が石畳を照らし出す。その時だった。
「――フッ。遅かったな、招かれざる客たちよ」
背筋が凍るような、低く、しかし絶対的な強者の余裕を孕んだ声が、頭上から降り注いだ。
ただの音声ではない。それは鼓膜を通り越し、直接脳髄を鷲掴みにするような、濃密な殺気と途方もない魔力を帯びた『死の宣告』だった。
「なっ……!?」
歴戦の暗殺者たちが、一斉に息を呑み、声のした方角を見上げる。
中庭を見下ろす、天高くそびえる時計塔。その壁面に彫られた奇怪なガーゴイルの石像の上に、月光を背に受けて佇む一つの影があった。
顔を覆う禍々しい仮面。夜の闇そのものを切り取って縫い合わせたかのような、風に翻る漆黒のローブ。
一切の隙もなく、ただそこに存在しているだけで周囲の空間ごと歪めてしまうような、次元の違う威圧感。裏社会の人間であれば、その姿を見た瞬間に己の命日を悟るという、最悪にして最強の存在。
伝説の暗殺者『絶影』の姿が、そこにあった。
暗殺者たちの心臓が、恐怖で冷たく跳ねた。狩りに来たはずの自分たちが、最初から巨大な捕食者の掌の上で踊らされていた矮小な獲物であったことを、彼らは絶望と共に悟ったのである。




