第3話 転生先は完璧な村人A!「あーうー」と笑う赤ん坊の内面は、陰の実力者
彼が死の淵で発動させた魔法が目指したのは、世界を救う輝かしい勇者でも、恐怖で世界を支配する魔王でもなく、あるいは特別な血筋と権力を持つ高位貴族でもない。
物語の本筋に決して関わることのない、世界の風景の一部。
歴史の教科書はおろか、村の記録帳にすらろくに残らないような、徹底的に平凡で、圧倒的に無害な『最弱のモブ』という立ち位置への転生だった。
***
――そして、時は流れ、場所は変わる。
温かな日差しが差し込む、のどかな辺境の村。
小鳥のさえずりと共に、吹き抜ける風が黄金色の麦畑を揺らす穏やかな音が聞こえる。遠くからは、村人たちがのんびりと農作業に勤しむ声すら響いていた。そこには、前世のアテルが身を置いていたような、血で血を洗う権力闘争も、命がけの裏工作も存在しない。
「おぎやぁぁぁぁあああ!!」
元気な産声と共に、かつてアテルと呼ばれた最強の黒幕は、無事に新たな生を受けることができた。
冷たく薄暗い、血の匂いが充満する地下の玉座の間から一転。視界はまだぼやけてうまく焦点が合わないが、どこか甘いミルクの匂いと、母親の胸の温もりに優しく包まれた空間だということだけははっきりと理解できた。
そして、見上げれば木目を剥き出しにした素朴極まりない天井。それが今の彼を取り巻く世界の全てだった。
(……成功した。意識も記憶も、前世のままだ。魔力回路の初期化も完璧に行われている)
ぼやける視界の中で、彼は歓喜に震えていた。
覗き込んでくる両親の顔は、見事なまでに平凡だった。特別な魔力のオーラも、王族特有の覇気も一切ない、ファンタジー世界によくいるお人好しな村人そのもの。「おお、可愛い俺たちの赤ん坊だ」「ええ、元気な男の子よ」と涙ぐんで喜ぶ両親の顔には、野心や陰謀など微塵も感じられない。
完璧だ。これこそが彼の求めていた、徹底的に目立たない「村人A」としての理想的な環境である。
彼は驚くべきことに、意識が明瞭になったその瞬間から、周囲に満ちる不可視のエネルギー――「魔力」を知覚することができていた。
普通の赤ん坊であれば、ただ本能のままに泣き、乳を飲むことしかできないはずの未熟な肉体。しかし、魂の格が桁違いであることや、死の淵で発動させたからか、彼はその魔力を自分の手足のようにおそろしく滑らかに操ることができた。
(ふむ……魔力回路の通りはまだ細くて最悪だが、ベースの器としては悪くない。むしろ、まっさらな状態から俺の完璧な理論で構築し直せる分、前世よりも遥かに高い到達点が見込めるな。前世では独学で力任せに拡張してしまった部分もあったが、今生ではミクロの単位から緻密に回路を編み上げることができるぞ)
彼はすでに、自身の小さな肉体に魔力を纏わせる「身体強化」すらも完璧に確認済みだった。
試しに、ふっくらとした短い指先へと極限まで魔力を集中させてみたところ、生まれたての赤ん坊の柔らかい骨格とは思えないほどの、鋼の如き硬度と爆発的な筋力が発現した。もし今、彼が少しでも魔力制御を誤って腕を振れば、自身を囲む頑丈なオーク材の揺りかごの木枠など、指弾一撃で粉砕しかねない。
いや、最悪の場合、衝撃波でこのボロい平屋の屋根ごと吹き飛ばしてしまうだろう。
――だが、そんな派手なことは絶対にしない。
「あーうー、きゃあ」
(危ない危ない。いきなり揺りかごを粉砕する赤ん坊なんて、注目を集めすぎる。「辺境の村に神童誕生!」なんて噂が広まれば、王都から騎士団や魔法使いがスカウトに来てしまうかもしれない。俺はあくまで、最底辺の無害なモブとして生きるのだ)
わざと赤ん坊らしい無垢な声を上げ、両親を安心させながら、アテルは内なる野望を滾らせる。
最強の力を持ったまま、最弱の村人として日常に溶け込む。表向きはただの農作業を手伝う平凡な青年として振る舞いながら、裏では強大な力で世界を牛耳り、あの忌々しい七人の裏切り者たちに鉄槌を下すのだ。
(ああ……たまらない。やはり『能ある鷹は爪を隠す』どころか、鷹なのにミミズのフリをして生きるこのシチュエーションこそ、陰の実力者の醍醐味だ)
これこそが彼が求めた、極上の「陰の実力者ライフ」の第一歩であった。
温かいおくるみに包まれながら、最強の力と中二病を併せ持つ最弱の赤ん坊は、誰にも気づかれないようひっそりと、しかし確かな狂気を孕んでほくそ笑んだ。




