第50話:目覚めの朝、色が戻る
ルキウスが目を覚ましたのは、新月の夜が明けて、丸一日が経った、翌朝だった。
寝台の傍らでノエリアは、まんじりともせず、夜を明かした。黒曜の心臓を——本物の光を取り戻しはじめた、あの石を枕元に置いて。石はもう軋まなかった。時折、静かに、まばたきをするように、角度で翳るだけ。
朝の光が、窓から差し込んだとき。
ルキウスの睫毛が震えた。
「……ルキウス様?」
彼の瞳がゆっくりと開いた。紫水晶の瞳が天井をしばらく見つめて。それから、彼はひどく戸惑ったような、掠れた声で呟いた。
「……朝の、光が」
「はい」
「……眩しい。……こんなに眩しかったか。朝は」
ノエリアの息が詰まった。
感情が、戻っている。喰われて、遠のいていた、当たり前の感覚が。眩しいという、ただそれだけのことを、彼は今、久しぶりに、本当に、感じていた。
*
医者が呼ばれ、脈を検め、首をかしげた。
「……昨夜まで命の抜けかけていた方とは、思えません。むしろ、血の巡りが以前よりよろしい。指先まで温かい。……いったい何が」
医者には、説明のしようがなかった。ノエリアも、しなかった。これは、鑑定のいちばん深いところの出来事。医術の言葉には、乗らない。
医者が去るとルキウスは自分の手をじっと見つめた。
開いて、閉じて。指先を頬に当てて。
「……温かい」
彼の声が、震えていた。
「わたしの指が温かい。……生まれてから、一度も、そうではなかったのに。冷たいのが当たり前で。何を見ても、心が遠くて。喜びも、怒りも、霧の向こうで。それが——」
彼は言葉を切った。感情の戻った瞳で傍らのノエリアを見た。まるで初めて、彼女の姿をはっきりと見るかのように。
「……お前が、視てくれたのか。あの石のいちばん深いところを」
「石が、話してくれましたのよ」
ノエリアは、微笑んだ。夜を徹した疲れの滲む、けれど、心からの微笑みで。
「あなたの石は、五十年、独りで飢えておりましたの。恐れられて、疎まれて。誰も挨拶ひとつ、しなかった。……ですから、いたしましたわ。ごきげんよう、と。それだけのことであの石は少しだけ満たされましたの」
*
窓の外の庭でミルカとベンノの声がした。当主の目覚めを聞きつけたのだ。ミルカが、泣きながら笑いベンノが、煙管を口の端で震わせている。工房じゅうが安堵に包まれていた。
「……世界が」
ルキウスが窓の外を見た。
「色を持っている。庭の緑が空の青が。……こんなに鮮やかだったのか。わたしは五十年——いや、生まれてから、ずっと褪せた世界を見ていたのだな」
「これから、少しずつ戻りますわ」
ノエリアは、彼の手のひらを見ながら言った。
「呪いはまだ完全には解けておりませんの。契約の環が大きくひとつ、外れただけ。全部を解くにはまだ年単位の調べが要りますわ。……ですけれど、いちばん深いところは、越えましたのよ。あとはゆっくり。あなたのお心が、端から端まで、あなたのものに戻るまで」
ルキウスは、しばらく彼女を見つめていた。それから、戻ったばかりの体温の宿る手を、そっと伸ばした。彼女の手を取るでもなく。ただ、その手袋の縁に指先を触れさせて。
「……ノエリア。ひとつ、頼みがある」
いつもの「対価を言え」では、なかった。命じるのでも、買うのでもなく——彼が、初めて、彼女に何かを請うていた。
「これまでわたしはお前にいろいろなものを贈ろうとして、断られてきた。耳飾りも、椅子も、ルーペも。……今度は逆だ。わたしがお前にもらいたいものがある。だが——それを何と呼べばいいのか、まだ言葉が見つからない。感情が戻ったばかりで」
彼はそこで口をつぐんだ。戻ったばかりの心が、名づけられないものに、戸惑っていた。
「……その言葉が、見つかりましたら」
ノエリアの胸の内で封蝋が大きく軋んだ。けれど、彼女はまだ開けなかった。あともう少し。彼の心が完全に彼のものに戻ったと確かめられるまで。
「……そのときに伺いますわ。ゆっくりでよろしくてよ」
*
その、穏やかな午後の終わりに。
ノエリアの眼にふたたび、静かな火が灯った。
「ルキウス様。お心が落ち着かれましたら、聞いてくださいまし。——今度こそ、会頭さんを逃がしませんわ」
彼女は、掘り出した共鳴の仕掛けと、叩き壊された増幅装置の残骸を、卓に並べた。
「これは事故でも、病でもございませんわ。あなたの心臓を狙った、明白な殺人未遂ですの。庶民への偽物商売は『部下が勝手に』で逃げられても——公爵その人の暗殺は、そうは参りませんわ。この仕掛けの銘を辿れば、会頭さんの首根っこに届きますのよ」
本物の光を取り戻した黒曜の心臓が、二人のかたわらで、ゆっくりとまばたきをしていた。
朝が眩しいということを、生まれてこのかた知らずにいらした方もおいでですのね。……わたくしどもは、ずいぶん贅沢に朝を浪費しておりますこと。
あの方ときたら、もらいたいものがあるけれど名前がまだ分からない、ですって。鑑定人といたしましては、来歴の知れない品を受け取るわけには参りませんわ。ええ、待ちますとも。
次回、追い詰めを再開いたします。お供に【ブックマーク】と【☆評価】を。




