第54話:帳簿の宛名、二十年の符合
夜が、更けていた。
鑑定室に灯りをふたつ。ノエリアは、押収した帳簿と母のノートを卓の上に並べて開いた。二十年前の同じ年月を記した二冊。片や、罪を記録した几帳面な帳簿。片や、その罪を視抜こうとして、途切れた、母の走り書き。
「照らし合わせますわ」
彼女は、白手袋の指で二冊を同時に辿っていった。
帳簿の上納の宛名。崩れた印の格式。役職を示す、意匠。——宮廷宝物管理官。王家の宝物すべてを預かり、記録し、真贋を「公に定める」権を持つ、宮廷の要職。
「王家の宝を本物と定める権を持つ者が、本物を偽物にすり替えた」
ノエリアの声が、低く、掠れた。
「盗人が蔵の鍵を握っていたのですわ。だから、二十年、誰にも気づかれなかった。宝物庫の帳面には『本物』と書かれ、その帳面を書く者自身が、すり替えの差配者だったのですもの」
*
母のノートの二十年前の頁。
ノエリアは、そこを震える指で繰った。母が、大宝冠の異変に気づき、一人で調べを進めていた、あの日々の記録。宝石の来歴の走り書きに交じって、母は、こう書き残していた。
『大修復の検分に宝物管理官の立ち会いを求めたが、断られた。「修復は済んだ。検めるまでもない」と。——本物を検めさせない者が、修復を差配している。おかしい』
『管理官どのの手は、乾いて、冷たい。宝物を愛でる手ではない。値踏みする手だ。あの手が七つの主石に触れた』
母は、気づいていた。二十年前に。宝物管理官こそが、すり替えの中心だと。そして——その頁の、少し先で母の走り書きは、あの途切れた一行へと繋がっていた。
『七つの主石、すべて——』
その先が、ない。母は、この真実を書き終える前に。管理官の手が、母に届いたのだ。雨の、夜に。
「……お母様」
ノエリアの眼の奥が、熱く、滲んだ。母が、独りでこの暗闇に辿り着いていた。誰にも信じてもらえず、証も立てられず、ただ一人の眼で。そして、口を塞がれた。
けれど、彼女は涙を零さなかった。堪えた。ここで泣いては、母の遺した文字が、滲んでしまう。母の眼を娘の涙で曇らせてはいけない。
「……あなたが辿り着いた場所へ、わたくしも辿り着きましたわ。今度は独りではございませんの」
*
背後に気配がした。
ルキウスが、いつのまにか鑑定室の戸口に立っていた。彼女が、母のノートに向かう夜は、いつもそっと傍にいてくれる。感情の戻った、その瞳で彼女の背中の震えを見ていた。
「……無理をするな」
彼は、灯りの輪のなかへ歩み寄った。そして、母のノートの上に置かれた、彼女の白手袋の手にそっと自分の手を重ねた。
温かい手だった。もう氷ではない。
「二十年前、お前の母親は独りでこれを抱えた。……だが、お前は独りではない。ベンノがいる。ロッシュも、妹御も。工房の皆も。そして——」
彼はそこで言葉を切った。感情が戻ったぶん、その先の言葉が、喉の奥でつかえていた。名づけられない想いに、まだ名を与えられずに。
「……そして、わたしが、いる」
ノエリアは、重ねられた温かい手を、そっと握り返した。胸の内の封蝋が、大きく大きく軋んだ。もうほとんど、限界だった。あとひと押しで開いてしまいそうな。
けれど、二人とも、まだその言葉を口にしなかった。母の真実のいちばん核心を目前にした、この夜には。それは、この暗闇を越えた先で。
「……ありがとう存じますわ、ルキウス様」
彼女は、それだけ、言った。その一言に封蝋の軋みのすべてを込めて。
*
二人は、しばらく手を重ねたまま、母のノートを見つめていた。
やがてノエリアが顔を上げた。
「あとひとつですわ。この、崩れた印の——宛名の、名前。役職は宮廷宝物管理官と分かりましたの。けれど、二十年前、その職にあった者の、名は。会頭さんの背後で母を雨に沈めた者の名は」
彼女は、帳簿の崩れた印にもう一度、指を這わせた。乾いた、冷たい手の気配。宮廷の石の匂い。二十年前の雨。——その、いちばん奥にひとつの名が。
「……明日、宮廷の二十年前の役職名簿を、検めますわ。これだけの手がかりが揃えば、名は必ず浮かびますの」
灯りがふたつ、静かに揺れた。母の遺した暗闇のいちばん奥の扉に娘の手が、今、掛かろうとしていた。
真贋を定める権を持つ方が偽物を置いてしまったら、もう誰にも見破れませんの。帳面に「本物」と書いてある限り、それは本物ですもの。……鑑定という商いがこの世に要るのは、たぶん、そのためですわ。
母の字は、途中から筆圧が変わっておりましたのよ。急いで走らせた頁と、迷いながら置いた頁。二十年前のあの人の呼吸が、そのまま残っておりますわ。
次回、第5章の締め。宛名の名が出ますの。封蝋の落ちる音を聞いてくださる方は、【ブックマーク】と【☆評価】を。




