第64話:母のノート、読めなかった頁
その夜、ノエリアは母のノートを最初の頁から、読み返した。
鑑定士になってから、幾度も開いた一冊。石への挨拶を教えてくれた母の、几帳面な字。宝石の来歴の走り書き、修復の覚え書き。——これまで彼女はそれを「母の遺した仕事の記録」として、読んでいた。
けれど、今夜は違った。
会頭ドラートの最後の毒。「あの車軸に鋸を入れよと命じたのは、あの人だ」。そして、妹の記憶。「エリスの娘が御用鑑定人か」と、母の名を口にした、モルガナ卿。——その二つを手にした今なら。読み飛ばしていた頁が、まるで別の顔を見せはじめた。
*
「……これは、鑑定の走り書きでは、ございませんわ」
彼女はある一頁で指を止めた。
一見、宝石の重さと寸法を書き留めただけの無味乾燥な数字の羅列。けれど、その数字を注意深く辿ると——それは、七耀の大宝冠の七つの主石の正しい寸法だった。二十年前、すり替えられる前の、本物の。母は真作の記録を鑑定の数字に紛らせて、遺していたのだ。いつか、すり替えを証明できるように。
「お母様は証拠を遺しておられましたのね」
ノエリアの声が、震えた。
「いつか、誰かが真作を取り戻したとき。この寸法と照らし合わせれば、本物だと証明できるように。——二十年後の娘のために」
さらに頁を繰る。別の一頁にはこうあった。
『管理官どのに、面会を申し入れた。七つの主石について、直接、問い質すために。返答は来週の雨の日にと。……気が進まない。けれど、これはわたし一人が視てしまったこと。わたしが確かめねば』
来週の雨の日。
母が殺された、あの雨の夜。母はモルガナ卿に直接、会いに行こうとしていた。七つの主石のすり替えを問い質すために。そして——その約束の、雨の夜に、車軸に、鋸を入れられた。
*
「……独りで行こうとなさったのですわ」
ノエリアはそっと頁を撫でた。
「誰にも信じてもらえず、証も立てられず。ただ一人の眼で真実に辿り着いて。それを相手に直接、問い質しに。——お母様。あなたは、勇敢すぎましたわ。そして、独りでありすぎましたの」
二十年前の母の最後の日々の輪郭が、今、娘の前に像を結んでいた。母は偶然の事故で死んだのではない。真実にいちばん近づいた者として、消されたのだ。娘が二十年後に同じ真実へ辿り着き、けれど、独りではなく——工房と、仲間と、証と、共に辿り着くことをまるで信じていたかのように。証拠を遺して。
背後に足音がした。ルキウスがいつものように傍らへ来た。
「……何か、視えたか」
「ええ。母は証拠を遺しておりましたわ。真作の寸法を鑑定の数字に紛らせて。そして——雨の日に、モルガナ卿に、直接会いに行こうとして、消されましたの」
彼女は顔を上げた。涙はなかった。堪えていた。けれど、その眼には二十年分の静かな決意が満ちていた。
「わたくしは母と同じ轍は踏みませんわ。独りでは、参りませんもの。証を揃えて。仲間と共に。——お母様が遺してくださった、この寸法をいつか、取り戻した真作と照らし合わせて。すり替えを公の場で証明いたしますわ」
*
ノエリアはノートを閉じようとして——ふと、手を止めた。
いちばん最後の頁。途切れた走り書き。『七つの主石、すべて——』で終わっている、あの頁。
その、裏側。
これまでめくることもなかった、最後の頁の裏。灯りを斜めに翳してみると。
そこにごく薄く、鉛筆でもう一行、書かれているのが、視えた。二十年の間に擦れて、ほとんど消えかけた、母の、最後の走り書きが。
「……何か、書いて、ございますわ」
ノエリアは白手袋の指でそっとその頁を灯りのいちばん良い角度へ傾けた。
二十年、誰にも読まれず、娘が辿り着くのを待っていた、一行が。
「——お母様のいちばん最後の言葉が」
証拠を遺すというのは、難しいものですのよ。目立てば消されますし、隠しすぎれば誰にも見つけてもらえません。……お母様は寸法の羅列に紛れさせましたわ。鑑定人の娘になら読める形で。
薄くなった鉛筆を読むこつは、灯りを斜めに翳すことですの。真上から照らすと、かえって見えませんのよ。……いろいろなことが、そうですわね。
次回、第2部・完結でございます。最後の一話まで、どうぞお付き合いを。【ブックマーク】と【☆評価】と共に。




