第65話:宵闇の工房、次の灯りへ
灯りをいちばん良い角度へ傾ける。
母のノートの最後の頁の裏。二十年の間に擦れて、消えかけた、鉛筆の走り書きが、ゆっくりと浮かび上がってきた。ノエリアは白手袋の指でそっとその一行を辿った。
『——モルガナ卿。七つの真実をこの人に問う。もし、わたしが問い返せなかったなら』
そこで母の字は一度途切れ。そして、震える筆致でこう続いていた。
『娘よ。もし、この頁に辿り着いたなら。それはおまえがわたしの眼を継いだということ。——独りで抱えてはなりません。母は独りでした。おまえはどうか、独りでは、ありませんように』
*
ノエリアはしばらくその一行を見つめていた。
二十年前、母はこれを書いた。娘がいつか、この頁に辿り着くことを、信じて。あるいは、祈って。すり替えを問い質しに行く、その前夜に。自分が、帰れないかもしれないことを、うっすらと予感しながら。それでも、行った。真実にいちばん近い者の務めとして。
そして、娘は二十年後。母の眼を継ぎ、この頁に辿り着いた。
母の願いの通りに——独りでは、なく。
「……ええ、お母様」
彼女は静かに告げた。眼の奥は、熱かった。けれど、涙は零さなかった。まだその日ではないから。
「独りではございませんわ。ご覧くださいまし」
彼女は母のノートを抱いたまま、顔を上げた。
*
工房の夜。炉端にベンノが煙管をふかし、その足元でミルカが原石の籠を飽きもせず選り分けている。修復台の上では、取り戻された真作たち——青玉、黄玉、翠玉——が、いつか大宝冠へ戻る日を待って、静かにまばたきをした。
その傍らに、「計測の記録の突き合わせだ」と言い張るエルネストが今夜も居座っていた。窓の外の下町には、本物の灯りが戻っている。ペルラはその街で、償いの日々を歩みはじめた。
そして、隣に。
感情と温度を取り戻しつつある、宵闇の宝石公が、立っていた。もう氷ではない指先で。
「これがわたくしのいまですわ、お母様」
ノエリアは母のノートに語りかけた。
「勘当されて、独りだった娘は眼ひとつで居場所と、仲間と、妹と——そして、隣に立つ、この方を手に入れましたの。あなたが、独りで抱えた真実をわたくしはこの人たちと共に追いますわ。だから、どうか、ご安心くださいまし」
黒曜の心臓が遠い祭壇で本物の光をまばたきさせていた。二十年前の母の願いに、静かに、頷くように。
*
嵐のようなこの戦は終わった。
偽石の街に本物の灯りが戻り、庶民の弔いと祝言から、硝子が消えた。会頭ドラートは、二十年の嘘の帝国もろとも、崩れ落ちた。借り物の光に怯えた妹は、本当の声を取り戻し、姉のもとへ帰ってきた。喰われ続けた公爵の心臓は、五十年ぶりに本物の光を灯しはじめた。そして——宵闇の露台で、ふたつの想いが互いを認め合った。
工房の灯りはまた一つ、増えた。
けれど、戦が終わっても、まだ終わっていない灯りが、一つ、あった。
二十年前の雨の夜。母を呑んだあの手。会頭を道具のように使い尻尾を切って、涼しい顔で宮廷の高みへ退いた男。——モルガナ卿。
ノエリアは母のノートをそっと閉じた。宵闇色の帙に母の走り書きと、妹の白い花と、二十年分の真実を仕舞って。
「ルキウス様」
彼女は隣の彼を見上げた。その眼に、揺るがぬ決意の光。けれど、その声は凪いでいた。かつて、雨の夜に「戦争だ」と応えた、あの張り詰めた夜とは、違う。もう独りではないと知っている者の静かな強さで。
「会頭さんは、落ちましたわ。庶民も救えました。妹も帰ってまいりましたの。……ひと区切り、ですわね。ここまで本当にいろいろと」
「ああ」
ルキウスが、頷いた。戻った体温の宿る手を、彼女の肩に。
「よく、やった。——少し、休め」
「ええ。少しだけ」
ノエリアは、微笑んだ。それから、母のノートの帙を胸に抱いた。
「少しだけ休みましたら。——次はお母様の番ですわ」
窓の外、宵闇に星が瞬いていた。
二十年前に母を呑んだ雨は、もう降っていなかった。かわりに母の願った通り、独りではない娘の頭上に、静かな星空が広がっていた。
「あなたの無念を晴らしに参りますわ。七つの真実をあの人に、問いに。——石は、嘘をつきませんもの。二十年、経とうとも」
黒曜の心臓が、まばたきをした。
工房の灯りが宵闇にあたたかく、ともっていた。
次の灯りへ続く道を静かに照らしながら。
【第2部・偽宝石流通編 完】
第2部「偽宝石流通編」、これにて完結でございますわ。長らくお付き合いくださり、心より御礼申し上げます。
この部を書きますあいだ、ずっと頭にございましたのは「独り」という一語でした。母は独りで真実に辿り着き、独りで問いに行って、帰ってまいりませんでしたの。……娘のほうは、ずいぶん賑やかになりましたわ。煙管の煙も、原石の籠も、記録だと言い張る計測の函も。
ここがひとつの区切りでございます。けれど、晴らしていない無念が、一つだけ残っておりますの。二十年前の雨の、本当の手。
第3部「大宝冠編」では、お母様の遺した目録を手に、その手へ問いに参ります。残る散逸石も、呪いの残りの環も、封蝋のいちばん奥の言葉も、その先に。
続きをお待ちくださる方は、ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】を。——ごきげんよう。また次の灯りで。




